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Posted by ミリタリーブログ  at 

2012年03月30日

バグラム航空基地 Part1

皆さま、お待たせしました。3月20日に始まったアフガン体験記の第二回目です。
第一回はプロローグでしたので、いきなり激しい戦闘シーンを描写しましたが、今回から順を追って書いていきたいと思います。
皆さまに、現場の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。どうぞご覧ください。


「バグラム航空基地」

2010年1月、フランス外人部隊第2外人パラシュート連隊(2REP)の約500名がアフガニスタンに派遣された。
その1人として私は、1月14日、カザ輸送機でコルシカ島からパリへ飛んだ。その後、仏軍旅客機エアバスA320に搭乗し、パリ・シャルルドゴール空港を飛び立った。
(コルシカ島の空港でカザ輸送機に乗り込むところ)

アブダビを経由した後、我々を乗せたA320はアフガニスタン領空に入り、高度を下げ始めると、「フェルメ・レ・ウブロ、シルヴ・プレ(窓のシャッターを下げてください)」とアナウンスが流れた。航空基地を上空から見られると具合悪いのだろうか? 私を含め、窓側に座る者がいっせいにシャッターを下ろした。しかし私は時々、少しだけ開けて外を見た。

眼下には、雪に覆われた山々が連なっており、飛行機の高度がさらに下がると、雪のない乾燥した土色の大地が見えてきた。目を凝らすと、土壁でできた家々も小さく見えた。
「シャッターを上げないように」とアナウンスが流れた。バレた!素直に下げた。
やがて、A320はバグラム航空基地に着陸。夕陽が沈んだばかりで、あたりは薄暗かった。


このバグラム航空基地には、戦争開始直後の2001年11月のある深夜、英海兵隊特殊部隊SBSが潜入した。SBSは基地の安全を確認し、C-130輸送機でやって来る米陸軍特殊部隊デルタフォースを誘導した。やがて、バグラムは国際部隊の一大拠点となるに至った。そんな歴史的な場所に来られて、一兵士として誇らしく思った。
 
飛行機からエプロンに降りる。アフガンの冬は極寒と聞いていたが、周囲に雪は見られず、冷気が鼻の粘膜を刺激するほどには寒くなかった。臭いもなく、空気は新鮮だった。
我々は民間仕様の古いバス2台に分乗した。運転手は灰色基調のタイガー迷彩服を着ているので、米空軍兵だとわかる。

バグラム基地内には多くの軍用機が駐機していた。UH-60ブラックホーク、CH-47チヌーク、F-15Eストライクイーグル、C-130ハーキュリーズ、Mi-18等…。戦争映画の冒頭のような光景を目の当たりにして、大規模な戦争に来たことを実感した。
 
しっかりと舗装されたエプロンを出て、仏軍トラック「GBC(ジェーベーセー)」に乗り換えると、土埃が舞い上がり始めた。開戦から8年以上経つのに、道路は舗装されておらず、所々、凸凹があり、GBCがガタンガタンと大きく揺れた。

10分ほど揺られると、兵舎に到着。兵舎は金属の骨組みと頑丈な防水シートでできたかまぼこ型の巨大なテントのような建物で、中には二段式ベッドが所狭しと並んでいた。300人くらい収容できそうだ。

建物内の片側半分のベッドは米陸軍部隊が使っており、ACU迷彩ズボンにクリーム色のTシャツ姿や、グレーのフリースジャケット姿の米兵たちが談笑したり、イヤホンを耳にして、寝転んだりしていた。周りにはACU迷彩の個人装備やM4カービンなどが置かれている。出入り口のそばには大きな冷蔵庫があり、中のミネラルウォーターのボトルを自由にもらうことができた。我々はここで二泊する。
 
まず初めにフランス・コルシカ島の駐屯地から空輸されてきた貨物から、自分たちの銃を取り出す。アフガン到着から出国まで、銃は各人が管理する。バグラムでは、食堂に行くときにも銃を携行した。シャワーを浴びたり、筋トレをする場合は、兵舎に残ってる同僚に頼んで、管理してもらった。

