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Posted by ミリタリーブログ  at 

2013年08月26日

戦傷者Part6

はじめに

本日をもちまして、アフガン連載のほう、無期限休止させていただきます。理由は本業が忙しく、連載を続ける余裕がなくなったからです。
山岳任務や米軍特殊部隊・ルーマニア軍特殊部隊との合同任務なんかについても書きたかったのですが、将来、余裕ができて、機会をいただけたらにします。
連載を楽しみにしてくださっていた皆様には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなんですが、自分の生活を成立させるためには仕方がありません。
とりあえずは、今のエピソードの戦傷者事例が私のアフガン体験で一番重要なものでしたので、それがお伝えできて良かったと思っています。特に、自衛隊のかたがたの参考になっていれば幸いであり、光栄です。

それでは、どうぞ。

――――――――――


 プルキエ少佐は担架搬送のための支援要員を確保するため、数十メートル離れたところで待機している工兵小隊に応援を要請した。6人くらいが来た。第4小隊の戦闘員も6人くらい来ている。それに加え、少佐、上級軍曹、ミッサニの3人が担架搬送をする。私はアンビュバッグを放せないので、担架のキャリングハンドルを握ることはない。

 キャリングハンドルは8つしかないので、全員が同時に搬送作業をすることはない。8人が搬送し、疲れた者からどんどん交替し、腕を休ませながらついてきて、再び交替し搬送するというローテーションを繰り返す。

 少佐たちが地面に置いていたバックパックを背負う。私はアンビュバッグを少しだろうと止めたくないので、背負わない。私は、戦闘員の1人でルーマニア人のエナケに私のA3パックを背負うように頼んだ。

 彼は自分のバックパックを持ってきておらず、私のA3を背負う余裕があった。任務前のブリーフィングで、この任務は12時には終わると説明を受けていたので、バックパックを装甲車に置いてきた兵士が多かったのだ。

 何もなければ12時に終わっていたかもしれないが、銃撃戦があったうえに負傷者が発生したため、すでに15時頃だ。
 我々は担架を持ち上げた。担架の前方のハンドルを上級軍曹がつかみ、後方をミッサニがつかんだ。左右は工兵たちが担当する。

 我々は速歩きで搬送を開始した。私はアンビュバッグが外れないようにハンドルをつかむ兵士たちの動きに速度やアンビュバッグの位置を調節する。負傷者を持ち上げなくてもいいので、重さは感じないが、この作業は演習で何度もやったことがあるので、他の兵士たちの感じる重さはおおよそわかる。

 我々は両側が土塀の路地を進んだ。すぐに土塀が崩れた見渡しの良い場所に来た。通路の両側は麦畑だ。次に土塀のあるところまで50mほどある。開けた地形なので狙い撃ちされる危険があるかもしれないが、ここを通らないと脱出できない。

 ところどころ、土塀が崩れきっていない箇所が4つほどあり、そこに第4小隊の戦闘員たちが北に向かってFAMASやMINIMIを構え、我々を援護していた。

 我々は進んだ。若干、速度が上がった気がした。敵が狙っているかもしれないような場所にいるのは気分が悪い。誰だって早く通過したいと思うはずだ。

 50mほど進み、再び路地は両側を土塀に囲まれた。土塀の上から銃撃を受けたりする可能性もゼロではないが、遠くから狙撃されたり、流れ弾が当たる可能性は低いだろう。もし、土塀越しに敵が現れたら、担架の2mほど先を行く、護衛を務める戦闘員がうまく対処してくれるよう、期待している。

 さらに50mほど進むと、小川があった。村の中まで引かれている灌漑用水だ。幅が2mほどあり、ちょっとした運河としても使えそうなくらいだ。水が灰色に濁っており、深さはわからない。

 我々の進む路地は橋となって、その川を越えている。橋の先はT字路になっている。我々は橋を渡った。幅が1.5mほどあるので、難なく渡れた。路地両側の土塀は橋の手前までで無くなったが、今いる地点は周辺家屋に囲まれているおかげで、ひらけた場所ではない。

