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Posted by ミリタリーブログ  at 

2012年04月30日

バグラム出発

皆さま、ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか。私は、この春、自衛隊に入隊した友達に会い、基本教練の土産話を聞いたりしています。その友達が、「構えの練習のため、64式小銃の電動ガンを買いたい」というので、ショップに行ってきました。64式はなかったので、友達は89式小銃を購入しました。初めてのエアガンを買い、ゴールデンウィークは射撃姿勢の練習にまるまる費やすそうです。射撃徽章を勝ち取るために。
その友達に同行して行ったショップで、ある書籍が陳列されているのを見つけました。
「リアル・アクション・ポーズ集 ガンアクション編」です。

女子たちの教官を務めた小峯隆生氏のプロジェクトで、私もお手伝いさせていただきました。他にも、元傭兵の高部隊長や元米陸軍の飯柴大尉など、数名のリアル戦士が指導にあたりました。
女子たちの訓練に臨む姿勢は真剣で、休憩時間に質問を受けることもありました。彼女たちのひたむきさに、私は正直、心を打たれました。一生懸命な彼女たちは本当にカッコよかったです。

さて、アフガン記に移りたいと思います。今回はいよいよ、バグラムから飛びたちます。敵の近くへと、さらに一歩、踏み出します。
それでは、どうぞ。

――――――――――

翌朝、明るくなった頃、我々は集合し、エプロンの入り口手前まで行き、米軍のCH47チヌーク輸送ヘリの到着を待った。ついにFOB(フォブ=Forward Operating Base=フォワード・オペレイティング・ベイス=前方作戦基地)に行く時がきた。

バグラムからFOBまでの移動中に着用するヘルメットとアーマーが支給された。両方とも仏軍の古いモデルで、アーマーは肩の部分がかさ張り、着用すると両腕の可動範囲が狭くなる。まあ、しばらくの辛抱だ。

5.56mmの実弾20発が入った弾倉も一個渡された。移動中、不測の事態が起きるかもしれないからだ。荒野に不時着したチヌークが敵に包囲され、銃撃戦となるが、すぐに弾薬が尽きるという状況が思い浮かんだ。早くFOBに着いて、新採用のヘルメットとアーマー、そして大量の弾薬を受け取りたかった。そうでないと不安だ。

ヘリを待っている間、アーマーやリュックなどの装備をそばに置き、我々は飛んでいくUH-60ブラックホークやF-15Eストライクイーグルを眺めていた。そんな中、1台のバスが到着し、米兵がゾロゾロと降りてきた。

パン!

突然の銃声に我々はいっせいに米兵たちの方を向いた。彼らの近くにいた黒人フランス兵が、驚いた顔で我々に向かって駆けてくるのが見えた。何があったのだろう?

どうやら、米兵の1人がM16A2を暴発させたのだった。銃口は下に向けられており、弾丸は地面に撃ち込まれたらしく、ケガ人は無かった。これが、アフガンに来て初めて聞く銃声だった・・・。

銃声にビックリしたが、もっと驚いたのは、誰もその米兵を叱らなかったことだ。我々の連隊の者にそんなことが起きたら、そいつはその場で怒鳴り散らされるだろう。下手したら、頭が飛んでいく勢いで殴られる。しかし、その米兵の集団は、暴発など無かったかのように、静かだった。
ちなみに、その米兵たちはアフガン戦争に召集された陸軍予備役らしかった。

「米兵がこっちに来たらアーマーとヘルメットを着用しよう。」
と、ブルガリア人同僚が言った。
 
やがて、滑走路に入るよう促され、ヘルメットやアーマーを着用し、120リットルサイズのリュックと30~40リットルサイズのリュックを肩に掛けたり、手に提げたりして、我々は歩き出した。実弾入り弾倉はFAMASに装着した。

米軍のCH-47チヌーク2機が、すでにローターを回して待機していた。キィーンというエンジン音が少しうるさい。後部扉は下の方向に開き、乗機するためのスロープとなっていた。

我々は、各チヌークの後部扉から30m程後ろに、縦2列に並び、合図を待った。私は右列の最後尾だ。自ら進んでこの位置を取った。ここなら、機内に乗り込んだ時、後部扉のすぐそばに座ることになり、開いた後部扉を通して、空から景色が見下ろせるかもしれないのだ。そんな写真を英米のアフガン戦争関連書で見たことがある。是非、ナマで見たい!

