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Posted by ミリタリーブログ  at 

2013年08月26日

戦傷者Part6

はじめに

本日をもちまして、アフガン連載のほう、無期限休止させていただきます。理由は本業が忙しく、連載を続ける余裕がなくなったからです。
山岳任務や米軍特殊部隊・ルーマニア軍特殊部隊との合同任務なんかについても書きたかったのですが、将来、余裕ができて、機会をいただけたらにします。
連載を楽しみにしてくださっていた皆様には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなんですが、自分の生活を成立させるためには仕方がありません。
とりあえずは、今のエピソードの戦傷者事例が私のアフガン体験で一番重要なものでしたので、それがお伝えできて良かったと思っています。特に、自衛隊のかたがたの参考になっていれば幸いであり、光栄です。

それでは、どうぞ。

――――――――――


 プルキエ少佐は担架搬送のための支援要員を確保するため、数十メートル離れたところで待機している工兵小隊に応援を要請した。6人くらいが来た。第4小隊の戦闘員も6人くらい来ている。それに加え、少佐、上級軍曹、ミッサニの3人が担架搬送をする。私はアンビュバッグを放せないので、担架のキャリングハンドルを握ることはない。

 キャリングハンドルは8つしかないので、全員が同時に搬送作業をすることはない。8人が搬送し、疲れた者からどんどん交替し、腕を休ませながらついてきて、再び交替し搬送するというローテーションを繰り返す。

 少佐たちが地面に置いていたバックパックを背負う。私はアンビュバッグを少しだろうと止めたくないので、背負わない。私は、戦闘員の1人でルーマニア人のエナケに私のA3パックを背負うように頼んだ。

 彼は自分のバックパックを持ってきておらず、私のA3を背負う余裕があった。任務前のブリーフィングで、この任務は12時には終わると説明を受けていたので、バックパックを装甲車に置いてきた兵士が多かったのだ。

 何もなければ12時に終わっていたかもしれないが、銃撃戦があったうえに負傷者が発生したため、すでに15時頃だ。
 我々は担架を持ち上げた。担架の前方のハンドルを上級軍曹がつかみ、後方をミッサニがつかんだ。左右は工兵たちが担当する。

 我々は速歩きで搬送を開始した。私はアンビュバッグが外れないようにハンドルをつかむ兵士たちの動きに速度やアンビュバッグの位置を調節する。負傷者を持ち上げなくてもいいので、重さは感じないが、この作業は演習で何度もやったことがあるので、他の兵士たちの感じる重さはおおよそわかる。

 我々は両側が土塀の路地を進んだ。すぐに土塀が崩れた見渡しの良い場所に来た。通路の両側は麦畑だ。次に土塀のあるところまで50mほどある。開けた地形なので狙い撃ちされる危険があるかもしれないが、ここを通らないと脱出できない。

 ところどころ、土塀が崩れきっていない箇所が4つほどあり、そこに第4小隊の戦闘員たちが北に向かってFAMASやMINIMIを構え、我々を援護していた。

 我々は進んだ。若干、速度が上がった気がした。敵が狙っているかもしれないような場所にいるのは気分が悪い。誰だって早く通過したいと思うはずだ。

 50mほど進み、再び路地は両側を土塀に囲まれた。土塀の上から銃撃を受けたりする可能性もゼロではないが、遠くから狙撃されたり、流れ弾が当たる可能性は低いだろう。もし、土塀越しに敵が現れたら、担架の2mほど先を行く、護衛を務める戦闘員がうまく対処してくれるよう、期待している。

 さらに50mほど進むと、小川があった。村の中まで引かれている灌漑用水だ。幅が2mほどあり、ちょっとした運河としても使えそうなくらいだ。水が灰色に濁っており、深さはわからない。

 我々の進む路地は橋となって、その川を越えている。橋の先はT字路になっている。我々は橋を渡った。幅が1.5mほどあるので、難なく渡れた。路地両側の土塀は橋の手前までで無くなったが、今いる地点は周辺家屋に囲まれているおかげで、ひらけた場所ではない。

 我々はT字路を左に進んだ。ここからが問題だった。通路の左側は川で、右側は泥の溜まった溜池だった。しかも路地の幅が1mくらいしかない。皆、カニのように横向きに歩いた。まともに正面を向いて歩くと、川か池に落ちる。10mくらい先で路地は右に曲がっていて、そこからは川もなく、幅も広いので普通に歩ける。

 我々はそこまでなんとか持ちこたえられるよう、バランスを取りながらカニ歩きをした。あと1mで右折というところで、路地の右側に土塀があり、さらに悪いことに、道幅が20㎝ほど狭くなっていた。