 我々はT字路を左に進んだ。ここからが問題だった。通路の左側は川で、右側は泥の溜まった溜池だった。しかも路地の幅が1mくらいしかない。皆、カニのように横向きに歩いた。まともに正面を向いて歩くと、川か池に落ちる。10mくらい先で路地は右に曲がっていて、そこからは川もなく、幅も広いので普通に歩ける。

 我々はそこまでなんとか持ちこたえられるよう、バランスを取りながらカニ歩きをした。あと1mで右折というところで、路地の右側に土塀があり、さらに悪いことに、道幅が20㎝ほど狭くなっていた。



 私を含め、担架の右側にいた者は少し左に寄らざるをえなかった。おのずと左側の者が川に向けて押されることになる。最初の被害者はMINIMI担当の工兵だった。彼は「くそっ」と言って、後ろにのけぞった。

 私は左手で彼の右腕をつかんだ。
「いいんだ。俺は水に入る。」

 彼はそう言って、濡れずにいることを放棄し、落ちるように川に入った。右側にいるもう2人の工兵たちも川に入った。川は意外と深く、水深は彼らの胸のあたりまであった。私は自分が担架の右側にいて良かったと安心した。
 
 3人の工兵たちは胸まで川に浸かったが、キャリングハンドルを放さず、手を高々と上へ伸ばし、負傷者が担架の傾きで滑り落ちないように努めてくれていた。

 私はこの3人の献身的な行為に感動した。外人部隊とフランス正規軍は別々のように見なされるが、彼ら正規軍の工兵たちは、今、外人部隊の負傷者のために必死になっている。我々は異種の部隊どうしだが、協力しあえる。私の中に、フランス正規軍に対する感謝の気持ちが生じた。

 1mほど川を進むと、3人は順番に上陸し、通常の歩き方で搬送を再開した。

「交替しよう!」
 そう言って、次々に後ろから交替要員が名乗り出た。ハンドルを持つ8人が代わる。私はアンビュバッグをつづける。空気の送りかたが特殊なので、交替すべきではないと判断した。それに、私は負傷者の体重の影響を受ける役割ではないので、彼らほど疲労困憊はしていない。

 やがて家屋のある地域から出て、麦畑地帯に出た。200mほど突き進めば荒野に出て、さらに200mくらいでCOP51の敷地に入る。

 まだ穂の生えていない若い麦が足にまとわりつき、歩きにくい。しかも、地面が凸凹しているので、転倒したり、足首をひねらないように注意がいる。搬送の速度が落ちるのがくやしかった。

 さらにアンビュバッグに血が伝わってきて、私の手のところまで到達した。コンバット・グローブをしていたが、ヌルヌルと滑り、アンビュバッグが揉みにくい。ちゃんと揉むのにコツと握力が必要だ。手の筋肉が痙攣を起こしそうだ。しかし、この手を止めるわけにはいかない。

「VABが来ている!」

 誰かが叫んだ。装甲車VABが2台、麦畑を越えたところの荒野に停車しているのが見えた。我々から直線距離で100mくらいの位置だ。ところどころに低い土塀があったり、ケシが生い茂っていて、そこに向かって直進はできない。

 やがて平らで広いあぜ道に出た。あと数十メートルで荒野に出る。そのあとは50mくらい進めば装甲車だ。

 麦畑と荒野のあいだに幅2mくらいの小川があった。残念なことに橋がない。水はキレイで底も見える。水深20㎝くらいだ。
 「くそっ」と思った。せっかくここまで足を濡らさずにきたのに、最後に濡らすことになるなんて。

 我々は“ジャブジャブ”と川を進んだ。3、4歩だけだったが、靴下に水が浸みてきた。
 川を越え、右に曲がり、VABを目指すと、VABのほうから第1小隊の兵士が折り畳みの強固な担架を持って、駆けてくるのが見えた。その姿は頼もしかった。

 彼は、我々と合流する前に立ち止まり、担架を広げ、地面に置いた。担架の準備ができると同時くらいに我々はたどり着き、フォックストロット担架ごと、負傷者を強固な担架の上に降ろした。