なお、フランス軍にはチヌークが無く、この時が我々の多くにとって初めてのチヌーク搭乗だった。私の尊敬する英陸軍特殊部隊SASが湾岸戦争やシエラレオネ紛争でチヌークに乗って潜入した話を思い出し、胸が高鳴った。彼らが目にしたような光景が私にも見られるのだ。

後部扉の先端中央に7.62mm口径のM240D機関銃が設置されている。そのそばに立つ乗組員が手招きをした。我々はチヌークの貨物室に向けて歩き出す。僭越ながらも、SAS隊員になった気がして、心臓がはち切れそうになった。夢を見るのはタダだ。

やがて、全員乗り込み、荷物の山を機内中央にできた。そして、両サイドに設置された長い座席に座る。銃は、負い紐を首にかけて、胴の前に提げた。思惑通り、私は後部扉のすぐそばに陣取ることができた。

そしてチヌークは離陸し、南東方向へ加速を始めた。

離陸するとき、後部扉は閉じられていたが、飛行が安定すると開かれ、水平まで下がった。眼下にバグラム航空基地の全景が、そして彼方には雪で覆われた山脈が広がった。キャノンの小型デジカメIXYで写真や動画を撮り始めた。

米軍乗組員の一人が、後部扉のM240Dのとなりに座り、グリップの上部に肘を掛けている。彼はすごいパノラマ風景を満喫しているに違いない。優雅だ。私もそこに座りたいと思った。そこなら、機体のどこかが視界に入ることがなく、風景が目の前に果てしなく広がるのだろう。

下界は航空基地の景色から、平らな荒野に変わり、やがて丘陵地になった。ところどころ村があったり、大きな川もあったりしたが、この大地のほとんどは、岩と石と土と少しの草木に覆われていた。荒野・丘・川・遠くの雪山など、大自然の調和が美しく、この空の旅だけでもアフガニスタンに来た甲斐があると思った。





つづく

CAT11の別の本


マンガでガンアクションを描くための本



  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年04月20日

バグラム航空基地 Part3

つい先日、4月15日・16日、アフガニスタンの首都カブールで、タリバンによる同時テロ攻撃があり、日本大使館にも合計5発のロケット弾が着弾したそうです。
ぜんぜん平和にならないですね。近い将来、国際部隊が撤退しても、戦いは続き、さらに激しい内戦に発展するのではないかと思えてしまいます。

さて、今回も「バグラム航空基地」の続きです。前回は、基地内にどんな施設があり、どんな人々を見たのかについて書きました。今回は、米兵と会話したときのことを書きたいと思います。
それでは、どうぞ。

――――――――――

バグラム滞在2日目、同じ兵舎に泊まっている米兵3人と英語で話をした。彼らの部隊は歩兵部隊で、1年間の任務を終え、2日後にアラスカの駐屯地に帰還するところだった。

私が、戦死者は出たかと聞くと、「戦闘は何度もあったけど、戦傷者も戦死者もなかったよ」と言う。それを聞いて、我々からも戦死者は出ないかもしれないと思った。

そこで、アフガンでの任務遂行のために、何かアドバイスはないかと尋ねると、細くて長身のドイツ系アメリカ人軍曹は言った。
「エイムポイントやEOテックを使うより、倍率の高い照準器を使う方がいい。我々のいた地域は山岳地帯だったんだけど、敵は遠くから撃ってくるから、倍率の高い照準器じゃないと見つけられないんだ」。

そう言って彼は、トリジコン社製の照準器の付いたM4A1小銃を私に手渡した。そのM4を天井に向けて構え、照準器を覗いてみる。倍率4倍くらいだろうか。天井が少し近くに見える。トリジコンを通して見える円形の光景には、中央に「∧」型の赤い印があり、その左右と真下に向かって、目盛りの付いた黒い線が伸びていた。

「Can I hold your FAMAS ? (FAMASを持ってもいいか)」
軍曹のとなりにいた中肉中背のヒスパニック系米兵2名のうちの1人が聞いてきた。私は「Yeah, sure(ああ、もちろんだ)」と言って、FAMASを手渡した。

その米兵が言った。
「FAMASには『トランペット』というニックネームがあるんだろ?」
私は答えた。
「いや、ない。アメリカの本にそう書いてあるのを見たことあるけど、単に『ファマス』って呼んでるよ。」
確かに形が似ているかもしれないが、私はFAMASがトランペットと呼ばれるのを聞いたことがない。

この時、この米兵達は初めてFAMASを手にしたのだが、私もM4は人生で初めてだった。M4は軽いし、思っていたよりも短く、弾倉がグリップより前に位置するので扱い易かった。FAMASより10㎝ほど長いだけなので、M4の方が絶対にいいと思った。一方、米兵たちは「FAMAS、すごく短いのに銃身が長いからいいなあ」と感心していた。お互いに「無い物ねだり」だ。

私は以前、いくつかの本や雑誌で、「M4は作動不良におちいりやすい」と書いてあったことを思い出し、聞いてみた。
「M4って、頻繁に作動不良起こすの?FAMASは、状態のいい弾倉を使えば、大体はちゃんと作動するんだけど・・・。」
「M4も同じだ。弾倉さえ変形していなければ、ちょっとくらい汚れていても、ちゃんと作動するよ。」
米軍軍曹がそう言っている横で、2人の兵卒が何度もうなずいていた。