 私を含め、担架の右側にいた者は少し左に寄らざるをえなかった。おのずと左側の者が川に向けて押されることになる。最初の被害者はMINIMI担当の工兵だった。彼は「くそっ」と言って、後ろにのけぞった。

 私は左手で彼の右腕をつかんだ。
「いいんだ。俺は水に入る。」

 彼はそう言って、濡れずにいることを放棄し、落ちるように川に入った。右側にいるもう2人の工兵たちも川に入った。川は意外と深く、水深は彼らの胸のあたりまであった。私は自分が担架の右側にいて良かったと安心した。
 
 3人の工兵たちは胸まで川に浸かったが、キャリングハンドルを放さず、手を高々と上へ伸ばし、負傷者が担架の傾きで滑り落ちないように努めてくれていた。

 私はこの3人の献身的な行為に感動した。外人部隊とフランス正規軍は別々のように見なされるが、彼ら正規軍の工兵たちは、今、外人部隊の負傷者のために必死になっている。我々は異種の部隊どうしだが、協力しあえる。私の中に、フランス正規軍に対する感謝の気持ちが生じた。

 1mほど川を進むと、3人は順番に上陸し、通常の歩き方で搬送を再開した。

「交替しよう!」
 そう言って、次々に後ろから交替要員が名乗り出た。ハンドルを持つ8人が代わる。私はアンビュバッグをつづける。空気の送りかたが特殊なので、交替すべきではないと判断した。それに、私は負傷者の体重の影響を受ける役割ではないので、彼らほど疲労困憊はしていない。

 やがて家屋のある地域から出て、麦畑地帯に出た。200mほど突き進めば荒野に出て、さらに200mくらいでCOP51の敷地に入る。

 まだ穂の生えていない若い麦が足にまとわりつき、歩きにくい。しかも、地面が凸凹しているので、転倒したり、足首をひねらないように注意がいる。搬送の速度が落ちるのがくやしかった。

 さらにアンビュバッグに血が伝わってきて、私の手のところまで到達した。コンバット・グローブをしていたが、ヌルヌルと滑り、アンビュバッグが揉みにくい。ちゃんと揉むのにコツと握力が必要だ。手の筋肉が痙攣を起こしそうだ。しかし、この手を止めるわけにはいかない。

「VABが来ている!」

 誰かが叫んだ。装甲車VABが2台、麦畑を越えたところの荒野に停車しているのが見えた。我々から直線距離で100mくらいの位置だ。ところどころに低い土塀があったり、ケシが生い茂っていて、そこに向かって直進はできない。

 やがて平らで広いあぜ道に出た。あと数十メートルで荒野に出る。そのあとは50mくらい進めば装甲車だ。

 麦畑と荒野のあいだに幅2mくらいの小川があった。残念なことに橋がない。水はキレイで底も見える。水深20㎝くらいだ。
 「くそっ」と思った。せっかくここまで足を濡らさずにきたのに、最後に濡らすことになるなんて。

 我々は“ジャブジャブ”と川を進んだ。3、4歩だけだったが、靴下に水が浸みてきた。
 川を越え、右に曲がり、VABを目指すと、VABのほうから第1小隊の兵士が折り畳みの強固な担架を持って、駆けてくるのが見えた。その姿は頼もしかった。

 彼は、我々と合流する前に立ち止まり、担架を広げ、地面に置いた。担架の準備ができると同時くらいに我々はたどり着き、フォックストロット担架ごと、負傷者を強固な担架の上に降ろした。

 担架は第1小隊の隊員2人が運ぶ。頑丈な棒が左右に2本通っているので、前後に1人ずつの2人で運べる。アンビュバッグは引きつづき、私が操作する。

 2人の歩く速度は遅かった。私のアンビュバッグ操作を考慮に入れているのだ。
「もっと速く行っていい!」
 私が言うと、小走りになった。

 VABまでの距離が30mほどに詰まった。本部中隊の医療小隊に属するVABが、開いた後部扉をこちらに向けて待っている。扉のそばに連隊の軍医長を務めている大佐が立っており、なかには看護官の上級曹長と、衛生隊員の上級伍長がいる。

「VABに載せろ!」
大佐が言った。

「VABのなかだ!VABのなか!」
 私は大佐の指示を、搬送している2人が確実に理解するように言った。

 我々はVABに到達し、後部扉から後部スペースの床に担架を50㎝ほど滑り込ませた。
 なかの上級伍長がアンビュバッグを受け継ごうと、手を伸ばす。私は、プルキエ少佐が指示した速くて浅い空気の送り方を示し、言った。