 担架は第1小隊の隊員2人が運ぶ。頑丈な棒が左右に2本通っているので、前後に1人ずつの2人で運べる。アンビュバッグは引きつづき、私が操作する。

 2人の歩く速度は遅かった。私のアンビュバッグ操作を考慮に入れているのだ。
「もっと速く行っていい!」
 私が言うと、小走りになった。

 VABまでの距離が30mほどに詰まった。本部中隊の医療小隊に属するVABが、開いた後部扉をこちらに向けて待っている。扉のそばに連隊の軍医長を務めている大佐が立っており、なかには看護官の上級曹長と、衛生隊員の上級伍長がいる。

「VABに載せろ!」
大佐が言った。

「VABのなかだ!VABのなか!」
 私は大佐の指示を、搬送している2人が確実に理解するように言った。

 我々はVABに到達し、後部扉から後部スペースの床に担架を50㎝ほど滑り込ませた。
 なかの上級伍長がアンビュバッグを受け継ごうと、手を伸ばす。私は、プルキエ少佐が指示した速くて浅い空気の送り方を示し、言った。

「こうやるんだ!少佐がそう言った !」
「よし、わかった!」
 私はアンビュバッグを放し、彼に託すと、担架から数歩さがった。担架は中の上級曹長に引かれ、外からは搬送してきた兵士や大佐によって押され、VABに完全に収納された。

 大佐は観音開きの後部扉の片方を閉めると後部スペース内に飛び乗った。私はもう片方の扉を閉めた。担架を運んできた兵士が重い扉を押し、手伝う。

 VABはすぐさま発車し土埃をたてながら、COP51のほうへ走っていった。

 私は発車せずに残っているもう1台のVABに向かう。我々医療班のVABだ。車両整備班の操縦士が運転してきてくれた。7.62mm機関銃の銃座には同班の上級軍曹がいる。
「負傷したのは誰だ?」
上級軍曹が私に尋ねる。

「わかりません。顔が変形していたので・・・。」
 プルキエ少佐をはじめ、負傷者搬送に携わった兵士たちがVABの近くに到着した。少佐のそばには通信兵がおり、そのバックパックの中の無線機から伸びる受話器を片手に、もう片方の手にある紙を見ながら、少佐は無線で通話している。

 負傷者の情報を伝えているのだ。
「名前はハブリック・・・。」
 この瞬間、私はやっと負傷者が誰かを知ることができた。

 少佐が情報を伝え終わったとき、ようやく我々第3中隊の救命活動は終了した。ハブリック一等兵を運んだ兵士たちは、切らした息を整えようとしている。私はVABの屋根にあがり、保管スペースから水のボトルを皆に投げて渡した。

 ハブリックの担架搬送の距離は500m弱だったと思う。2008年11月にアフリカ・ガボン共和国のジャングルで参加したコマンド訓練の最終想定で、4kmの距離を小隊の皆で代わるがわる大きな隊員を担架搬送したことがある。当時は、「こんな長距離を運ばせやがって」と皆で文句をつぶやいたが、今回の実戦での搬送において、その経験が精神的に支えとなった。あのときよりはマシだったからだ。

 数時間後、夕方になり、薄暗いなか、村に入った全員がCOP51に帰還し、それぞれのVABに戻った。我々医療班がVABに戻ると、本部中隊・衛生小隊の看護官が現れて言った。

「ヘリコプターのなかで彼は死んだよ。」

 VABでCOP51に運ばれたあと、フランス軍のヘリコプターに載せられ、カブールの国際部隊病院に搬送される途中だった。

「くそぉ・・・。」
ミッサニが静かに落胆の声を漏らす。

 その後、しばらく医療班は沈黙に包まれていた。責任感や道徳心の強いミッサニは見るからに落ち込んでいた。私は心配になったが、何も言わなかった。へたなことを言って、余計に落ち込ませることになるかもしれない。誰もが黙っていた。

 私自身は、「救えない命もある。ハブリックはそれだったんだ」と考えていた。そのため、心は痛くなかった。頭を撃たれたのだから、ふつう助からない。救命活動を放棄したとしても非難されることがなかったかもしれないほどの重傷だ。

 それでも少佐は救命活動を実施するみちを選んだ。本当の理由はわからないが、私が思うのは、周りの兵士たちの士気を維持するためだったのではないか。

 もし我々がハブリックの救命をやらなかったとしたら、周りの兵士たちは自分たちが負傷した場合も見放されると考え、医療班に不信感を抱くようになり、不安感が高まり、士気が落ちるだろう。

