2012年10月15日
アフガン兵たちとの交流Part2
ラゼックが聞いてきた。
「ノダ、君はハザラ人みたいな顔をしているが、本当にフランス兵なのか?」
ハザラ人とは、アフガニスタンに住む民族のひとつで、モンゴル人のような顔をした人が多いという。
「フランス軍に所属しているけど、日本人なんだ。フランス軍には外国人を受け入れる部隊があって、そこに所属している。」
そう私が答えると、ラゼックがさらに聞いた。
「私もそこに入隊できるか?」
「試験に受かればOKだが、まずはフランスに行く必要がある。アフガンから行くのにはビザが要る。発給してもらえるかどうかが問題だな。」
そんな会話をしながら、我々は料理をすべて食べ終えた。3人で1皿を食べたので、腹は満たされなかったが、アフガン兵とのあいだに絆が生まれたことが嬉しくて、胸いっぱいになった。ラゼックは、礼を述べる私に茶を飲むように言い、我々は調理場に入った。
今度は地面にしゃがまず、皆でイスに座った。私は青いプラスチックのイスに座り、ラゼックは金属の棒を溶接してこしらえた即席のイスに座った。炊事兵がカマドのほうからやってきて、お盆に載った透明なコップに入った黄色っぽいお茶を私とラゼックに配った。そして彼自身のコップを持ち、即席の金属イスに座った。
コップの中を見ると、底に砂糖が小山を成して沈殿していた。以前、軍医のプルキエ少佐が、「アフガン人は茶に大量の砂糖を入れるが、混ぜない」と言っていたことを思い出した。まったくそのとおりだ。
私は飲んだ。


「うまいよ。ありがとう。」味の感想は本音ではなかった。あきらかにフランス軍ラッション(携帯糧食)に入っているミントティーの味だ。COPでともに生活しているOMLTのフランス兵にもらったのだろう。重要なのは味ではなく、彼らからの優しさなので、「ありがとう」というのは本音だった。
炊事兵がラゼックにダリ語で何かを話したと思うと、ラゼックが通訳して私に言った。
「アフガニスタンは好きか、と聞いているよ。」
「ああ、好きだ。」
アフガニスタンに到着して日数がそんなに経っていないので、正直、好きか嫌いか判断できなかったが、彼らが気を悪くしないように、笑顔でそう答えた。そして、理由を添えないと説得力がないと考え、さらに言った。
「山が美しい。日本もアフガニスタンみたいな山国だ。」
すると、ラゼックが言った。
「Japan is Peace Country. Afghanistan is War Country(日本は平和な国。アフガニスタンは戦争の国)」
これを聞いたとき、胸が痛くなった。私はこの国へ、戦争するために来ている立場だが、彼らのことがかわいそうだと思った。そして言った。
「今は戦争中だけど、いつか発展していい国になるから、希望を捨てるな。日本だって、第2次世界大戦のあとは、英米に占領されてたけど、やがて発展したんだよ。アフガンだってそうなれるさ。」
彼らを元気づけるにはよい例えだったが、アフガンが本当に平和になるかどうか、私にはわからない。正直、そうは思えない。また彼らに嘘をついてしまい、良心が少し痛んだ。彼らの反応があまりなかったので、さらに私は言った。
「戦争で日本は本当にひどい状況だったんだよ。」
すると炊事兵が強い口調で言った。
「ヒロシマ!ナガサキ!」
「そう!原爆だ!」
こんな末端のアフガン兵が原爆のことを知っているとは驚いた。
そういえば、2006年2月から6月に派遣されていたアフリカ・コートジボワールで、熱帯雨林にある村の16歳の黒人少年と話をしたら、広島と長崎を知っていたし、広島については、原爆が投下された年月日だけでなく、爆発した時刻も知っていた。
日本が世界に平和メッセージを発信していることの証明だと思う。すばらしいことだ。しかし、日本人の側は、世界からのメッセージを受信しているだろうか。まだまだ世界は平和ではないことを意識している日本人は、いったいどれだけいるのだろう。
私はあまり歴史や国際情勢に詳しくないので、偉そうに言えないのだが、平和メッセージを発信するだけでなく、戦争のある国からのメッセージを受信することも大切だと感じた。