「トゥルース・アンディヴィジュエル・ドゥ・コンバタン(戦闘員用個人ポーチ)」という、個人用医療ポーチも、全員に一個ずつ、支給された。我々は「トゥルース・ノワール(黒ポーチ)」とか「トゥルース・アンディヴィジュエル(個人ポーチ)」などと呼んでいた。

縦15㎝、横10㎝、幅6㎝くらいの黒いポーチで、中には、止血帯、圧迫包帯、点滴セット、モルヒネ注射器、医療用テープ、消毒液、バンドエイド、そして、7.5cm×7.5cmサイズのガーゼ5枚入りの袋が入っている。アフガニスタンにおけるフランス兵の死傷事例を教訓に構成された内容物だ。この小さな装備が我々の命を救うかもしれない。


つづく
―――――――――――――――――――――――――
仏軍個人用医療ポーチに含まれる圧迫包帯と同じモデル




  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年03月20日

プロローグ

アフガニスタン タガブ谷の村 
2010年4月8日 現地時間14時頃


“バババババン !!”
AK小銃の掃射が聞こえた。それに呼応して、友軍のFAMAS小銃とMINIMI軽機関銃の単射音や連射音が加わった。交戦だ。

銃声が鳴り響いているのは村の西側で、そこは第4小隊が受け持っている。村の東側を担当している我々第1小隊から直線距離で100mも離れていないが、アフガニスタン特有の家屋や、路地沿いに構築された高さ2m程の土塀で、銃撃戦現場は視認できない。敵どころか味方の姿も見えない。

この日、私は第1小隊の第3分隊に衛生兵として派遣され、行動を共にしていた。我々は高さ1.5m程の土塀越しに、前方(我々の北側)に広がる空き地や、銃声のする左前方向にある土塀や家屋を見張っていた。

弾丸が近くを飛ぶと、“ヒュン”とか“ピュン”という、空気を切り裂く音がするが、そんな音はしない。どうやら我々の方には弾丸は撃ち込まれていないらしい。

西側では銃撃が全然止まずに続いている。銃声のする方向(我々の左側)50mくらいの所にある土塀の陰にしゃがんでいた我々の同盟であるアフガン兵たちが、激しい銃声の中、我々の方向に向かって、いっせいに走り出した。

M16A2小銃やPKM機関銃を持つアフガン兵たちが我々の方へ走ってくる。PKMのベルト式弾薬や装備の金具が“カチャンカチャン”と音を立てる。彼らは空き地を駆け抜けると、我々の正面を横切った。私はFAMASを上に向けて、銃口がアフガン兵に向かないよう努めた。

1人、また1人と、次々にアフガン兵が遮蔽物のない空き地から土塀の裏に滑り込んできた。中には、ロケットを1発撃ち込んでから悠然と避難してきたRPG射手もいた。

アフガン兵約15名全員が土塀に隠れる頃には銃声はやみ、アフガン軍司令官が、地面に置いた無線機から伸びた受話器を横顔に押し付け、交信していた。落ち着いた口調だが、ダリ語なので何を言っているのか全然わからない。

我々の分隊長であるアルゼンチン出身のデルトロ軍曹のヘッドセットにも、腰に付けた小型無線機ER328を通して、何か連絡が入ったようだ。デルトロ軍曹がいつものドスの効いた声で言った。

「第4小隊で負傷者が出た。衛生班の増援が要請されてる。ノダ、出番だ。行くぞ。」

無線を聞き、2つの小隊の位置関係を把握している軍曹は6名の戦闘員と私を率いて駆け出した。
どんな負傷だろうか?腕か脚を撃たれたのだろうか?第4小隊には軍医1名と衛生兵1名が派遣され、一緒に行動している。すでに何か処置を始めているだろう。しかし、その2人では人手が足りないなんて、重傷に違いない。

そう考えながら、家屋の塀に沿って走った後、深緑の若い麦畑をガサガサと抜け、幅2m程の路地に真横から入った。入ると左方向約20m先で、フランス人軍医プルキエ少佐とアルジェリア人衛生兵ミッサニ伍長がひざまずいて両手を忙しく動かしていた。