 しかし、今回の救命活動を見たり聞いたりした場合、「もし自分が負傷したら、周りの皆が必死になってくれる」と思い、士気もあがるだろう。そこに今回の救命活動の意義があったと私は思う。我々の行為は決して無駄ではなかった。


 ハブリック一等兵はスロバキア出身で、23歳だった。フランス軍の戦死者として、遺体の入った棺は、フランス国旗に覆われてアフガニスタンを発った。
 タスクフォース・アルトーで最初の戦死者が発生したことで、私は自分たちが本物の戦争に来ていることを強く実感した。



一旦終了

――――――――――

今まで、約1年半のあいだ、ありがとうございました。連載は一旦終了ですが、今後もちょっとした記事や写真をアップすることがあるかもしれません。
それから、Vショーやブラックホールなどにお邪魔したり、個人出店することもありますので、今後ともよろしくお願いします。


さようなら。Au Revoir.

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(16)アフガニスタン

2013年08月19日

戦傷者Part5

 頭を7.62mm弾で貫かれ、まぶたをパンパンに腫らし、鼻孔・口・喉の気管カニューレのところから小さな血の泡を立てて苦しむ本物の戦傷者が自分のすぐ目の前に横たわっているにも関わらず、演習をやっているような感じがする。

 むしろ、演習のときより落ち着いている。演習のときは、我々が上手いこと対処できるかどうかを点検する係官が存在するが、実戦の場には存在しない。だいぶ気が楽だ。

 点滴を設置した上級軍曹とミッサニは、近くにいた戦闘員に点滴剤のパックを高く保持するよう指示すると、負傷者の衣服を救急救命のハサミでジョキジョキと切りはじめた。

 戦闘員が立った姿勢で、だらんと垂らした手に点滴パックを持って見守るなか、上級軍曹が上着を、ミッサニがズボンを切る。上着の袖は両方ともミッサニが点滴をするために早い段階で切っていた。戦闘服も下着もどんどん切られていき、負傷者は裸にされていく。頭部以外に負傷はないか確認するためだ。

「サバイバル・ブランケットはあるか?」
 負傷者を包むのだ。
「持ってます。」
 私が答える。

「ブリザード・サバイバル・ブランケット」という、日本のモンベル社と英国のマウンテン・イクイップメント社が共同開発した保温効果の高いサバイバル・ブランケットが、私のバックパックに入っている。

 「しまった」と思った。バックパックが1.5mほど離れたところに置いてあり、手が届かない。この現場に合流し、気管切開キットを取り出したあと、そこに置いてそのままなのだ。アンビュバッグを止めたくないので取りにいけない。

 すぐさま私は、そのバックパックの2mほど先から我々の活動を見ている戦闘員に言った。
「おいコワルスキー、そのバックパックをここに持ってきてくれ!」

 コワルスキー一等兵は即座に対応してくれた。私は左手でアンビュバッグを操作しながら、右手でサバイバル・ブランケットを取り出した。ブランケットが圧縮密封され、硬く、レンガのような形になっている。20×10×5㎝くらいのサイズで、色は軍仕様の深緑だ。

「これを開けてくれ。」
 そう言って私はレンガ状に圧縮されたブランケットをコワルスキーに手渡し、開けるのを見守った。

 厚いビニールの密封袋の隅には開けやすいように切れ目が入っているが、それでも開けにくかったため、コワルスキーはズボンの右ポケットから折り畳みナイフを引き抜き、親指で刃を出し、もともとあった切れ目よりも深い切れ目を入れ、緑色のレンガのような本体を取り出した。

「広げてくれ。」
 コワルスキーはいっさい返事をしないまま、ナイフをポケットにしまうと、“レンガ”をほぐし、どんどん広げていく。外側が深緑で内側が銀色の素材が“チャリチャリ”と音を立てる。圧縮されていたシートは広がるとともに、2層構造になっているため空気を含み、膨らんだ。

 コワルスキー一等兵がブランケットを広げているいっぽう、オアロ上級軍曹が負傷者の手首の動脈部分を押さえ、言った。
「橈骨動脈(とうこつどうみゃく)、確認。」

 上級軍曹は点滴チューブのクランプを閉め、点滴投与を止めた。橈骨動脈に脈があれば、とりあえず血圧はじゅうぶんな値になっている。必要以上に点滴を施すと、出血を促進してしまう可能性がある。