ミントティーが残り少なくなり、糖度がやたら濃くなったころ、中隊長と第3小隊の連中がVAB群のところに戻ってきたことが、聞こえてくる音や会話でわかった。
「そろそろ行かないと。」
私は立ち上がり、お茶を飲みほした。溶けきれていない砂糖が少し、舌にのり、ジャリッとした。私は最後に言った。
「いろいろありがとう。話ができて本当によかった。」
2人は立ち上がり、ラゼックが言った。
「僕らもだ。また来てくれ。」
私は調理場を出て、VABに戻った。15分後に出発だ、という命令が伝達でまわってきた。VABの後部内側の座席に、プルキエ少佐とオアロ上級軍曹が座り、携帯コンロで沸かした湯で入れたコーヒーを飲んでいた。フランス人は本当にコーヒーが好きだ。もし、ここがイギリス軍なら、ミルクを入れた紅茶だったに違いない。
そんなことを思いながら、私はアーマーを着用した。どこかに行っていたミッサニ伍長も戻ってきた。VABが1台、また1台と、エンジンをかけ始めた。コーヒーセットを片づけた少佐と上級軍曹は、ミッサニとともにアーマーを着て車内の持ち場についた。
「出発。」
無線から中隊長の声がして、我々はCOPフォンチーを出発した。そして、もと来た道を、やはり緊張しながら、FOBトラへと帰還した。何の問題もなく、無事に到着した。何も起きなければ、モロッコの田舎をドライブするような感じではないだろうか。
この初任務は、アフガン兵たちのおかげで、予想をはるかに超える楽しさだった。これから6ヶ月、楽しみだ。今度、COPに行くときは、ラゼックたちのため、ジュースやお菓子をお土産に持って行こう。

←アフガン国軍の車両と機関銃「ダッシュカー」
←COPの小便器
つづく
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
「ノダ、君はハザラ人みたいな顔をしているが、本当にフランス兵なのか?」
ハザラ人とは、アフガニスタンに住む民族のひとつで、モンゴル人のような顔をした人が多いという。
「フランス軍に所属しているけど、日本人なんだ。フランス軍には外国人を受け入れる部隊があって、そこに所属している。」
そう私が答えると、ラゼックがさらに聞いた。
「私もそこに入隊できるか?」
「試験に受かればOKだが、まずはフランスに行く必要がある。アフガンから行くのにはビザが要る。発給してもらえるかどうかが問題だな。」
そんな会話をしながら、我々は料理をすべて食べ終えた。3人で1皿を食べたので、腹は満たされなかったが、アフガン兵とのあいだに絆が生まれたことが嬉しくて、胸いっぱいになった。ラゼックは、礼を述べる私に茶を飲むように言い、我々は調理場に入った。
今度は地面にしゃがまず、皆でイスに座った。私は青いプラスチックのイスに座り、ラゼックは金属の棒を溶接してこしらえた即席のイスに座った。炊事兵がカマドのほうからやってきて、お盆に載った透明なコップに入った黄色っぽいお茶を私とラゼックに配った。そして彼自身のコップを持ち、即席の金属イスに座った。
コップの中を見ると、底に砂糖が小山を成して沈殿していた。以前、軍医のプルキエ少佐が、「アフガン人は茶に大量の砂糖を入れるが、混ぜない」と言っていたことを思い出した。まったくそのとおりだ。
私は飲んだ。
「うまいよ。ありがとう。」味の感想は本音ではなかった。あきらかにフランス軍ラッション(携帯糧食)に入っているミントティーの味だ。COPでともに生活しているOMLTのフランス兵にもらったのだろう。重要なのは味ではなく、彼らからの優しさなので、「ありがとう」というのは本音だった。
炊事兵がラゼックにダリ語で何かを話したと思うと、ラゼックが通訳して私に言った。
「アフガニスタンは好きか、と聞いているよ。」
「ああ、好きだ。」
アフガニスタンに到着して日数がそんなに経っていないので、正直、好きか嫌いか判断できなかったが、彼らが気を悪くしないように、笑顔でそう答えた。そして、理由を添えないと説得力がないと考え、さらに言った。