2人の間には、1人の白人兵士が頭をこっちに向けた状態で、仰向けに横たわっていた。すでにヘルメットもアーマーも脱がされ、仏軍森林迷彩服だけを着ていた。どんな傷なんだろう?近づかないと見えない。誰なのかすら、ここからはわからない。

私は分隊から離脱し、軍医らのところへ急いだ。着ているアーマーや医療用バックパックの重さは気にならなかった。負傷者の苦しみに比べれば大したことない。彼を助けなければ・・・。
「少佐殿、今行きます!!」
私に気付いたプルキエ少佐が叫び返した。
「気管切開キットをくれ!」



プロローグ 終



  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年03月10日

はじめに

皆さま、はじめまして。

私は、元フランス外人部隊第2外人パラシュート連隊の野田力(りき)と申します。除隊時の階級は上級伍長(Caporal-chef)。2010年1月から7月まで、同連隊第3中隊衛生班の一員として、アフガニスタンに派遣されていました。

このアフガンでの任務は、これまでの私の人生で、最も充実した期間であると同時に、現代戦の過酷な現実を知る貴重な体験となりました。


以前から、アフガンでの出来事を自分自身で整理したいと思っていたところ、この度、友清仁さんにお誘い頂き、ブログを開設いたしました。(友清さんはミリタリーブログでアフガニスタンにおける特殊部隊の活動についてのブログを運営されています。)


はじめに皆さんにお約束したいのですが、話を面白くするために脚色したり、嘘は書きません。私の中隊がアフガンでどう戦ったのか、正直に書こうと思います。
そして、戦闘だけでなく、衛生兵の活動や、民事支援活動、現地民との交流などについても紹介するつもりです。


去る1月20日、アフガンに派遣されていたフランス兵4名(うち一人は外人部隊)が一人のアフガン国軍兵により射殺される悲惨な事件がありました。殺された兵士にしてみれば、戦闘で死ぬならまだしも、同盟軍の兵士に殺されたなんて、あまりに無念で死にきれません。

いまもアフガンの戦場で戦うフランス兵や英米独等の同盟国兵士に思いを馳せながら、連載をスタートしたいと思いますが、その前に私の略歴を簡単に紹介します。


1979年9月 関西生まれ。

1999年10月 阪神大震災における自衛隊の活躍を描いた書籍を読み、陸上自衛官を志す。

2004年10月 15回に及ぶ自衛隊入隊試験不合格(たぶん基礎学力の不足)。大きな屈辱を感じ、自分が立派な兵士になれることを証明するため渡仏。外人部隊への入隊を果たす。

2005年3月 基本訓練ののち、希望していた第2外人パラシュート連隊に配属され、コルシカ島に駐屯。

2005年4月 パラシュート課程修了。

2005年5月 第3中隊(舟艇中隊)第3小隊配属。歩兵訓練修了。ミニミ軽機関銃射手を担当。

2005年10月 対戦車ミサイルERYX(エリックス)課程修了。同ミサイル射手を担当。

2005年12月 水路潜入課程レベル1修了。

2006年2月~6月 アフリカ・コートジボワールに派遣され、治安維持作戦に従事。

2006年12月 衛生兵課程修了。小隊の衛生兵となる。

2007年3月 水路潜入課程レベル2修了。

2007年4月 装甲車VAB(ヴァブ)免許取得。

2007年6月~10月 アフリカ・ジブチに派遣され、砂漠訓練等を受ける。

2008年2月 伍長(Caporal)昇進。

2008年9月~2009年1月 アフリカ・ガボンに派遣され、ジャングル訓練等を受ける。

2009年7月14日(フランス革命記念日) パリのシャンゼリゼ大通りの軍事パレードに参加。

2009年12月 上級伍長昇進。

2010年1月~7月 アフガニスタン派遣。ISAF(国際治安支援部隊)活動。

2011年4月 除隊。

2011年6月 帰国。

人名・地名・日時などプライバシーの保護もあり、変える箇所もありますが、それ以外はありのままに書くつもりです。

アフガン体験記は毎月10日、20日、30日に更新します。

それでは、どうぞよろしくお願いします。

野田 力






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こちらの書籍の表紙を飾らせて頂きました。

  


Posted by 野田力  at 01:32Comments(28)自己紹介