 上級軍曹はそばに立つ戦闘員から点滴パックを受けとり、チューブをまとめると、負傷者の腹に置いた。
 ブランケットの準備ができた。負傷者はすでに裸にされ、前面をハサミで切って脱がされた服の上に寝た状態になっている。服が敷物のようだ。

「よし、負傷者を持ち上げる。2人来てくれ。」
 プルキエ少佐の呼びかけで、戦闘員2人が手伝うことになった。

 少佐と上級軍曹は負傷者をまたぎ、中腰姿勢をとる。少佐は負傷者の膝のあたりに手を差し入れる。上級軍曹は腰だ。2人の戦闘員は負傷者の左右にしゃがみ、下敷きとなっている切れた上着の肩や胸あたりをつかむ。

 ミッサニ伍長は負傷者の頭側にひざまずき、両手で頭部を左右から挟んだ。コワルスキーは負傷者の足側に立ち、ブランケットをつかんでいる。

「ノダ、合図を頼む。」
 少佐が言った。私がいっせいに持ち上げるタイミングを決める。喉の気管カニューレからアンビュバッグが外れやすいからだ。私は言った。
「持ち上げ準備・・・、持ち上げ!」

 負傷者の体が30~40㎝ほど持ち上がる。私はその動きに合わせて、アンビュバッグを持ち上げた。
 コワルスキーがすかさずブランケットを少佐の股のあいだから、負傷者の下へと送りこむ。銀色の面が上向きで緑色の面が地面に接する。他の戦闘員が1人現れて、負傷者の右側からブランケットを引いたり押したりして手伝い、ブランケットは負傷者の足から頭までをカバーする位置についた。

「降ろす準備・・・、降ろせ!」
 私の合図で負傷者がブランケットに降ろされた。

 今度は担架を下に通す。ミッサニが携行してきたロール式の携帯担架がある。米国タクティカル・メディカル・ソリューションズ社製の「フォックストロット」という担架で、スリーピングマットのような形状の、薄い柔軟なプラスチック製の素材に、キャリング・ハンドルを左右あわせて6つ、前後に2つ付けたような製品だ。

 ミッサニは1人の戦闘員と頭部の担当を代わり、自分のバックパックの下にストラップで固定してあった担架を取り出し、広げた。

 先ほどと同じ要領で我々は負傷者を持ち上げると、ミッサニはコワルスキーとともに担架を負傷者の下に通し、我々は負傷者を降ろした。

 ミッサニと上級軍曹はブランケットの左右の端を負傷者の体の前で重ね合わせ、肩から下を包んだ。多量に出血すると体温が低下するので体温が逃げないようにする必要がある。たとえ暑い地域でもそうなる。
 ブランケットを負傷者の上からかぶせるのではなく下から包むのは、救急ヘリコプターに載せる時、ローターの起こす風でブランケットがはがされて飛んでいかないようにするためだ。

 ミッサニと上級軍曹はブランケットの重ね合わせた部分をテープでとめ、勝手に開かないようにした。ついに担架搬送を始められる。



つづく
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Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2013年08月12日

戦傷者Part4

 プルキエ少佐やミッサニ伍長たちは少し畑を進み、土塀を越え、20mほど離れた通路に負傷者を寝かした。通路は塀に挟まれ弾丸は届かないと思われる。

 少佐とミッサニは負傷者を見て愕然とした。そんなに粗い搬出をしたつもりはなかったが、頭部の圧迫包帯も、喉のチューブも、点滴も外れて無くなっていた。いちからやり直しだ。

 負傷者は声を出さずに、モゾモゾと苦痛にもがいている。鼻孔や口、そして喉の切込み穴からは、血が出てきて泡を立てたり、また内部に戻ったりしている。血に少々邪魔されながら呼吸しているということだ。

 少佐はミッサニに再度点滴を施すよう指示すると、医療バックパックから縫合キットをとりだし、後頭部の射出口を縫い始めた。搬出のために来た戦闘員の1人が頭部を支える。

 ミッサニが新たな点滴を施し、カテーテルやチューブをテープや包帯で固定しているあいだに、少佐は射出口の縫合を終えた。3針縫った。あとは射入口だ。

 そんなとき、再び銃撃音が響いた。段々畑のほうだ。ここは壁があるので大丈夫だろう。

“ビシッ”