「山が美しい。日本もアフガニスタンみたいな山国だ。」
すると、ラゼックが言った。
「Japan is Peace Country. Afghanistan is War Country(日本は平和な国。アフガニスタンは戦争の国)」
これを聞いたとき、胸が痛くなった。私はこの国へ、戦争するために来ている立場だが、彼らのことがかわいそうだと思った。そして言った。
「今は戦争中だけど、いつか発展していい国になるから、希望を捨てるな。日本だって、第2次世界大戦のあとは、英米に占領されてたけど、やがて発展したんだよ。アフガンだってそうなれるさ。」
彼らを元気づけるにはよい例えだったが、アフガンが本当に平和になるかどうか、私にはわからない。正直、そうは思えない。また彼らに嘘をついてしまい、良心が少し痛んだ。彼らの反応があまりなかったので、さらに私は言った。
「戦争で日本は本当にひどい状況だったんだよ。」
すると炊事兵が強い口調で言った。
「ヒロシマ!ナガサキ!」
「そう!原爆だ!」
こんな末端のアフガン兵が原爆のことを知っているとは驚いた。
そういえば、2006年2月から6月に派遣されていたアフリカ・コートジボワールで、熱帯雨林にある村の16歳の黒人少年と話をしたら、広島と長崎を知っていたし、広島については、原爆が投下された年月日だけでなく、爆発した時刻も知っていた。
日本が世界に平和メッセージを発信していることの証明だと思う。すばらしいことだ。しかし、日本人の側は、世界からのメッセージを受信しているだろうか。まだまだ世界は平和ではないことを意識している日本人は、いったいどれだけいるのだろう。
私はあまり歴史や国際情勢に詳しくないので、偉そうに言えないのだが、平和メッセージを発信するだけでなく、戦争のある国からのメッセージを受信することも大切だと感じた。
ミントティーが残り少なくなり、糖度がやたら濃くなったころ、中隊長と第3小隊の連中がVAB群のところに戻ってきたことが、聞こえてくる音や会話でわかった。
「そろそろ行かないと。」
私は立ち上がり、お茶を飲みほした。溶けきれていない砂糖が少し、舌にのり、ジャリッとした。私は最後に言った。
「いろいろありがとう。話ができて本当によかった。」
2人は立ち上がり、ラゼックが言った。
「僕らもだ。また来てくれ。」
私は調理場を出て、VABに戻った。15分後に出発だ、という命令が伝達でまわってきた。VABの後部内側の座席に、プルキエ少佐とオアロ上級軍曹が座り、携帯コンロで沸かした湯で入れたコーヒーを飲んでいた。フランス人は本当にコーヒーが好きだ。もし、ここがイギリス軍なら、ミルクを入れた紅茶だったに違いない。
そんなことを思いながら、私はアーマーを着用した。どこかに行っていたミッサニ伍長も戻ってきた。VABが1台、また1台と、エンジンをかけ始めた。コーヒーセットを片づけた少佐と上級軍曹は、ミッサニとともにアーマーを着て車内の持ち場についた。
「出発。」
無線から中隊長の声がして、我々はCOPフォンチーを出発した。そして、もと来た道を、やはり緊張しながら、FOBトラへと帰還した。何の問題もなく、無事に到着した。何も起きなければ、モロッコの田舎をドライブするような感じではないだろうか。
この初任務は、アフガン兵たちのおかげで、予想をはるかに超える楽しさだった。これから6ヶ月、楽しみだ。今度、COPに行くときは、ラゼックたちのため、ジュースやお菓子をお土産に持って行こう。
つづく
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
Wikipediaでは入隊条件が中等教育修了が条件なのですが外人部隊のホームページでは学歴は関係ないと記載してあります。どちらが正しいのでしょうか?よろしければ教えてください。
まあ、私も外人部隊当局の人間ではないのでハッキリとは言えませんが、外人部隊のホームページのほうがWikiより説得力はあると思いますよ。
という言葉重いですね。
外人部隊には、状況の悪い祖国から逃げるために入隊する人たちがいるのも事実です。