トリジコン付きM4
トリジコンのレティクル
エイムポイント付きM4


 
私が話をした米兵たちは皆フレンドリーで、とても気分が良かったのだが、中には我々のことを快く思わない米兵もいたようで、トイレのドアに「仏軍パラシュート部隊はクソだ」と英語で書いた落書きがあった。

我々が大勢で到着し、シャワーなどの待ち時間が長くなったから嫌われたのだろう。残念だと思ったが、その横に別の落書きがあり、「実際に彼らを知るまでは、彼らがクソかどうかはわからない」、「書くことに気をつけろ。君はアメリカを代表しているのだから」と書かれていた。

我々をかばう落書きを見て、嬉しくなり、かばってくれた米兵に会いたいと思った。悪口の落書きを塗りつぶせば手っ取り早いが、敢えてそのままにするなんて、米社会では「言論の自由」が尊重されていることがよくわかった。


つづく

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アフガニスタンで米軍部隊が経験した激戦の記録

  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(6)アフガニスタン

2012年04月10日

バグラム航空基地 Part2

皆さま、お待たせしました。前号「バグラム航空基地」の続きです。前号で、我々はバグラムに到着し、銃や個人用医療ポーチの支給を受けました。これから航空基地内の施設をいくつか回るのですが、ちょっとした驚きや発見が待っています。
それでは、どうぞ。

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食事の時間になった。食堂は、いくつもの天幕をつなげた造りだったが、内部は立派なレストランみたいで、美味そうな料理がふんだんに用意されていた。フライドポテト、ライス、パスタ、ハンバーグ、フライドチキンなどなど……。しかもサラダ、フルーツ、デザートは取り放題。飲み物も好きなだけ取れた。
食堂から食べ物を持ち出すのは禁止だと注意書きがあったが、パックのジュースやチョコバーをいくつか隠して持ち帰った。この程度の悪さは、軍隊では当たり前のことだ。

アメリカの民間企業が運営しているこの食堂の料理は、コルシカ島の駐屯地の食堂が出す料理よりも100倍豪華だった。戦場でこんなにいい物を食べられるなんて、正直、米軍が羨ましいと思った。しかし、毎日こんな料理ばかりでは食べ過ぎてしまい、体重管理に苦労しそうだ。

しかも、こんな素晴らしい食堂があるのに、「バーガーキング」、「ポパイチキン」、「サブウェー」などのファストフードの店も営業していた。食堂で無料で食べられるのに、なぜファストフード店があるのか不思議に思い、1人の米兵に聞くと、それらの店は24時間営業で、食堂が閉まっている時間帯でも食べられるから、との返事だった。
 
「AAFES(エイフェス)」という米軍PXストアもあった。まるでスーパーマーケットそのままの大きな店舗で、家電・食品・衣類・書籍の他、ブーツやポーチなどの米軍個人装備も販売していた。米軍の部隊章パッチや階級章などは、米軍所属でない者には販売できないと注意書きがあったが、ランニングショーツ2枚と一緒に、米第82空挺師団の部隊章パッチなどを、レジに持って行ったら、何も言われずに購入できた。

〈食堂〉

〈食事〉

〈朝食〉

〈デザート〉

バグラム基地には、アメリカ以外の国からも多くの兵士が派遣されていた。イギリス、チェコ、ヨルダン、ポーランド、エジプト、ルーマニア、ラトヴィア、韓国……。韓国兵とフランス兵だけが森林用迷彩服で、他は砂漠用迷彩服だった。
(フランス軍は貧乏で砂漠迷彩服を支給できないのか? あるいはこの迷彩柄がアフガンで効果があるのか?)

〈韓国兵と銃を交換しての記念撮影。私が持っているのは韓国製K2小銃〉
〈ヨルダン軍兵士〉
 
兵士のほかにも多くの民間人がいた。彼らは料理、運送、清掃、販売などのロジスティック(兵站業務)のために来ている。アメリカ人も多かったが、ネパール人やインド人は更に多くいた。タイ人やアルメニア人も少数ながらいた。欧米の民間会社にしてみれば、安い賃金で彼らを雇うことができる一方、彼らにとっては高い給料なのだ。まさにアフガニスタン戦争は出稼ぎのチャンスでもある。

バグラム基地では、軍人、民間人を問わず、女性の姿も多く見かけた。とくに韓国の女性兵士が目についた。おそらく韓国軍医療部隊の看護婦なのだろう。
 
また、基地内には大きなトレーニング施設もあり、我々駐屯地の筋トレ施設よりはるかに大きく、設備も充実していた。フランス兵にも無料で利用させてくれ、タオルの貸し出しやジュースも無料だった。米軍は圧倒的に太っ腹である。


つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(10)アフガニスタン