 大丈夫ではない。土壁の上部に弾丸が撃ち込まれた。少佐はもう少し遠ざかるべきだと判断し、4人で負傷者を運び、さらに5mほど進み、角を曲がり、10mくらい進んだ。

 負傷者を降ろし、少佐とミッサニは再び愕然とした。また点滴が外れていた。平らな通路を15mほど進んだだけなのに・・・。もしかしたら、誰かの銃やポーチがチューブに引っ掛かって外れたのかもしれない。

 ミッサニが3個めの点滴の準備を始めようとすると、少佐は言った。
「点滴チューブを切って、15㎝くらいのチューブを何本か作ってくれ。」

 ミッサニは不思議に思いながらも、チューブの切り出し作業を始めた。いっぽうの少佐は射入口の縫合を始める。2針縫った。これで「圧迫包帯が外れる」などの心配はいらなくなった。

 ミッサニが15㎝ほどのチューブができたことを伝えると、少佐はチューブを1本とり、負傷者の喉の切込みに刺し込み、最後部と喉の皮膚を安全ピンで刺して留めた。チューブが気管内に入りこむことを防ぐためだ。しかも抜けることもないだろう。

 ミッサニは少佐のこのアイデアに驚愕したという。2人の医療装備に1個しかなかった気管切開キットを紛失し、どうしようもないと諦めるのではなく、別のもので即製する少佐を彼も私も尊敬せずにはいられない。

 少佐が2本めのチューブをとる。1本では、直径が小さく、通る空気の量はわずかだろうが、何本か差し込めば、より多くの空気が通る。注射針を何本か刺して助かった例もあるくらいだ。

 そんなとき、少佐とミッサニは20mほど離れたところから私の大声を聞いた。
「少佐殿、今行きます!」

 こうして私が応援のため、合流し、2つ目の気管切開キットが少佐に手渡された。

 少佐は点滴用チューブを切って作った気道用の管を負傷者の喉から取りはずし、気管切開キットに入っている気管カニューレというチューブを差し込んだ。

 そして、2つ目のチューブは絶対に脱落させまいと、縫合用の針と糸でチューブのストッパーのヒレの部分を、首の皮膚に縫い付けはじめた。

 その作業をやりながら、少佐は私とミッサニに指示を出す。私は合流したばかりで、状況がはっきりと把握できていないため、指示が欲しい。

「HyperHES(イペレス)を点滴しろ!」

 HyperHESとは我々が持っている点滴剤のなかで最も塩分が高い。深刻な出血多量のときに用いる。これが今必要なのだが、私はこの点滴剤をバックパックに携行していなかった。

 出血の度合いや負傷の種類によって、用いる点滴剤が変わってくるため、我々医療班は3種類の点滴剤を使用するのだが、私はHyperHES以外の2種類を携行していた。

 オアロ上級軍曹とバディーを組んだとき、彼がHyperHESを携行することになったのだ。我々2人に1つだけしか支給されなかった。フランス軍はHyperHESをあまり保有していないのだろう。

 私は言った。
「上級軍曹がHyperHESを持っています。」

「上級軍曹! HyperHESをくれ!」
 オアロ上級軍曹がこの場にいないことを知らないらしく、プルキエ少佐は声を張り上げた。

「了解!」
 なんと私の後ろからオアロ上級軍曹の声が聞こえ、合流したばかりの上級軍曹が私の横に現れた。私は気づかなかったが、少佐には彼が駆けつけてくるのが見えていたのだ。

 フォリエッジ・グリーンのキャメルバックBMFを背中から地面におろし、HyperHESの液体の入ったパックと点滴チューブを取り出し、準備にとりかかった。

 負傷者の左前腕の内側においては、ミッサニがすでに誘導針付きカテーテルを静脈に刺しているところだ。右腕にはすでに2度刺しているので、今度は左腕だ。

 カテーテルはスムーズに入っていく。カテーテルより少し上の静脈を指で押さえ、血流を抑えながら、誘導針を抜く。

 上級軍曹が準備したばかりの点滴チューブの先端をミッサニに差し出す。先端までHyperHESが行き届いている。ミッサニは右手で受け取ると、親指でチューブ先端のキャップを外した。そして、そこを左腕のカテーテルに接続し、フィルムやテープで固定した。