「こうやるんだ!少佐がそう言った !」
「よし、わかった!」
 私はアンビュバッグを放し、彼に託すと、担架から数歩さがった。担架は中の上級曹長に引かれ、外からは搬送してきた兵士や大佐によって押され、VABに完全に収納された。

 大佐は観音開きの後部扉の片方を閉めると後部スペース内に飛び乗った。私はもう片方の扉を閉めた。担架を運んできた兵士が重い扉を押し、手伝う。

 VABはすぐさま発車し土埃をたてながら、COP51のほうへ走っていった。

 私は発車せずに残っているもう1台のVABに向かう。我々医療班のVABだ。車両整備班の操縦士が運転してきてくれた。7.62mm機関銃の銃座には同班の上級軍曹がいる。
「負傷したのは誰だ?」
上級軍曹が私に尋ねる。

「わかりません。顔が変形していたので・・・。」
 プルキエ少佐をはじめ、負傷者搬送に携わった兵士たちがVABの近くに到着した。少佐のそばには通信兵がおり、そのバックパックの中の無線機から伸びる受話器を片手に、もう片方の手にある紙を見ながら、少佐は無線で通話している。

 負傷者の情報を伝えているのだ。
「名前はハブリック・・・。」
 この瞬間、私はやっと負傷者が誰かを知ることができた。

 少佐が情報を伝え終わったとき、ようやく我々第3中隊の救命活動は終了した。ハブリック一等兵を運んだ兵士たちは、切らした息を整えようとしている。私はVABの屋根にあがり、保管スペースから水のボトルを皆に投げて渡した。

 ハブリックの担架搬送の距離は500m弱だったと思う。2008年11月にアフリカ・ガボン共和国のジャングルで参加したコマンド訓練の最終想定で、4kmの距離を小隊の皆で代わるがわる大きな隊員を担架搬送したことがある。当時は、「こんな長距離を運ばせやがって」と皆で文句をつぶやいたが、今回の実戦での搬送において、その経験が精神的に支えとなった。あのときよりはマシだったからだ。

 数時間後、夕方になり、薄暗いなか、村に入った全員がCOP51に帰還し、それぞれのVABに戻った。我々医療班がVABに戻ると、本部中隊・衛生小隊の看護官が現れて言った。

「ヘリコプターのなかで彼は死んだよ。」

 VABでCOP51に運ばれたあと、フランス軍のヘリコプターに載せられ、カブールの国際部隊病院に搬送される途中だった。

「くそぉ・・・。」
ミッサニが静かに落胆の声を漏らす。

 その後、しばらく医療班は沈黙に包まれていた。責任感や道徳心の強いミッサニは見るからに落ち込んでいた。私は心配になったが、何も言わなかった。へたなことを言って、余計に落ち込ませることになるかもしれない。誰もが黙っていた。

 私自身は、「救えない命もある。ハブリックはそれだったんだ」と考えていた。そのため、心は痛くなかった。頭を撃たれたのだから、ふつう助からない。救命活動を放棄したとしても非難されることがなかったかもしれないほどの重傷だ。

 それでも少佐は救命活動を実施するみちを選んだ。本当の理由はわからないが、私が思うのは、周りの兵士たちの士気を維持するためだったのではないか。

 もし我々がハブリックの救命をやらなかったとしたら、周りの兵士たちは自分たちが負傷した場合も見放されると考え、医療班に不信感を抱くようになり、不安感が高まり、士気が落ちるだろう。

 しかし、今回の救命活動を見たり聞いたりした場合、「もし自分が負傷したら、周りの皆が必死になってくれる」と思い、士気もあがるだろう。そこに今回の救命活動の意義があったと私は思う。我々の行為は決して無駄ではなかった。


 ハブリック一等兵はスロバキア出身で、23歳だった。フランス軍の戦死者として、遺体の入った棺は、フランス国旗に覆われてアフガニスタンを発った。
 タスクフォース・アルトーで最初の戦死者が発生したことで、私は自分たちが本物の戦争に来ていることを強く実感した。



一旦終了

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今まで、約1年半のあいだ、ありがとうございました。連載は一旦終了ですが、今後もちょっとした記事や写真をアップすることがあるかもしれません。
それから、Vショーやブラックホールなどにお邪魔したり、個人出店することもありますので、今後ともよろしくお願いします。


さようなら。Au Revoir.

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(16)アフガニスタン