 そのあいだ、私にもちゃんと仕事はあった。

 負傷者の喉に気管カニューレを縫い付けた少佐は、「アンビュバッグ」というラグビーボール型の風船のような、揉んで空気を送りこむ医療器具を取り出し、気管カニューレに接続した。

「ノダ、アンビュバッグを頼む。」
「はい、少佐殿。」
 私は負傷者の左肩のそばにひざまずき、アンビュバッグを右手で揉み始めた。

 私は衛生兵課程のときに習ったとおりの方法で、アンビュバッグを“シュー、シュー”と、親指先端と人差し指や中指が触れるくらいまで揉みきった。

「そうじゃない。こうするんだ。」
 少佐が落ち着いた口調で言い、アンビュバッグに手を伸ばしてきたので、私は手を引いた。

 アンビュバッグをつかんだ少佐は、“シュッ、シュッ、シュッ、シュッ”と、素早く小刻みに揉んだ。
「わかりました。」

 私は少佐に告げると、再びアンビュバッグを受け持ち、少佐の教えてくれた方法で揉み始めた。“シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ・・・・・”。

 この瞬間から後方の医療班に負傷者を引き渡すまでの、私のノンストップな単純作業が始まった。単純だが、同僚1人の命が関わる重要な作業だ。責任を感じた。

 少佐がこの揉み方について解説をする。私は揉みながら聴いた。
「肺に血が入り込んでいて、空気の入るスペースが小さくなっている可能性がある。空気をたくさん送りこむと、入りきらない空気が胃にまわり、嘔吐してしまうかもしれないから、こうするんだ。」

 なるほど!軍医はすごい。私は負傷者の状態を考えず、教科書通りのやりかたでアンビュバッグを揉むくらいの頭脳しか持ち合わせていなかったが、少佐はしっかりと対応し、しかも、戦場で落ち着いて私にそうする理由を説明し、納得させた。

 私がアンビュバッグを受け持ってからは、少佐はもっぱら、負傷者の状態を記す「フィールド・メディカル・カード」の記入と、我々に指示を出すほうに徹し、医療行為は我々3人で行なう形となった。演習で何回かやった状況だ。



つづく

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Posted by 野田力  at 17:16Comments(0)アフガニスタン

2013年08月05日

戦傷者Part3

プルキエ少佐とミッサニ伍長は低い体勢で負傷者のもとまで走ってきて伏せた。いつまた銃撃が始まるかわからない。必要以上に高い姿勢はとらないほうがいい。

 2人が負傷者にたどり着いたとき、ブルガリア人のナコフ伍長が負傷者を畑の段差の陰に引きずり込み、仰向けに寝かしていた。すぐそばでブラジル人のダ・シルバ一等兵が、伏せてFAMASを構え、援護している。

「どこを撃たれた?!」
少佐がナコフに尋ねる。
「頭です!」

 少佐とミッサニは負傷者の額に小さな射入口を見つけた。血は垂れ出しているが、吹き出すほどの勢いではない。しかし、負傷者の咳により、口からは血が吹き上がっていた。

 2人が治療を始めるのと同時に、ナコフは負傷者のもとを離れ、ダ・シルバの2~3mとなりに伏せ、援護に加わった。

 銃撃戦が再び始まった。

 弾丸の飛び交う下で、少佐とミッサニは伏せたまま負傷者に対処した。まずは頭部のケガだ。額に射入口があるということは、射出口が後頭部にあるだろう。

 少佐が負傷者のヘルメットを外すと、左後頭部に500円玉くらいの大きさの射出口があった。ミッサニは負傷者のアーマーにある、赤十字マークのついた小型ポーチからイスラエル製圧迫包帯を取り出した。原則として、負傷者本人の医療キットを使用する。

 圧迫包帯には出血部位に当てるためのパッドの部分がある。ミッサニはパッドを後頭部の射出口に当てると、バンドを巻き始めた。伏せたまま巻くのは難しい。少佐が頭を支えたりして、ミッサニの作業を手伝う。

 圧迫包帯は、射入口もふさぐように巻かれ、撃たれた穴から流れ出る血は止められた。内出血があるが、ここではどうしようもない。

 内出血により、まぶたが腫れ、鼻孔や口から血が出ている。はやく弾丸の届かないところまで負傷者を運び、やりやすい姿勢で治療をしたいが、銃撃戦のさいちゅうなので、伏せたまま治療をつづけるしかない。

 少佐は気管切開キットをバックパックから取り出した。喉に血が入っており、気道を確保する必要がある。少佐は専用のメスで負傷者の喉に小さな切込みを入れ、そこから気管のなかに直径5mm、長さ10㎝くらいのチューブを差し込む。

 チューブの最後部には、小さなヒレのようなストッパーがついており、チューブ全体が気管に入ってしまわないようにしてある。さらに最後部は、「アンビュバッグ」と呼ばれるラグビーボール状の風船のような、揉むことで空気を送りこむ器具が接続できるアダプターにもなっている。

 いっぽうミッサニは負傷者のアーマーを脱がす作業に取りかかっていた。搬出するのに防弾装備や銃は負担となる。装備類は、搬出する人員以外の者が担当する。

 我々の着用しているパラクリート社製のアーマーは、右胸の端にふっくらした四角いパーツがあり、それをひっぱるとパーツに連結している細いケーブル3本が引き出される。ケーブルがアーマーから引き抜かれると、アーマーは前面と後面の2つに分解され、簡単に脱がすことができる。

 ミッサニはケーブルをひっぱった。アーマーは分解されない。ケーブルが完全に抜けていないのだ。しかし、ミッサニはケーブルを少し引くだけでアーマーが分解されると思い込んでいた。

 ケーブルの分解システムが不良品だと思ったミッサニは、分解をあきらめて、普通にアーマーを脱がせる方法をとることにした。マジックテープによる結合をはがし、アーマーの両脇の連結は解けたが、両肩部分の連結はケーブルにより固定されているので解けなかった。

 ミッサニは、気管にチューブを差し込み終えた少佐と協力し、アーマー前面を持ち上げ、戦車の上部ハッチを開けるような動作で、頭部側に開いた。そうして頭部をアーマーから抜き、やっと負傷者からアーマーを脱がすことができた。

 少佐は、畑の隅の土塀にいる第4小隊の副小隊長オラチオ上級軍曹に、負傷者搬出のために2人の戦闘員を回すように要請した。ここから数十メートル移動すれば、弾丸の飛んでこない通路に入れる。

 2人の人員を待つ時間を無駄にしないため、少佐は点滴を実施することを決めた。負傷者は多量に吐血したため、失った血を補う必要がある。

 ミッサニが負傷者の右袖をハサミで切りはじめ、少佐が近くに転がっていた負傷者のバックパックから点滴キットを取り出し、生理食塩水の入った輸液バッグにチューブを取りつけ、準備をする。

 ミッサニが負傷者の右上腕にゴム製の駆血帯を締めると、静脈がくっきりと浮きでてきた。前腕の静脈に狙いを定め、カテーテルを刺す。カテーテルは外れることなく静脈内に刺し込まれた。

 ミッサニは、刺した部分より数センチ上の静脈を指で圧迫し、カテーテル内の誘導針を抜いた。圧迫しなければ、誘導針を抜いたところから血が垂れだす。

 少佐は輸液チューブの先端をミッサニに差し出す。ミッサニはあいている右手で受けとり、カテーテルに接続し、駆血帯を外した。そして、少佐がクランプ(輸液チューブを圧迫し、液体が流れるのを止める部分)をゆるめると、点滴筒(チューブ上部にある直径2㎝くらいの筒)のなかを生理食塩水がポタポタと流れはじめた。ちゃんと静脈内に注入されている。

 ミッサニと軍医はカテーテルが前腕から外れないように、テープを貼ったうえに包帯を巻き、しっかりと固定した。そして、2人の戦闘員が到着すると、医療バックパックを背負い、4人で負傷者を運びはじめた。どのように運んだか聞いていないが、ほとんど引きずる感じになっていただろう。



つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン