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Posted by ミリタリーブログ  at 

2013年02月11日

新COP建設

はじめに

このたび、我が連隊2REPがアフリカのマリに実任務でパラシュート降下を決行したというニュースが入ってきました。
実任務でのパラシュート降下は私はやったことがなく、大変うらやましく思いました。

さて、ブログ記事に参りましょう。
今回のエピソードで「COP」や「FOB」や「ADU」など、略語がでてきます。ここで少し用語説明を加えます。
COP=Combat Outpost≒前哨砦
FOB=Forward Operating Base=前方作戦基地
ADU=Adjudant d’Unite≒中隊曹長≒最先任下士官
VAB=Vehicule de l’Avant Blinde≒前面装甲車(フランス軍の主力兵員輸送車)
それではどうぞ。

―――――――――― 

 村に車両で近づき敵の反応を見る作戦から1週間が過ぎたころ、再び同じ形で村に近づく作戦に出動することとなった。今回は、我々第3中隊の後方を工兵部隊や輸送部隊の装甲車、トラック、ブルドーザーなどの車両が横切る。

 作戦の目的はタガブ谷の東端に新たなCOPを建設することだ。工兵・輸送部隊が攻撃を受けることなく、谷を北上し、建設工事を実施できるように、第3中隊が盾となるのだ。COPロコから第2中隊も参加する。

 前回の作戦と同じように、未明に我々の車列はFOBトラを出た。途中から暗視装置を使い、無灯火で車両を操縦し、配置についた。配置は前回とほぼ同じで、戦闘小隊や中隊長、副中隊長のVABが谷の西側にある村に横一列で面して、潜む敵と対峙し、我々衛生班はADU班や車両整備班と少し後ろで待機だ。

 明るくなるころには配置につき、次の動きを待った。敵が撃ってくるのが先か、COP建設隊が通るのが先か。今は、とにかく待つことしかできない。実戦というのは、何もしない待ち時間が本当に多い。

 数時間後、動きがあった。建設隊の通過だ。私の後方、つまり東側数百メートルの道路上を、トラックや装甲車が走っているのが見える。オリーブグリーン色のブルドーザーも走っている。


 建設隊の車列が走っている道路はタガブ谷の南東から北へ向かって延び、途中で西へと曲がり、谷の真ん中あたりで再び北へ向かって延びている。そのまま、ずっと北上すれば、別のフランス軍部隊「タスクフォース・ブラックロック」のいるFOBタガブにたどり着く。

 私の位置からは見えなかったが、建設隊はその道路が西へと曲がるところで道路から外れ、荒野を北東方向へ数百メートル進み、東端の山のふもとまで移動した。どうやら、その辺りには第2中隊がいるようで、彼らが建設現場の警護を担うらしい。


「ブラック3、コンタクト!」
 敵が撃ってきた。遠くで乾いた連射音が響き、第3小隊小隊長の声が無線から流れた。ブラック3は第3小隊を表す。ブラック1なら第1小隊だ。

 第3小隊の連中が応戦する銃声が聞こえる。そんななか、私は彼らの後ろのVABのなかでじっとしている。もどかしい。どんな戦闘になっているのだろうか?

 後で第3小隊の仲間に聞いたところ、興味深いエピソードを話してくれた。

 土壁に囲まれたアフガンの伝統的な家屋を「コンパウンド」と国際部隊は呼んでいるのだが、村の端に位置するコンパウンドから敵は発砲していた。第3小隊のVAB群は村から約600mまで距離を縮めている。

 何人かがコンパウンドに向けて発砲した。敵を狙い撃つというより、敵をコンパウンドのなかに封じ込め、撃ってこられなくするための牽制だ。FAMASやMINIMIの5.56mm弾からブローニングM2の12.7mm弾まで、派手に撃ち込まれた。

 第3小隊の狙撃兵、ベラルーシ人のヴェラメユー伍長とスロバキア人のドルニック一等兵はFRF2狙撃銃とともにVABを降り、少し離れたところの、荒野がやや隆起した地点にスリーピングマットを敷いて、伏せた状態でFRF2に装着された8倍スコープで敵を捜した。
←FRF2

 ドルニックが村の端の低い土壁越しに銃を構える敵を見つけ、ヴェラメユーに伝え、発砲した。
外れた。ヴェラメユーが続いて発砲する。外れた。再びドルニックが撃つ。外れた。

 やがてその敵は2人に気づき、2人に向けてセミオートで発砲を始めた。フルオートではない。敵はAKを連射する傾向にある。ドラグノフ狙撃銃を使用していたのだろうか。

 敵弾も2人に当たらなかった。引き続き2対1での撃ちあいが続いた。ドルニックたちは2人で合計30発ほど撃ったが、結局互いに1発も当たらないまま、敵は壁の陰に入り、姿をくらました。

狙撃手というと「One Shot, One Kill」とか「One Round, One Kill」という一発必中のイメージがあるが、今回はイメージダウンとなってしまった。そういうときもある。2人は引きつづき、村の監視をつづけた。


つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2013年01月28日

コンタクトPart2

「ブラック、こちらサンダー。RPGを持つ敵1名を確認。座標は・・・。」
無線から音声が聞こえた。「サンダー」というコールサインを持つ35RAPの観測班が、敵のいる地点の地理座標を中隊長に報告している。離れた観測地点から高性能監視機器で村のなかの敵を捉えたのだ。

「ブラック、こちらソード。敵を視認している。発砲許可を要請する。」
今度は「ソード」、つまりTE(精鋭射手)班から無線が入った。その敵を狙撃する準備ができたようだ。あとは中隊長が発砲許可を下せばいい。

中隊長が応答する。
「待て・・・。」

「えっ、なんで?」と思った。明らかに敵である人間をたおすチャンスなんだから、「よし撃て」と言えばいいじゃないか。

少しして、ふたたび無線に中隊長の声が入った。
「撃つな。」
「了解。」

TE班は撃たないことを了解した。命令は命令だ。仕方ない。「待て」から「撃つな」の命令の間の時間、中隊長は連隊長などの連隊上層部に許可を申請していたのだろう。しかし却下された。
やがて、観測班が無線で言った。

「RPGを持った敵は建物に入り、現在は目視不可能。」
しばらくして、アメリカ軍のF15戦闘機が上空を飛び始めた。ときどき村の真上を低空飛行し、敵を威嚇した。これにより、敵も村人も皆、屋内に隠れてしまったにちがいない。とりあえず脅威は去った。

ADU(中隊の最先任下士官)、我々医療班、車両整備班、工兵小隊のVABは移動を始めた。我々はADU、車両整備班とともに戦闘小隊の後方数百mくらいの荒野に陣取った。ワディ(涸れ谷)から開けた荒野に出たので、村を眺めることができるようになった。工兵小隊はどこか別の場所へ行った。

午後になり、F15がバグラム航空基地へと飛び去り、静かな時間がやってきた。ますます暇になった。すると、観測班から無線が入った。
「村のなかを約40名の非武装の人々が北に向かい歩いている。さらに約20名が南に向かい歩いている。」

すごい人数だ。戦闘が始まり、どこかに隠れていた現地民が動きだしたのだ。彼らにだって、今日中にやらなければならない農作業などがあるはずだ。足止めをくらって、今ごろ文句を言っているにちがいない。

我々と敵との戦闘は、彼らにとっては、台風や洪水のような災害みたいな感覚なのかもしれない。戦闘が台風のように過ぎ去れば、普段の農作業を始める。この村に天気予報が存在するなら、「今日の天気は、晴れのち戦闘、そののち晴れ」のような予報が報道されるのだろう。

静かな時間が長くつづき、退屈の度合いがピークに達してきた。運転席に座りっぱなしで尻が痛い。VAB後部のオアロ上級軍曹とミッサニ伍長は、後部扉を開け、外に出て、立ち小便をしたり、携帯コンロで湯を沸かし、コーヒーを入れ始めた。

とうとう私も運転席上部のハッチを開け、座席に立ち、胸から上を外に出した。背伸びをし、上体を左右にひねり、コリをほぐす。広がる荒野や遠くに見える雪山の山脈を眺めた。自然は美しい。

“パパパパパパン!”
“ドドドドドドン!”
突如、村から銃声が響き、OMLTやアフガン軍が応戦した。5.56mm、7.62mm、12.7mmの発射音が混ざる。

我々の位置からは遠かったので、当たらないだろうと、私は隠れなかった。すると、近くの空中で“ヒュン”と音がした。流れ弾が1発、そこを通ったのだ。自分から約20mくらいの距離に感じた。

若干、離れているうえに、私を狙って撃った弾ではなかったので、恐怖は感じなかった。しかし、次に来る弾丸が当たると嫌なので、私は素直に運転席に入った。後部の2人も車内後部に入り、そこでコーヒーを飲んだ。緊張感のかけらもない。

銃声はすぐにやんだ。無線で観測班の報告が聞こえる。
「負傷した敵が4名見える。」

やった!戦果が出た。負傷した敵は他の敵たちによって、どこかへと運ばれていった。無線では、負傷の種類や箇所など、詳しいことはわからなかった。しかし、少なくとも敵にダメージを与えることができた。私の手によるものではないが、嬉しかった。

その後は何も起きないまま、夜になった。OMLTとアフガン軍はCOPフォンチーに帰還した。我々は、ADU班、医療班、車両整備班の乗員で、交替で見張りにつき、夜を過ごした。

見張りは、小さな円陣を組んだ3台のVABの周囲をグルグルと巡回するだけだった。暗視装置で時々周囲を見渡し、近づいてくる者がいないか、見張った。

結局、なにも起きず、翌朝4時半ころ、暗闇のなかを暗視装置を使い、我々は皆、離脱した。グリーンゾーンからじゅうぶん離れると、暗視装置からヘッドライトに切り替え、FOBトラに帰還した。全員無事で、第3中隊の車両には弾痕は一切なかった。OMLTやアフガン軍の車両についてはわからない。

今回の任務は、戦闘があったにもかかわらず、全体としては退屈だった。しかし、本当の戦争ではそういう時間のほうがはるかに多いのではないだろうか。アクション映画ではいつも派手だ。イメージと現実は違う。

とりあえず、敵が本当に潜んでいるということを実感することができた。しかも惜しみなく撃ってくる。これからの任務において、何とか民間人に被害を出さずに敵を排除できるといい。


←アフガン軍
←バグラムを離陸するF15と見物する仏兵
←コーヒーを入れるとすぐにハエがたかる

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2013年01月21日

コンタクト(接敵)

10時50分ころ、35RAPの観測班からの無線交信が聞こえた。
「村のモスク(イスラム寺院)にAK、PKM、RPGで武装した男たち13名が入って行った。」

その10分後、さらに報告が無線で伝えられる。
「モスクから13名が出た。武装している。」
「了解」
中隊長が応答する。

モスクの周りは広場になっており、監視所からよく見えるが、そこから通路に敵が入ると見失ってしまう。通路の両脇に沿って、高さ2mほどの土壁が連なっているからだ。ヘリやドローンが敵の真上から観測すれば見つけられることもあるが、意外と難しいらしい。農具を持った非戦闘員の村人たちもいる。

新たに無線交信が入った。今度は、アフガン陸軍と行動をともにしている仏軍OMLT部隊の小隊長から、われわれ第3中隊の中隊長への交信だ。
「ブラック(中隊長コールサイン)、こちらオリオン(OMLTコールサイン)。これよりANA(アフガン国軍)とともにそちらへ向かう。」
OMLTとアフガン陸軍部隊も作戦に参加するようだ。

OMLTのVAB数台とアフガン陸軍のハンヴィーやトヨタ・ピックアップトラック数台は、南側から戦闘小隊のVAB群にむけて、荒野を北上していた。我々の待機しているワディの下流域を横切るのが遠くに見え、すぐに見えなくなった。もうすぐ第3中隊のVAB群に合流するだろう。

突然、無線からOMLT隊長の大声が聞こえた。
「オリオン、コンタクト(接敵)!」

ついに始まった。私はVABの座席に深く座りなおした。
パパパパン・・・。敵のAK小銃の連射音が離れた我々のもとに聞こえてきた。「あぁ、本当に撃ってくるもんなんだなぁ」「本当に敵って存在するんだなぁ」「本当にここは戦争してるんだなぁ」と思った。

OMLT隊長がその敵の位置を無線で皆に知らせようと、あらかじめ部隊で決められている村内区画のコールサインを、興奮で声を荒げて言った。
「エコー8地点より敵の攻撃あり!現在、応戦中!“バンバンバンバンバンバン・・・”」

交信の最後に、OMLTのVABに搭載されたブローニングM2重機関銃が12.7mm弾を連射する爆音がまぎれこんだ。その1~2秒後、遠くから「バンバンバンバンバンバン・・・」という連射音が私の耳に届いた。

それは、無線で聞いたM2重機関銃の連射音と同一のもので、音が空気を伝わる速度より、無線電波の速度のほうが速いため、ズレが発生したのだ。あたりまえの現象ではあるが、理科の実験を成功させる小学生のように感動した。

ついに交戦となった今、我が中隊はどう動くのか?負傷者が発生し、我々医療班の出番は来るのか?気が引き締まった。

銃撃戦はつづく。しかし、私の位置からは何も見えない。発砲音を聞き、無線で交信される会話内容から状況を読みとることしかできない。OMLT、アフガン軍、戦闘小隊、中隊長班は敵弾の脅威にさらされているのに、私自身は銃弾の飛んでこないワディのなかでじっとしている。

命の危険を冒している彼らに対し、申し訳ないという思いが込みあげ、安全を享受している自分に少しイライラしてきた。冷静になるべきだ。そこで、「今はここで待機するのが自分の役割だ」と自分に言い聞かせ、落ち着きを取りもどした。もし重傷者が発生したら、我々医療班は彼らが同情するくらい忙しくなる。

それに、今、最前線にいる仲間のほとんどが、自分たちの置かれた状況に満足しているだろう。敵と直接対峙する経験は貴重だ。もし私が、「きみらの立場と私の立場を交換しよう」と提案しても、彼らは断るだろう。だから彼らに申し訳ないという思いを抱く必要もない。ひとつ大口を叩かせてもらえるなら、逆に彼らこそ、陰で暇をしている私に申し訳ないと思うべきだ。

“ドゥゥゥン!”
大きな爆発音が聞こえた。

“ドゥゥゥン!”
また聞こえた。

2個戦闘小隊のうちの1つ、第3小隊の小隊長が無線で中隊長に報告するところによると、敵がRPG-7を発射したらしい。放たれたロケット弾は2発とも外れ、地面に当たり爆発した。

戦闘小隊の同僚にあとで聞いたのだが、ロケット弾が炸裂した地面には、直径約1.5m、深さ約1mのクレーターができていた。その同僚曰く、「ここの地中は石だらけで固いのに、こんなに大きな穴があいた。あんなのがVABに命中したら絶対に助からない。」

“ドゥゥゥン!”
ふたたびRPGの爆発が聞こえた。無線によると、アフガン兵が発射したものらしい。残念ながら成果はなかった。少しして銃撃もやんだ。

あとで聞いたのだが、この銃撃戦ではOMLTとアフガン軍だけが応戦していた。戦闘小隊は撃たなかった。小隊長たちが発砲許可を出さなかったという。実際に直接攻撃を受けたのはOMLTとアフガン軍だけで、彼らは戦闘小隊よりも村に近づいたため、攻撃を受けたらしい。




↑タガブ谷の荒野

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(6)アフガニスタン

2013年01月14日

潜入Part2

エンジンを切ったら、とても静かになった。我々の前にいるADUのVABもエンジンを切っている。となりの助手席を見たが、プルキエ少佐は座席の上に立ち、上半身を回転式砲塔に出しているため、顔は見えない。
車窓から左側を見ると、道路のすぐ向こうには丘があった。あの丘のからは敵の潜む村が見えるはずだ。つまりこの坂を登りきれば、その村が見えてくるだろう。

車列の前方にいた戦闘中隊のVABや中隊長班のVABは、きっと村に対して横一列の車両編隊を組み、車間距離を50mくらいとり、だだっ広い荒野を進む準備を整えているのだろう。

そして、長距離の火力支援や観測を行なう班は、村とは反対方向へ進み、山を少し登り、村を見渡せる地点に向かっているのだろう。対戦車ミサイル「ミラン」を扱うミラン班、「PGMエカットⅡ」という12.7mm口径の狙撃銃を使用するTE(Tireur d’Elite=精鋭射手)班、そして35RAP(第35砲兵パラシュート連隊)の観測班がそれだ。

やがて明るくなった。暗視装置をヘルメットから外し、クッション代わりのネックウォーマーに包んでポーチにしまった。上り坂の我々の前方には、ADUのVABがあり、その前には2台のVABが見える。17RGP(第17工兵パラシュート連隊)所属の工兵小隊のVABだ。それより先は坂を登りきった地点より向こう側なので見えない。

「クリーク、ガーネット、予定通りの配置につけ。」
無線から中隊長の命令が聞こえた。「クリーク」はADU、「ガーネット」は工兵小隊のコールサインだ。この場合、我々医療班と車両整備班のVABはADUのVABについて行く。私はVABのエンジンをかけた。
「クリーク、ルスュ(クリーク、了解)。」
「ガーネット、ルスュ(ガーネット、了解)。」

ADUと工兵小隊の小隊長が無線で応答し、前方に見える工兵車列とADUのVABが前進を始めた。私はそれにつづいた。サイドミラーに目をやると、後方にいる車両整備班のVABが発車したのが見える。

こうやって後方を確認することは絶対に忘れてはいけない。特に一旦停止したあとに、再び前進するときはなおさらだ。もし、運転手も助手席の者も睡魔にやられるなどして、前進する車列について来なかったら、部隊が離ればなれになってしまう。

VABの後部のハッチから周囲を警戒する兵士がいたりするので、そのような事態は起こりにくいが、1度、フランス南部の演習で起きたことがある。疲れがピークとなる演習最後の夜中、一旦停止したあと、最後尾のVABの乗員が眠りに落ちてしまい、1台だけ置き去りにされてしまった。あのときは私も運転手を務めていたが、私自身もときどき居眠り運転をしてしまった。

今はまだ任務開始から間もないので、疲れておらず、その心配はなかった。そのまま我々は進み、坂を登りきった。広い荒野が目の前に広がる。その景色をじっくり眺めたかったが、すぐに下り坂となった。

坂を下ると、先ほど見えた広い荒野より低い場所に来た。再び道路は登り坂になっているが、工兵小隊の車列は右方向へと道路から外れた。ADU、我々、車両整備班のVABもそれにつづく。

周辺より少し低くなった地形の場所を我々は進んだ。ここはワディ(涸れ谷)だろう。やがて工兵小隊のVAB 4台が半円形の編隊を成して停車した。我々3台は彼らの反対方向に向かって半円形の編隊を成し、全体で円形の360度警戒の拠点が完成した。

「クリーク、配置についた。」
「ガーネット、配置についた。」
それらの無線報告に中隊長が答える。
「了解。全隊、グリーンゾーンに対し引きつづき警戒せよ。」

「グリーンゾーン」とは、イラクのグリーンゾーンのように、国際部隊が統制する安全地帯のことではない。アフガニスタンにおいては、それとは真逆に、危険地帯のことをいう。肥沃な農村地帯で緑が多いことから、そういう名称がつけられたらしいが、ここではほとんど緑は見られず、枯れた木々や、乾いた荒野しか見えない。

我々はグリーンゾーンを眺めることのできないワディで待機だ。医療班は負傷者が発生するのを待つ。正直、つまらない。戦闘小隊みたいに最前線に立ちたいと思った。しかたがない。これが私の役割だ。

その頃、戦闘小隊と中隊長、副中隊長のVABはグリーンゾーンに面して横一列となっていた。村の端の家々から800mほどの位置にいたらしい。

ミラン班、TE班、観測班はもう少し後方の小高くなった位置に陣取り、村を監視していた。ミランやPGM狙撃銃の射程を考えると、2kmを越えて離れることはないが、私には正確な位置を知るすべがない。

我々はエンジンを切り、待機した。これからどんどん陽が昇り、暑くなっていく。

何も起きないまま、時間だけが過ぎていく。30分・・・1時間・・・。上空からは、「パタパタパタ・・・」や「ブゥゥゥゥゥン」という音が聞こえてくる。米軍ヘリ「カイオワ」と仏軍のドローン(無人偵察機)だ。ドローンは、音はするが、機体を見つけることができなかった。

カイオワやドローンの音を聞きながら、じっと待った。結局何も起きないのだろうか?まあ、そういうこともある。グリーンゾーンにもっと近づかないのか?RPGでやられる。




←ミラン
←PGM

つづく



  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(10)アフガニスタン

2013年01月07日

潜入

任務当日、まだまだ暗い午前2時半に起床し、3時に装甲車の車列が編成された。我々第3中隊全体、1個工兵小隊など、20台くらいの長い車列だ。

我々医療班のVABは、ADU(最先任下士官の上級曹長)のVABの後ろで、我々の後ろには車両整備班のVABが並ぶ。これらの3台は常にこの順番で車列のなかに組み込まれる。全体の車列のなかでは、後ろのほうだ。

4時半、まだ明るくなる気配すらないなか、車列はFOBトラを出発した。ヘルメットに固定されたアダプターには暗視装置OB70が取りつけてある。ただし、両目の前ではなく、上に向けてアダプターを半回転させ、前頭部のあたりに保持されている。まだ暗視する必要がないのだ。使用するときがくれば、下に向けてアダプターを半回転させる。そうすれば暗視装置は両目の前にちょうど来る。

我々は道路交通法を守り、ライトを点灯して走行した。角を曲がるときは方向指示器を点滅させる。目的地までは幹線道路を通るので、一般車両も走っている。無灯火で走行すると危険だ。意外に多くの一般車両が走っている。朝早い通勤だろうか?トラックは運輸業だろう。

アフガンの運転手たちは、対向車がいるというのに、ヘッドライトをハイビームのままにしている。1台や2台ではない。ほとんどの車がそうだった。まぶしくて困る。路肩を視野の中心に捉えながら運転した。

他にも、カーブでじゅうぶん減速せずに対向車線に進入してくることなどが度々見うけられ、アフガン人の運転は乱暴だとわかった。ここでの運転には、フランスや日本で運転するとき以上に注意しなければならない。

ライトをつけて運転すること約1時間。敵のいる村から我々のライトが視認できるであろう地点の少し手前に到達した。このあたりは町の中心部から遠いので、一般車両が走っていない。無線から中隊長の命令が聞こえる。
「全車両、止まれ。消灯し、IR(赤外線)を使用せよ。」

我々は車間距離を約20mとって停車し、ライトを消した。星だけしか光源がなく、とても暗い。暗視装置を両目の前に下ろした。視野は狭まるが、緑色のかかった白黒映像のような光景が見える。前方の装甲車や遠くの山肌などが浮かび上がる。

VAB車体の左前にあるIRライトのスイッチを入れた。すぐ前の地面や前方の装甲車が鮮明に映るようになった。肉眼では暗闇にしか見えない。暗視装置はすばらしい発明だと思う。しかも手のひらに載るサイズだ。

「全車両、出発。」
中隊長が無線で言った。少しして我々の前にいるADUの装甲車がゆっくりと進みだした。それに続くように私はハンドブレーキを解除し、アクセルを踏む。いよいよ潜入だ。

まだ暗いなか、IR映像を見ながら道路を進んで行く。あと30分くらいで明るくなるだろう。道路はしっかりと舗装されているが、その周りは荒野や山だ。ところどころに村がある。

さらに進むと、道路沿いに小さな集落があった。土や石でできた家屋が5軒ほどある。暗視装置を通して家々の周りに目を凝らすが、人影はなく、犬すらいない。私はすぐさま前方に視線を戻した。

集落を過ぎ、下り坂になった。下るとすぐに上り坂になったが、坂の途中で車列が速度を落とした。停車するのだろう。私は右路肩にVABを寄せた。道路中央に停車したら、追い越す車両や対向車が来たとき邪魔になる。

車列が停まった。なんの無線連絡もないまま、停車して5分くらい経ったが全然動きださない。エンジン音がうるさくて耳に不快なうえ、燃料を節約したかったのでエンジンを切った。

理想的には、停車時もエンジンはつけておいたほうがいい。突然、敵が襲撃してきた場合、すぐに発車できる。エンジンを切った状態だと、エンジンをかける段取りが必要となり、そのぶん遅くなる。運が悪ければ、エンジンがかからないというハプニングに見舞われるかもしれない。

普段から私はミッサニ伍長とともに、VABのメンテナンスを他車以上に実施していたので、エンジンがかからないはずはないだろう。万一、かからなかったら、車内から応戦しよう。VABを乗り捨てて離脱してもいい。

―――――

暗視装置で見る光景↓


←犬とハンドラー

←夜空をあおぐと肉眼で見えない星も見える。

←仏軍暗視装置OB70

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(7)アフガニスタン

2012年12月31日

危険任務直前

はじめに

2013年1月19日より、「アルマジロ」という映画が公開されます。アフガニスタンのデンマーク軍を描いた作品なのですが、欧米では2010年に公開されており、私自身、除隊の少し前に観ました。

自分たちのアフガン任務の映像かと思うくらい、リアルでした。実際、この映画は物語化されたドキュメンタリーで、映像は本物だそうです。

この映画は戦争のイメージトレーニングになるくらい、ナマの戦場を描写しています。

「アルマジロ」、お勧めです。

――――――――――

本格的な任務に出ることが決まった。小隊でブリーフィングがあり、ADU(最先任下士官)のウィルソン上級曹長が中隊の任務を説明した。

それによると、COPフォンチーの北側にある敵の潜む村に、装甲車で敢えて近づき、敵がどう反応するのかをみるという。村の東側に広がる荒野を北上し、東から村へと接近する。

近づくだけで、特に何かをやるわけでもなく、ただ反応をみるだけだ。攻撃を受けるかもしれないし、無反応かもしれない。攻撃されれば、こちらも攻撃していい。少なくとも、この村には約20名の敵がドローン(無人偵察機)により確認されている。

ADUは、小隊事務室の壁に貼られている地図上を指さし、微笑みながら言った。
「ここよりも北へ行けば興味深いことになるだろう。」

つまり、攻撃を受けることになるだろうということだ。ADUは続ける。
「作戦地域には民間人も多く住んでいる。民間人を撃ってはいかん。発砲するときは、やみくもに撃つな。標的の位置が不明なら撃つな。撃つときは、弾がどこへ飛んでいくか把握しながら撃て。」

確実に命中させられる場合のみ撃ってよい、という意味ではない。民間人や友軍を撃たないように注意しろ、ということだ。例えば、遮蔽物などに隠れている敵が、少し体を出してAK小銃などで攻撃してこないように、遮蔽物周辺に連射を加えるという牽制射撃は必要だ。

いっぽう、牽制や威嚇の意味も含まずに、ただむやみに撃ちまくると、民間人を撃ってしまう可能性が高まる。それは上層部、特に政治家たちがもっとも望まない事態だ。ある同僚によると、第4小隊の小隊長は小隊集合時にこう言った。

「民間人に犠牲者が出たら、われわれの負けだ。」

ブリーフィングの後、ベッドの上で物思いにふけった。ついに危険の伴う戦争らしい任務に行ける。どんな展開になるのだろうか?本当に戦闘は起きるだろうか?負傷者は出るのか?戦死者は?

自分が戦死した場合について考えた。やはり死については考えてしまう。自分が死んだら家族や親友たちにどんな影響を及ぼすのだろうか?

今まで生きてきたなかで、家族・親友とはいい思い出がたくさんある。いろいろと感謝もしている。2度と会えないのは嫌だ。これからも何度だって会いたい。

子供を作らずに死ぬのは嫌だとも思った。やはり子孫は残したい。子供さえいれば、死んでもいいと思えるかもしれない。現実にはまだ嫁さんすらいないが・・・。

しかし、少し考えたら、夫を亡くす妻や、父のいない子を残すのはよくないと思い、どうせ死ぬなら妻子のいない現状のまま死んだほうがいいと結論づけた。

そして、最終的には、子孫を残すとか、親友や家族のことは、戦闘に臨むにあたって、いっさい考えてはいけないと結論づけた。そういうことを考えてしまうと、必要以上に生きることへの執着心が生まれ、恐怖に包まれてしまう。死ぬと決まったわけではない。

恐怖を感じたのは事実だが、どうしても戦闘任務に参加したいと思ったのも事実だ。私は医療班として参加するのだが、戦闘班として参加してもいい。正直、敵を撃ちたいと思う。そのための訓練も積んできた。敵をたおすことを考えると少し興奮した。しかし任務はゲームではない。人命がかかっている。

今回の任務を前にして、恐怖と興奮が私のなかで共存していた。これらが大きすぎると、任務に悪影響が出るだろう。

恐怖に包まれれば、思考力がじゅうぶんに働かなくなり、体がうまく動かなくなる。もしそんな状況で負傷者を前にし、的確な判断ができなかったり、手が震えたりすれば、そいつは死ぬかもしれない。

一方、極度の興奮状態に陥ると、「殺す気」がはやり、急に民間人が現れたとき、ついつい撃ってしまうかもしれない。別の可能性としては、敵が撃ってきているのに、遮蔽物を無視して、乱射しながら突撃していくかもしれない。アクション映画のようにうまくいけばいいが、私は無謀なことだと思う。

ただし、恐怖も興奮も、適度に持ち合わせれば、心理的に有効だろう。少しの恐怖があれば無謀なことをせずに生き残る可能性が高まるし、少しの興奮があれば、危険な状況下、勇気をふりしぼり、必要な行動を起こすことができる。

つまり、恐怖と興奮の調節が必要だ。私にとって、最良の方法は、「とにかく仕事をやってしまおう」と自分に言い聞かせることだ。親友や家族に会いたいとか、敵を自分の手でたおしたいとか、あれこれ願望など考えずに、ひたすら自分のやるべきことだけに集中し、実行すればいい。

そうすれば、必要最低限の恐怖と興奮に抑えることができ、ハイテンションになり余計な危険を冒したり、怯えて逃げだすこともないだろう。それでも失敗したならば、「ちゃんとやっても駄目だったんだ」と内心あきらめる。

とにかく自分の仕事をやろう。


つづく

今回は本文に関連のある写真がないため、デンマークに行ったときの写真を載せます。
←アフガン帰還記念パレード
←パレード解散



-


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(6)アフガニスタン

2012年12月17日

兵士に不利な規定

アフガニスタンに来てから1ヶ月ほどが経った。これまで、COPフォンチーへは何度か行き、ルートは馴染み深いものとなった。首都カブールの国際部隊基地へ物資輸送のエスコートで1度行ったし、毛布を配布する人道支援任務にも行った。この1ヶ月、結果的に危険な任務は一切なかった。不謹慎だが、物足りなさを感じはじめた。

そんなとき、少し緊迫する事象がFOBで発生した。その事象に私自身は係っていないのだが、ブラジル人のデコ一等兵が夜明け頃にFOB警備のため、歩哨所から前方に広がる荒野を見張っていたときに発生した。

薄明るい中、100mほど先に1人のアフガン人がFOBを向いて、地面にしゃがみこんでいるのが見えた。FOBと現地社会を隔てる有刺鉄線の外側なので、法的には問題はない。しかしデコは、そのアフガン人が急にAK小銃を服から取り出し発砲するのではないかと懸念した。

デコは報告のため、無線で警備班詰所を呼び出す。応答がなかった。無線が故障したのか、交信ができない。持ち場を離れて、警備班長の軍曹のところまで伝えに行くわけにはいかない。さあ、どうするべきか。デコは考えた。

まずは、「デガージュ!デガージュ!(仏語:うせろ)」と大声を出して、アフガン人に立ち去らせようとした。片腕を大きく振るジェスチャーもつけ加えた。

アフガン人はピクリともしない。言葉やジェスチャーが通じなくても、武装している兵士が大声を出している場合、その場を離れたほうがいいことくらい、普通ならわかるはずだ。我々が簡単に発砲できないという規定を知っている敵がFOBを観察しているのかもしれない。もしくは、声が聞こえていなかっただけかもしれない。

デコはFAMASを1発だけ撃った。弾丸はアフガン人から離れた地面に当たった。ウォーニングショットだ。するとアフガン人はゆっくりと立ち去り、見えなくなった。一件落着したが、その後はデコにとって「一難去ってまた一難」だった。

銃声は他の歩哨たちを驚かせ、彼らは警備班詰所に無線連絡を入れた。詰所の軍曹は、ぐっすり寝ている基地の上層部を即座に起こすわけにはいかず、状況確認のため、各歩哨所に連絡を入れた。デコだけが応答しない。軍曹はデコのもとに班員を派遣し、確認させ、状況を知ることとなった。

敵襲ではなかった。FOB敷地のすぐ外側にアフガン人がいただけだったが、発砲したため、デコは軍曹に怒鳴られた。「基地の敷地内に入ってきていないなら撃つな。それが規定だ」と。さいわい、警備班を除く、FOBで生活する者は建物のなかにおり、ほとんどの者が睡眠中だったので、銃声は気づかれず、騒ぎにならなかった。

デコは後日、私とフランス人のムニエ一等兵に言った。
「ウォーニングショットが許されないなんて絶対におかしい!もしあのアフガン人がRPGを取り出して、僕に向けて発射してたら、僕は死んでたかもしれない。」

デコはさらに続ける。
「こんな規定、現場を知らない、エアコンの効いたオフィスのお偉いさんが決めてるから、実践的じゃない。」
いろんな映画や書籍によくある定番の台詞だ。
「ああ、マジでクソだ。」
ムニエが相槌をうつ。私は「難しいよな」と無難な反応にとどめた。

実は私はデコのやったことに賛成していない。我々兵士の仕事は、「オフィスのお偉いさん」の決めたこと、いわば「命令・規定」に従うことだ。その範囲で、自分たちが有利になるように工夫するのが、兵士という仕事の精一杯だ。

それに、「お偉いさんに現場の者が翻弄される」という構図は、大昔からある構図だ。今さらそれに不満を言うのはよそう。それが原因で戦死しても、それは仕方のないことだ。残念ではあるが、仕方のないことだ。私自身が戦死しても、私は「仕方ない」と思うだろう。

私はその見解をデコたちには伝えない。もし伝えたら、「じゃあ、つまらない規定のために僕らが死んでもいいのか」と思われてしまい、多くの同僚を敵に回すかもしれない。それに、実際に自分がデコの状況に陥ったわけではないので、敢えて強く主張するべきではないと思った。

そもそも「ウォーニングショット禁止」自体は、とんでもない規定だとは思わない。むやみに威嚇発砲された現地民が我々ISAF(国際治安支援部隊)に対して恨みを持てば、フランス政府をはじめ、派兵している国の政府にとっては不都合だ。だから「お偉いさん」たちは兵士に不利な規定を制定せざるを得なかったのだろう。

我々は、B級アクション映画の登場人物のように、好き勝手に武器を使うために派遣されてはいない。フランス政府の政策のために来ている。我々に有利か不利かは関係なく、政府が望むことをやり、望まないことはやらない。ただそれだけのことだ。

そんなふうに考えるのはダサいかもしれないが、私はそのように、乾いた目で見て、割り切って考えている。



つづく


  


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2012年12月10日

米軍特殊部隊 衛生装備Part2

「バックパックは背負うのか?」
私が尋ねると、ジャックは床からタン色のバックパックを持ち上げ、言った。
「こいつを接続する。」

それは、おおよそ縦45㎝・横25㎝・厚さ10㎝の医療用バックパックだが、製造会社はわからなかった。私のメディカルパックより小さく、3分の1くらいの容量に見えるほどだ。

ジャックはアーマーの両肩後方部分に付いている「雌」バックルに、バックパックの「雄」バックルを差し込み、接続した。上部だけが接続されても、下部が固定されていないと、実際に着用して活動したら、バックパックがバタバタ揺れるはずだ。

よく見ると、幅2.5㎝ほどの細い、腰に巻くストラップが両サイドの下方から伸びていた。これを胴回りのポーチ類より下で巻き、暴れないようにできる。ぬかりない。

バックパックの両サイドには1つずつ、SOFTT止血帯が輪ゴムで固定されている。ジャックは、両手を下側から後方へ回し、背中中央にタッチしながら言った。
「こうやって止血帯をつかんで引っ張れば、ゴムがちぎれて、簡単に止血帯を手にすることができるんだ。」

ジャックはいろいろ教えてくれるから、ありがたい。ただし、私はこの止血帯携帯方法を採用しない。岩や木とバックパックが擦れたとき、落としてしまう可能性がある。特にゴムはアフガンの高気温で劣化が著しいのではないか。アーマーの前面に固定すれば、視野の範囲内なので、擦ることも少ないし、落ちても気づきやすい。

ジャックはバックパックのジッパーを開き、中身を見せてくれた。中はやはり、医療品が小分けできるように、いくつかのコンパートメントが設置してあった。クイッククロット、圧迫包帯、気管挿管キット、気道確保用具「エアウェイ」各種、医療用テープなどが収納されている。圧迫包帯は、仏軍が採用しているイスラエル製「エマージェンシー・バンデージ」だけでなく、新開発アメリカ製の「OLAESモジュラー・バンデージ」などのバリエーションがあった。

アメリカ軍は新製品を持ち、さすがだと思ったが、私が携行する医療品より大幅に量が少ない。そこで私は尋ねた。
「バックパックが小さいけど、携行できる医療品はこれで十分なのか?」
ジャックが自信のこもった声で言った。

「小さいからこそ、本当に必要な医療品を厳選することができるんだ。負傷のパターンはいくらでもあり、その対処に必要なものを考え始めたらキリがない。バックパックが大きいと、実際にはまったく使うことのない医療品まで入れてしまい、重くなってしまう。」

ジャックのこの説明には感心した。装備が重すぎると、移動するだけで疲れてしまい、戦闘になったときや、負傷者が発生したとき、十分に能力を発揮できなくなるのだ。そして、そのことで誰かが死ぬかもしれない。自分かもしれない。珍しいパターンの負傷が発生し、それに対応する医療品を携行してなかった場合は、「運が悪かった」とあきらめるしかない。

実際に私は、バックパック内のスペースが許す限り、できるだけ多くの医療品を詰め込む傾向にあるかもしれない。その重さが今まで問題にならなかったのは、フランス軍が米軍ほど物質的に豊かでなかったために、バックパックがいっぱいになるほどの医療品を支給できなかったからだろう。



「車両移動の場合は、これらも持って行くんだ。」
ジャックはそう言いながら、バックパック1つ、バッグ1つを床から担架に持ち上げた。バックパックはロンドンブリッジ社製の「1562A」というメディカルパックのタン色で、サイズは私のメディカルパックと同じくらいだ。中には多くの医療品が収納されていた。点滴各種、圧迫包帯各種など、私の携行する医療品とだいたい同じだったが、量が1.5倍くらいあり、バックパックはパンパンだった。



もう1つのバッグは緑色のショルダーバッグで、本体やサイドポーチのジッパーのプルタブに「Bass Pro Shop」というロゴと口の大きな魚のデザインが入っている。ブラックバスを釣る人たちを対象としたバッグだ。前面のジッパーが大きく「∩」型を描き、そこを開くと、中には引出しが4段あり、それぞれの段が1つの透明なプラスチック製ケースとなっていた。

「釣り具を入れるアイテムは、細かい医薬品なんかを収納するのに便利だから、購入したんだ。」
ジャックはそう言って、ケースを1つ取り出した。透明なので、中に入っている物がすぐわかる。本来ならばルアーを1つずつ入れる枠がいくつもあり、それぞれの枠に異なる種類の錠剤が収納されていた。

「本当に便利だし、バッグの色が緑だから軍で使うのにピッタリだろ。」
ジャックが言った。



確かに民間スポーツ用品を各国の軍隊で使用する例は多い。特殊部隊がマウンテンバイク用のヘルメットを使用したり、クライミングのチョーク入れの小型バッグを、使い終わった空の弾倉を投げ込むためのダンプ・ポーチにしたり。

民間のアウトドア装備のメーカーも、軍の消費者を狙って、オリーブドラブ色や迷彩などのカラーバリエーションを発売している。イギリスのバーグハウス社の「ヴァルカン」というバックパックのオリーブドラブ色は、我々の連隊やフランス軍特殊部隊に多くのユーザーを持つ。

ジャックはその後もいろいろと医療装備を紹介してくれた。私の知らない装備も数多くあり、ジャックとテッドが実演して見せてくれたりした。この部屋は必要とあれば、すぐに診療所として機能することが可能だ。しかも、成人だけでなく、子供用の医療品もある。

私は、兵士である屈強な男性に医療行為を施すことは何度もやってきたが、女性・子供・肥満の人が患者となったら、症状によっては戸惑ったり、失敗したりする可能性は高い。いっぽう米軍特殊部隊のコンバットメディックたちは、年齢・性別・体型に関係なく、あらゆる患者に対処することができる。さすがだ。

さらに、私が部屋の隅にある大きなダンボール箱にある大量の「クイッククロット・コンバットガーゼ」を見ながら、「フランス軍では衛生兵に1つしか、クイッククロットが支給されていないよ」と愚痴をこぼすと、ジャックはダンボール箱から3つつかみ、「持っていけよ」と言って、私にくれた。この瞬間、米軍には一生、感謝の念を持ち続けようと思った。

←クイッククロット

クイッククロットのことや、私1人のために、こんなに熱く医療装備を説明してくれたジャックとテッドに、感謝の意を込めて、「神風」と日の丸が描かれたハチマキを1つずつプレゼントした。京都・新京極の土産屋で、1つ200円くらいで買ったものだ。値段は安いが、「クールだ!」と言って喜んでもらえた。

するとジャックが「これをもらってくれ」と言って、星条旗パッチをくれた。ピンクの塗料が隅っこに少量付着しているが、そのほうが「世界に1つだけ」という感じがして、ありがたい。米軍特殊部隊からもらった星条旗パッチ。これは一生の宝だ。

やがて昼休みは終わり、ズボンのポケットにパッチを入れたまま、午後の仕事、つまり装甲車VABの整備や積荷の整理を始めた。米軍特殊部隊のオペレイティブと仲良くなれたことがうれしく、興奮が止まらない。時々、ポケットからパッチを取り出し、マジマジと見つめ、ニヤニヤした。



アフガニスタンは圧倒的に楽しい。
しかし、もうじき体が環境に適応する頃になると、次々と任務に出ることになる。気を引き締めよう。

←クイッククロットのほか、携帯糧食ももらった

つづく


  


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2012年11月26日

米軍特殊部隊 衛生装備

翌日の昼休み、ジャックが提案してくれたとおり、医療装備を見せてもらうため、私は米軍特殊部隊のセクターへ行った。コンバットメディックのジャックとテッドに案内され、医療装備管理室と診察室を兼ねた部屋に通された。ジャックは青いワイシャツと「5.11」社のベージュ色ズボンを着用し、テッドは暑い真昼なのに、黄土色のフリースジャケットを着て、薄い青色のジーパンをはいている。2人とも右腰の革製ヒップホルスターにM9拳銃をさしている。

「ここが我々のメディカルルームだ。」
ジャックが言い、私は見まわした。
壁際には棚や箱類が設置され、医療品や医療バッグ各種が載せられたり、収納されている。大きな酸素ボンベが目立つ。部屋の中央あたりには、ノースアメリカンレスキュー社の「タロンⅡ」と呼ばれる頑丈な担架が2つ、平行に並べられている。土台に載せられ、ちょうど診察台くらいの高さだ。

入口から遠いほうの担架には、応急処置訓練用のマネキンが寝ている。青いジーパンと黒のTシャツを着ていて、野球チームのものと思われるロゴの刺繍されたキャップ帽もかぶっている。ジャックがそのキャップをすばやく取り、ニヤリとして言った。

「こいつはチャーリーだ。」

今までキャップがあったため見えていなかったが、チャーリーの頭の上部が取りはずせる仕組みだとわかった。はずした部分に外傷を模造したパーツをはめ込めば、頭部外傷の想定訓練が、よりリアルにできる。他の体の部分もはずし、いろいろな外傷パーツを設置できるようだ。

さらに、定番である心肺蘇生訓練もでき、マネキン内に設置されたチューブに空気を送りこむことで、脈拍も発生させることも可能だ。うめき声や悲鳴などの音声も出せる。

「こんなにいいマネキンをFOBまで持参していいの?!」
私が驚いた口調で尋ねたら、ジャックが答えた。
「いいよ。我々自身、時々練習する必要があるから。」

確かに定期的かつ頻繁に反復練習をやらないと、いろいろ忘れる。私もたくさんのことを忘れている。例えば、衛生兵教育で教わった、急な出産における、逆子の取り出し方法は今や曖昧だ。まあ、それに関しては、練習の手段がイメージトレーニングくらいしかないが・・・。

ジャックがさらに言う。
「それに、アフガン軍や警察を訓練するとき、応急処置もカリキュラムに入っているから、よく使うんだ。」
意外とチャーリーは大活躍のようだ。

担架の土台と壁際の棚とのあいだの床には、1着のアーマーといくつかの医療用バックパックが無造作に置かれていて気になった。整理整頓された置き方ではない。我々の中隊なら、ほとんどいつもイライラしている軍歴25年以上の古参兵が、住環境を見張り、整理が不十分だと怒りだすだろう。しかし、米軍特殊部隊のほうは完全に自己管理で、この独立感・自由感が「さすが特殊部隊だ」と思った。

「このアーマーはジャックの?テッドの?」
「ジャックのだ。俺のは自分の部屋に置いてある。」
私の質問にテッドが答えた。

ジャックはアーマーをつかみ上げると、チャーリーがいないほうの担架に、ドサっと置いた。イーグル社のプレートキャリアーのようだ。本体もポーチも、全体がタン色だ。

前面腹部に弾倉ポーチが3つ付いている。携行弾倉は6個だ。胸部には手榴弾ポーチ1個、M9拳銃の弾倉ポーチ1つ、「CAT」という止血帯、そして、救急救命用のハサミを付けている。背面からキャメルバックのチューブが伸びており、右胸のところで、「グリムロック」という小さなプラスチックのカラビナで固定されている。

アーマー左側には、無線機の入った専用ポーチとメディカルポーチが付いており、右側には小さな汎用ポーチが2つと、小さな赤いカラビナに、タン色のコンバット・グローブが引っ掛けられている。汎用ポーチには暗視装置や万能ツールなどの小物を収納する。メディカルポーチには、赤十字マークが大きく塗られている。

背面には、キャメルバック本体を収納している縦長の大型ポーチがあり、そのポーチの中央部には、横長の汎用ポーチが付けてあった。バックパックを背負うと背面が出っ張りそうだ。



つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(8)アフガニスタン

2012年11月19日

米軍特殊部隊との交流Part2

ジャックは特殊部隊に入ったあと、1年間の衛生教育を受けたという。今でも時々、民間の救急病棟で働き、腕を磨いたり、最新技術を身につけたりする。外人部隊のほうでは、衛生兵教育はわずか3ヶ月で、その教育中に、救急隊や救急病棟での研修が少しあるくらいで、教育のあとに病院・救急隊に派遣されることはない。部隊内の診療所で働いたり、野外での事故に対処するくらいだ。米軍特殊部隊と外人部隊の衛生教育の差を見せつけられて、内心、少し落ちこんだ。

ジャックが言った。
「戦争において、医学や医療装備は大きく進化する。一般社会では法律に縛られ、できる医療行為に制限がある。それを越えたら、たとえ医者でも訴えられクビになる。しかし、戦時では、法を越えたことでも、実験的に思い切って試すことができる。もし上手くいったら、それ以降、標準医療行為に加えればいい。」

当たり前のことではあるが、米軍特殊部隊員が言うと感動する。アメリカ軍は実際に、フランス軍よりも大幅に進化しているし、装備も遥かに充実している。そんな米軍でも、ジャックによると、「2004年のイラクでは、特殊部隊においても、1人に1つの止血帯があるわけではなかった」という。

止血帯が足りないことで死傷者が発生したため、多く支給されるようになったのだ。しかも、より高い止血効果を持つ止血帯を開発し一儲けしようと、多くの会社が試作し、国防省に売り込んだ。その開発競争で勝ち残ったのが、CAT(キャット)とSOF-TT(ソフティー)だ。今や、SOF-TTのほうは、アフガンのフランス兵全員に1つ支給される。

「明日の昼休みにでも、また来いよ。医療装備を見せるから。」
ジャックがまた嬉しい提案をしてくれた。
「絶対来るよ。」

戦闘衛生関連の話が終わると、丸坊主で小太りのヴァーノンが聞いてきた。
「ノダ、君は日本語以外に英語とフランス語を話すのか?」
「まあ、完璧じゃないけど、英仏に住むのに困らないくらいなら話せる。君はフランス語を話すけど、軍で学んだの?」

私はヴァーノンに聞き返した。彼の仏語は完璧で、どうやったのか気になる。
「両親がフランスからの移民で、家ではフランス語を使ってたんだ。」
なるほど。環境を味方につけたか。ここぞとばかりに、私はジャックに聞いた。
「ジャックは何か外国語を話すの?」

私は「ダリ語だ」とか、「パシュトゥン語だ」という返答を期待した。アフガンの言語なので、それらが話せるとなると、いかにも特殊部隊という感じがする。ジャックが穏やかに答える。
「俺は英語しかできないよ。」

しまった。聞かなければよかった。ジャックの自尊心を傷つけたかもしれない。
「そうなのか。でも英語はほとんどの国で通じるからいいじゃないか。」
私は急いでフォローした。

幸いジャックは気を悪くした様子はなく、サランラップに包まれた5枚のクッキーをくれた。その場で1枚食べた。売り物にならない形だが、味は美味しかった。
「嫁が送ってきたんだ。」

今度はジャックが私のなけなしの自尊心を傷つける番だ。ジャックは特殊部隊に所属し、アフガンで実戦に参加し、しかも愛妻がいる。私は特殊部隊どころか、職業軍人ですらない。契約だ。幸いアフガンやアフリカに派遣してもらえたが、愛妻はいないし、彼女もいない。遠距離恋愛を女性に維持してもらえるくらいの魅力が私にはないのだ。遠距離恋愛中の同僚たちがどのように女性を惹きつけているのか、よくわからない。わかれば同じことをするのだが。

自分が寂しい男だということを再確認したところで、バーベキューはお開きとなり、私はジャックやヴァーノンに礼を言い、兵舎に戻った。ジャックにもらった「特殊部隊愛妻クッキー」をデジカメで撮影し、やがて2段ベッド上段に横になった。米軍特殊部隊と交流できたことによる興奮にドキドキしながら、やがて眠りについた。

アフガニスタンは本当におもしろい。

←米軍特殊部隊の乗るブラックホーク

←特殊部隊愛妻クッキー

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(8)アフガニスタン

2012年11月05日

米軍特殊部隊との交流

私はVABから這い出て、ブラームと2人の米兵のもとへ駆け寄った。私はブラームの横に立ち、米兵と向かい合った。

「ハロー。」
私が挨拶をすると、ブラームが私を彼らに紹介した。
「彼の名前はノダで、日本人だ。そして、俺と同じく衛生兵だ。」
米兵の1人が握手のために手をさし出しながら言った。
「ジャックだ。僕らも衛生兵だ。」

ジャックは身長175㎝くらいで、細身だ。こげ茶色の髪をし、鼻ヒゲをたくわえている。まったく威圧感がなく、青く優しい瞳をしている。
「よろしく。」
私はそう言いながら、握手をした。もう1人の米兵も手をさし出した。
「テッドだ。よろしく。」

テッドは私と同じくらいの背なので身長165㎝くらいだろう。金髪に青い瞳で、鼻ヒゲだけでなく顎ヒゲも生やしている。見た目は威圧感がないどころか、弱々しさすら感じさせる。こういう雰囲気が逆に特殊部隊らしいと私は思う。マッチョに見えないほうが隠密作戦には適している。

テッドと握手を交わし終わると、ジャックが嬉しい提案をしてくれた。
「今夜、米軍セクターでバーベキューをやるから、もしよければ来てくれ。入口のボタンを押せば、誰かが開けに行くから。」
「ありがとう。仕事が済んだら行くよ。」
私がそう言うと、ブラームが言った。
「俺はまだわからないが、行けると思う。」
「じゃあ、待ってるよ。」
そう言うとジャックとテッドは歩き去った。

少ししか話せなかったが、すごい展開になったと思った。米軍特殊部隊のバーベキューに招待されたのだ。総理大臣の晩餐会に招かれるより、私は名誉に感じる。

その後、私とブラームは2時間ほど、診療所かVABのほうで整理整頓などをし、その日の仕事を終えた。他にも英語のわかる衛生隊員を誘ったが、我々2人以外には参加希望者はおらず、2人で米軍セクターへ直行した。

ジャックに言われたとおり、ボタンを押すと、当直の米兵が出てきて、中が広い居間になった建物に案内された。当直は、コヨーテブラウンのニットキャップとフリースジャケットを着用し、ジーパンをはいていた。小柄で細身なので、テッドよりも弱そうに見えるが、実際は私を無音で殺す格闘技術を持っているのだろう。

居間に入ると、20人くらいが、いくつかのテーブルの周りのイスやソファに座っていた。Tシャツにジ
ーパンなどの楽な服装を着て、コーラやDr.ペッパーを飲み、肉や焼きトウモロコシを食べながら、談笑している。

「よく来てくれた。肉はこっちだ。」
ジャックに声を掛けられ、私とブラームはついて行った。「ここにいろいろあるから、好きなだけ食べてくれ。」

居間の隅の洗い場のそばに、長いテーブルが置かれ、その上には、肉やトウモロコシ、ハッシュドポテトなどの入った金属製容器が並べられていた。プリップリのロブスターの身もあり、米軍の兵站能力に感心した。まさかアフガンの山岳地帯でロブスターにありつけるとは思ってもみなかった。イセエビなら親戚や友人の結婚披露宴などで食べたことがあるが、ロブスターは初めて口にする。

肉も、モロコシも、ポテトも、ロブスターも皿に盛り、Dr.ペッパーを1缶もらい、ジャックと、仏語を話す特殊部隊員ヴァ―ノンのいるテーブルにつき、バーベキューに舌鼓を打ちながら、談笑に加わった。ブラームは他のテーブルへ行った。

たわいもない話をたくさんしたが、話しが噛み合わなかった。例えば、「神戸牛のステーキは世界一うまい」と言われたが、私は食べたことがなかった。「日本のテレビ番組『サスケ』はおもしろい」とも言われたが、見たことがなかった。狩猟の話も出たが、私は猟銃免許を持っていない。

話がなかなか合わず、もどかしかったが、やがて戦闘衛生関連の話題になった。

←米軍セクターに向かって歩く仏兵

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(10)アフガニスタン

2012年10月29日

FOB診療所

FOBの診療所は、プレハブ小屋5~6棟ほどをつなげた造りだ。外観は白く、赤十字マークが描かれている。基地内なので赤十字マークを隠す必要はない。これがないと、よそから一時的にFOBトラに来ている米兵やニュージーランド兵などの同盟兵が、診療所を見つけられない。

診療所の中には、受付室、軍医長のオフィス、プルキエ少佐のオフィス、診察室、当直室、入院患者用の病室、そして、休憩室があった。

受付室には、事務デスクが2つあり、電話やパソコンやプリンターもある。電話は国際通話も可能だ。さらに、壁に寄りかかる棚には、FOBトラにいるフランス兵全員の簡易カルテがあり、健康を害した者はまず受付に来る。そこで衛生隊員がカルテを取り出し、症状を尋ねるなどして、診察室へと通す。そして軍医が診察をする。

軍医たちのオフィスには、いろいろと秘密にしなければならない文書がある。作戦用の地図などもあるため、毎日17時頃に診療所を訪れる現地雇用の掃除夫3人は、入室を禁じられている。オフィスの掃除は当直の衛生兵の仕事で、紙のゴミは確実に焼却する。

診察室は診療所で最も大きな部屋で、12畳くらいあり、中央に診察台が2つある。壁には医療品が収納された棚が並び、部屋の隅に最先任看護官の事務デスクがある。診察室は彼のオフィスのようなものだ。



当直室には、当直人数分の2つのベッドと、アーマーやFAMASなどの装備を置く棚などがある。患者監視モニタもここで充電する。

病室には2段ベッドが2つと1段ベッドが1つあり、入院患者を5名まで収容できる。窓もなく、ベッドと小さなテーブルがあるだけの狭い部屋で、こんなひどい環境に入院したら、治るものも治らないのではないかと思える。

現代看護の祖であるナイチンゲールは、クリミア戦争で負傷兵の置かれた劣悪な環境を見たりして、治療そのもの以前に、住環境を整えることが患者の回復に重要だと説いた。そんな彼女がこの病室を見たら激怒するだろう。彼女たちが苦労して築き上げた「環境整備」の概念が蹂躪されているのだから。

休憩室は豪華だ。テレビがあればインターネットもあり、冷蔵庫があれば湯沸かし器もあり、紅茶・コーヒーがあればクッキーもある。ただし、勤務時間中は長居できない。あくまで休憩のための部屋だ。

そんな診療所で日々勤務に就くのは、CCL(Compagnie de Commandement et de Logistique=指揮とロジスティックの中隊)という中隊にある医療小隊の軍医・看護官・衛生兵たちで、我々第3中隊指揮小隊の衛生兵である私、ミッサニ伍長、ぺリシエ伍長も、任務でFOBの外に出ていなければ勤務に就く。当直として診療所に泊まることもある。

戦場での診察は、戦傷だけではない。下痢や発熱や捻挫など、日常生活で発生する傷病もあり、むしろ、診察件数はこっちのほうが遥かに多い。2006年10月に衛生兵教育課程で見せられたイギリス軍の女医の講話映像では、女医が上手なフランス語で「私のイラク戦争派遣期間中、最も多く診た症状は下痢だった」と述べていた。
FOBの診療所がヒマになることはない。

←仏軍とは関係ないが、現地の救急車が時々来ていた。

診療所前に駐車してある我々のVABに偽装ネットを施し、ラッションや水を積みこみ、死体袋を整理し終わったあと、私は運転席に座り、フロントガラス内側上部に走る電気系統のコードに、針金を使って、キャノンのデジカメIXYを外側に向けて固定した。

車載カメラの完成だ。原始的な構造だが、VABを操縦しながら、ハンドルから手を放さずに、安全第一を尊重しながら、前方の風景を動画撮影できる。しかも、針金の枠から横にズラすだけで、デジカメは取り外すことができ、一回一回針金を解く必要はない。われながら立派な発明だと思った。

にんまりしながら、車窓から診療所のほうを見ると、医療小隊の衛生兵で南アフリカ出身のブラーム上級伍長が、ACU迷彩を着用した米兵2人と、診療所前で談笑をしているのが目にとまった。米軍特殊部隊だ。話しかけるチャンスだ。

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(4)アフガニスタン

2012年10月22日

FOBトラにて

はじめに
 先日、テレビをつけたら、「奇跡体験アンビリーバボー」で、1994年末におきたエールフランス機ハイジャック事件を紹介していました。
 フランス国家憲兵隊の特殊部隊「GIGN」が突入し解決を迎えた事件なのですが、昨年フランスで映画化され、日本でも渋谷の劇場で2週間だけ上映されました。
 タイトルが「フランス特殊部隊GIGN ~エールフランス8969便ハイジャック事件~」といい、DVD化されていると思いますので、興味のあるかたは是非ご覧になってください。
 私もパリの映画館で2回、渋谷で1回見ました。GIGN隊員の“決意”に何度も心を打たれました。とても尊敬し、憧れています。

――――――――――

アフガニスタンに到着してから5日が経った。昼夜の寒暖差や、乾燥した空気により、体に変化が出始めた。くちびる、鼻の粘膜、手の甲、内股がカサカサになった。痛くはないが、ひび割れになるのではないかと気になる。

アフガニスタンに行くのなら、ハンドクリームやリップクリームは必ず持参するべきだ。トイレで気づいたのだが、亀頭までもがカサカサになっていた。私の体が気候に順応するか、春が来て気温や湿度に変化が起きれば、肌は潤いを取り戻すだろう。

日差しも強敵だった。とにかく眩しい。2007年にアフリカのジブチという、世界一暑いと言われる国に派遣されたのだが、そこで体験した太陽はアフガンの太陽より熱かった。しかし、眩しさではアフガンの太陽が勝る。標高が高く、太陽に近いからかもしれない。

←2007年ジブチ共和国にて

ESS社の射撃用サングラスを買っておけばよかったと、後悔した。私のESSゴーグルは透明レンズだ。紫外線はカットするが、眩しさはどうにもならない。それに、基地内でゴーグルなど着けたくない。邪魔だ。結局、私にできることは、迷彩ハットをかぶり、目を細めるくらいだ。

そんな中、私は車両整備区域の倉庫から、いくつかのサイズの古い偽装ネットを10枚ほどもらい、ミッサニ伍長とともに、VABに偽装ネットを施す作業にとりかかった。ネットの多くは森林用の緑系の色だが、砂漠用のタン系の色のものが2~3枚あった。

色の系統が統一されていないが、カモフラージュを施して、周囲の環境に溶け込むわけではないので問題ない。VABの外側に設置した金網カゴにある4つの担架を隠すことが一番の目的だ。我々は、まず、担架が見えないように、カゴを覆うようにネットをかぶせ、切ったヒモやフック付きエラスティックコードで車体の突起物などと結んだ。

そして、他のVABの多くが施されているのと同じように、車体の前後左右に、可能な限り均等にネットを設置した。ネットの数が足りないので、車体全体をカバーできないが、他のVABも似た感じなので、我々のVABが医療用だとは敵も見破れないだろう。

ネット設置の後、我々は、ラッション(携帯糧食)を30箱ほどと、1.5リットルのペットボトルの水を100本ほど、VABの屋根の金網製の物置や車内に積みこんだ。多過ぎる気がしないでもないが、念のためだし、それでもまだスペースに余裕がある。

そのスペースには、我々乗員のバックパックが収納される予定だ。医療用バックパックは車内に置くが、着替えや雨具、野宿装備などの入ったバックパックは緊急性が高くないので、屋根の物置に置く。

実は、その物置には5つの死体袋がある。強化ビニールのような素材でできており、黒と緑の2種類がある。ジッパー開閉式だ。初めて死体袋を見た。試しに入ってみようと思ったが、やめておいた。こういうもので遊ぶべきではない。そもそも、救命用の車両にこんなものを積むなんて、精神衛生上、よくない。はたして我々は実戦で死体袋を使う状況に陥るのだろうか。そう思いつつ、私は死体袋をたたみ直し、物置に収納した。

←死体袋

第3中隊のVABのほとんどは、居住区の裏手に駐車されているが、我々医療班のVABは、FOBの診療所入口から15mほど離れたところに駐車されていた。診療所に近いほうが、医療品を積むのに便利だし、車載の患者監視モニタ(心拍数や血圧、呼吸などを表示する、小型テレビのような機材)を非番のときに降ろして、診療所で充電する必要もある。


つづく

アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年10月15日

アフガン兵たちとの交流Part2

ラゼックが聞いてきた。
「ノダ、君はハザラ人みたいな顔をしているが、本当にフランス兵なのか?」
ハザラ人とは、アフガニスタンに住む民族のひとつで、モンゴル人のような顔をした人が多いという。

「フランス軍に所属しているけど、日本人なんだ。フランス軍には外国人を受け入れる部隊があって、そこに所属している。」
そう私が答えると、ラゼックがさらに聞いた。

「私もそこに入隊できるか?」
「試験に受かればOKだが、まずはフランスに行く必要がある。アフガンから行くのにはビザが要る。発給してもらえるかどうかが問題だな。」

そんな会話をしながら、我々は料理をすべて食べ終えた。3人で1皿を食べたので、腹は満たされなかったが、アフガン兵とのあいだに絆が生まれたことが嬉しくて、胸いっぱいになった。ラゼックは、礼を述べる私に茶を飲むように言い、我々は調理場に入った。

今度は地面にしゃがまず、皆でイスに座った。私は青いプラスチックのイスに座り、ラゼックは金属の棒を溶接してこしらえた即席のイスに座った。炊事兵がカマドのほうからやってきて、お盆に載った透明なコップに入った黄色っぽいお茶を私とラゼックに配った。そして彼自身のコップを持ち、即席の金属イスに座った。

コップの中を見ると、底に砂糖が小山を成して沈殿していた。以前、軍医のプルキエ少佐が、「アフガン人は茶に大量の砂糖を入れるが、混ぜない」と言っていたことを思い出した。まったくそのとおりだ。
私は飲んだ。

「うまいよ。ありがとう。」味の感想は本音ではなかった。あきらかにフランス軍ラッション(携帯糧食)に入っているミントティーの味だ。COPでともに生活しているOMLTのフランス兵にもらったのだろう。重要なのは味ではなく、彼らからの優しさなので、「ありがとう」というのは本音だった。

炊事兵がラゼックにダリ語で何かを話したと思うと、ラゼックが通訳して私に言った。
「アフガニスタンは好きか、と聞いているよ。」
「ああ、好きだ。」

アフガニスタンに到着して日数がそんなに経っていないので、正直、好きか嫌いか判断できなかったが、彼らが気を悪くしないように、笑顔でそう答えた。そして、理由を添えないと説得力がないと考え、さらに言った。
「山が美しい。日本もアフガニスタンみたいな山国だ。」

すると、ラゼックが言った。
「Japan is Peace Country. Afghanistan is War Country(日本は平和な国。アフガニスタンは戦争の国)」

これを聞いたとき、胸が痛くなった。私はこの国へ、戦争するために来ている立場だが、彼らのことがかわいそうだと思った。そして言った。
「今は戦争中だけど、いつか発展していい国になるから、希望を捨てるな。日本だって、第2次世界大戦のあとは、英米に占領されてたけど、やがて発展したんだよ。アフガンだってそうなれるさ。」

彼らを元気づけるにはよい例えだったが、アフガンが本当に平和になるかどうか、私にはわからない。正直、そうは思えない。また彼らに嘘をついてしまい、良心が少し痛んだ。彼らの反応があまりなかったので、さらに私は言った。
「戦争で日本は本当にひどい状況だったんだよ。」

すると炊事兵が強い口調で言った。
「ヒロシマ!ナガサキ!」
「そう!原爆だ!」
こんな末端のアフガン兵が原爆のことを知っているとは驚いた。

そういえば、2006年2月から6月に派遣されていたアフリカ・コートジボワールで、熱帯雨林にある村の16歳の黒人少年と話をしたら、広島と長崎を知っていたし、広島については、原爆が投下された年月日だけでなく、爆発した時刻も知っていた。

日本が世界に平和メッセージを発信していることの証明だと思う。すばらしいことだ。しかし、日本人の側は、世界からのメッセージを受信しているだろうか。まだまだ世界は平和ではないことを意識している日本人は、いったいどれだけいるのだろう。

私はあまり歴史や国際情勢に詳しくないので、偉そうに言えないのだが、平和メッセージを発信するだけでなく、戦争のある国からのメッセージを受信することも大切だと感じた。

ミントティーが残り少なくなり、糖度がやたら濃くなったころ、中隊長と第3小隊の連中がVAB群のところに戻ってきたことが、聞こえてくる音や会話でわかった。
「そろそろ行かないと。」

私は立ち上がり、お茶を飲みほした。溶けきれていない砂糖が少し、舌にのり、ジャリッとした。私は最後に言った。
「いろいろありがとう。話ができて本当によかった。」
2人は立ち上がり、ラゼックが言った。
「僕らもだ。また来てくれ。」

私は調理場を出て、VABに戻った。15分後に出発だ、という命令が伝達でまわってきた。VABの後部内側の座席に、プルキエ少佐とオアロ上級軍曹が座り、携帯コンロで沸かした湯で入れたコーヒーを飲んでいた。フランス人は本当にコーヒーが好きだ。もし、ここがイギリス軍なら、ミルクを入れた紅茶だったに違いない。

そんなことを思いながら、私はアーマーを着用した。どこかに行っていたミッサニ伍長も戻ってきた。VABが1台、また1台と、エンジンをかけ始めた。コーヒーセットを片づけた少佐と上級軍曹は、ミッサニとともにアーマーを着て車内の持ち場についた。

「出発。」
無線から中隊長の声がして、我々はCOPフォンチーを出発した。そして、もと来た道を、やはり緊張しながら、FOBトラへと帰還した。何の問題もなく、無事に到着した。何も起きなければ、モロッコの田舎をドライブするような感じではないだろうか。

この初任務は、アフガン兵たちのおかげで、予想をはるかに超える楽しさだった。これから6ヶ月、楽しみだ。今度、COPに行くときは、ラゼックたちのため、ジュースやお菓子をお土産に持って行こう。

←アフガン国軍の車両と機関銃「ダッシュカー」
←COPの小便器

つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(5)アフガニスタン

2012年10月08日

アフガン兵たちとの交流

私が調理場に入ってきたアフガン兵に歩み寄ると、お互いに通じる英語での会話が始まった。
「僕の名前はノダだ。フランス兵だ。」
「私はラゼックだ。昼食を一緒に食べよう。」

私はどう答えるべきか悩んだ。あまり物質的に豊かではないアフガン兵に甘えてよいのだろうか。私が食べることで、彼らの食べる量が減ってしまったら申し訳ない。1~2秒後、私は答えた。
「是非!」

アフガニスタンにはよそ者を手厚くもてなす文化があるので、食事を断ることは、ラゼックの好意を踏みにじることになると私は判断した。食べないと失礼だ。

ラゼックはカマドの番をしている炊事兵にダリ語で何かを伝えた。料理を皿に盛るように言ったのだろう。炊事兵が左手で大皿をとり、右手でオタマをつかみ、カマドのそばのバケツのような黄色いプラスチック容器から、ご飯をよそうのが見えた。容器の外観は少し汚れているが、内側はどうなのだろう?

「こっちで食べよう。」
ラゼックが言い、歩き出したので、私はついて行った。

調理場を出てすぐのところにプラスチックの青いイスが1つだけあり、ラゼックは私に座るように言った。私がイスに腰掛けようとすると、彼はイスから1mほど離れた地面にしゃがんだ。現地の文化からして、標準的な座り方だ。私はそれを見て、イスに座るのをやめ、イスをどかして地面にしゃがんだ。それを見て、ラゼックが言った。

「イスに座る方が楽だろう。遠慮するな。」
「いやいや。アフガン式にやりたい。異文化が大好きなんだ。」
私が答えると、ラゼックは微笑んだ。

カマドの炊事兵が皿に盛った料理を持ってきた。ご飯に肉スープをかけたものだ。ぶつ切りの肉とジャガイモが何切れか載っている。炊事兵は皿を、ラゼックと私のあいだの地面に置いて、自分もしゃがんだ。3人で食べるのだ。炊事兵の左手にはナン(インド料理に出てくる平べったいパン)が数枚入ったビニール袋が握られている。

「スプーンがあるけど、使うか?」
ラゼックが私に言った。普通、アフガン人は右手の指で食べる。私は言った。
「いや、いらない。僕も君たちの方法で食べたい。」

ラゼックは嬉しそうに微笑んだ。私はかっこよく言ったものの、心中では、腹痛になることを恐れていた。調理場の衛生状態がわからないし、どんな調理をしたのかも不明だ。しかも私は手を洗っていない。アフガニスタンでは手洗いをしないと高い確率で下痢になる。これはピンチだ。

炊事兵が私にナンを1枚差し出し、「ナン、ナン」と言った。
あきらめて食べろ、と自分に言い聞かせた。今さら「食べない」なんて言えないし、命を落とすほどの下痢にはならないだろう。危険を冒してでも、アフガン兵と友好関係を築くことのほうが有意義だ。私は現地密着型なんだ!それに、皿の料理はいい匂いを放っていて食欲をそそる。

私は笑顔を見せながら、ナンを受け取り、言った。
「食べ方を教えてくれないか。」
ラゼックと炊事兵が右手の指を器用に使って肉スープで味のついたご飯をすくって食べ、ラゼックが説明した。

「こうやって指を使ってもいいし、ナンに挟んで食べてもいい。」
ラゼックはナンを5cmくらいちぎりとり、それでご飯をつまみ、口に運んだ。そのやりかたのほうが、指が汚れなくていい。マネをしよう。

私は、まず、迷彩ジャケットの腹の部分をつまむようにして、右手の指を生地とこすり合わせ、指の汚れを可能な限り落とした。そして、ラゼックの実演のように、ちぎったナンでご飯をつまみ、食べた。ジャガイモが入っているからなのか、肉ジャガのような味がした。とてもいける!

ひとりじめにしたいくらいの美味だと思ったが、私は2人の食べるペースを計り、それより緩やかなペースで料理に手を出した。彼らよりも多く食べるべきではない。招かれている者として、謙虚に振る舞うべきだ。

「みんなで同じ皿の料理を共有するのがアフガニスタンの伝統的な食べ方だ。」
ラゼックが言った。
私はラゼックと、食べながら会話を続けた。ラゼックはその内容を炊事兵に通訳した。

私はラゼックに聞いてみた。
「君はどこで英語を勉強したの?」
「パキスタンだ。コーラン(イスラム経典)の学校に行ってたとき、英語も学んだ。パキスタンへは、かつてタリバンが政権を取ったあと、亡命したんだ。まだ子供だった。5年前にアフガニスタンに戻ってきて、陸軍に入ったんだ。」

ラゼックが政治状況に大きく人生をふりまわされたとわかり、気の毒だと思った。ラゼックが続ける。
「アメリカは、タリバンをひとまとめに敵というが、良いタリバンと悪いタリバンがいる。良いタリバンは真剣なコーラン学生。悪いタリバンはこの国で戦争してる奴ら。外国からも来てる。」

確かに「タリバン」とは「学生」という意味であることは、書籍で読んだことがある。アフガン人から直接聞くと、書籍を著した専門家の解説よりも重みがある。





つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年10月01日

アフガン兵

「君たちはこのCOPで何やってるの?」
私は基本的な質問を投げかけ、情報を聞き出した。

COPフォンチーにはアフガン国軍の1個中隊とフランス兵が6名が駐屯しており、その6名はアフガン兵らとともに生活し、彼らを訓練し、ともに任務に出るのが任務だという。彼らのように、少数でアフガン国軍と生活をともにし、指導する部隊をOMLT(Operational Mentor and Liaison Team)と呼ぶ。

私の英語力・日本語力では「作戦指導連絡チーム」という翻訳になる。プルキエ少佐やオアロ上級軍曹も、前回のアフガニスタン派遣では、OMLTの一員として活動していた。なお、フランス軍だけでなく、米軍をはじめ、多くの国がOMLTに人材を派遣している。

アフガン国軍1個中隊と、たった6人で活動をともにするなんて、少し怖い気もする。たまにアフガン兵がISAFの兵士を殺すニュースを耳にするし、アフガン兵による杜撰な銃口管理で暴発が起きる話も頻繁に聞く。

怖いと思う一方で、まったく異なる文化を体験できることをうらやましいとも思った。どんな国民性なのか?どんな習慣があるのか?どんな食事なのか?そう考えると、ワクワクする。私は「現地密着型」を目指している。

黒人兵と別れ、歩哨所を出た。そして、アフガン兵たちのいる貨物コンテナ兵舎に向かった。いきなりコンテナ入口に行くのは失礼なので、コンテナの周りにいるアフガン兵に話しかけることにしよう。ところが、先ほどまでいたアフガン兵たちは見当たらない。

コンテナ群を一周すれば1人くらい見つけられるだろう。私は歩きつづけた。コンテナ群を半周し、裏手にまわった。そこには、金網で組まれた骨組みに、天井など、ところどころに天幕の生地が張られた簡易的な小屋があった。

その小屋の側面の一部に、金網が張られていないところがあり、そこが出入り口らしい。その前で、1人のアフガン兵が、茶色いタオルで手を拭きながら、立っていた。目が合う。私は右手を挙げ、「ハロー」と言った。フランス語は通じないだろうが、英語なら通じるかもしれない。

そのアフガン兵は、鼻ヒゲを生やし、40歳くらいに見える。彼は笑顔を見せると、何も言わず、私に手招きをした。英語すら通じないが、仲良くしてくれるようだ。私は彼に歩み寄る。彼は現地の言葉で何かを言い、小屋に入っていった。私は中をのぞいた。調理場だ。

日本のキャンプ場にあるようなカマドが2つあり、たき火の上に大きな鍋とヤカンが置いてある。湯気があがっている。そこには、カマドの番をする、もう1人のアフガン兵がいた。30歳くらいに見える。ヒゲは生えていない。私が右手を挙げると、笑顔の会釈が返ってきた。

私を招いたアフガン兵がさらに手招きをして、もっと中に入るよう促した。私はカマドのそばに来た。鍋の中には赤茶色のスープが入っていて、大きく切ったジャガイモと肉も確認できる。ヤギの肉だろう。牛丼のような匂いがただよう。食べたい 。

そのとき、入口から新たにアフガン兵が入ってきた。私は入口のほうにふりむいた。そいつは迷彩服上下に、タン色のブーツを履き、黒いベレーも被っている。非番ではなく休憩か。

「ハロー、マイ・フレンド!」
そいつが元気よく言った。私は応じる。
「ハロー。ドゥ・ユ・スピーク・イングリッシュ?(英語を話せるのか?)」
「イエス。」
すばらしい。英語を話すようだ。いろいろ話がしたい。




つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年09月24日

最前線COP

はじめに

グアムで陸上自衛隊と米海兵隊合同の離島上陸訓練をニュースで見ました。とても重要な訓練だと思います。
ボートでビーチに上陸する日米の隊員たちを見て、私自身の水路潜入訓練を思い出し懐かしく感じました。ニュースで見た上陸技術は我々がコルシカ島で反復していた技術と同じようでした。

←コルシカ島での訓練

さて、連載にまいりましょう。
前回のエピソードでは、FOBトラを出てCOPフォンチーに到着しました。
なお、FOBは「前方作戦基地」を、COPは「前哨砦」を表します。
それではどうぞ。

――――――――――

私は運転席のわきに置いていた迷彩ハットをかぶり、上部ハッチからVABの屋根に上がった。灼熱の太陽のせいで、帽子なしではいられない。切ったばかりのエンジンの熱気が、屋根にある排熱口から舞いあがる。汗が止まらない。

屋根に立ち、辺りを見まわす。整列駐車されたVAB群の周りでは、同僚たちが雑談をしたり、タバコをすったりしている。多くの者が、無事、COPに到着できてホッとしているのだろう。ドアも上部ハッチも開け、運転席ですでに居眠りをしている運転手もいる。ホッとしすぎだろう。

VAB群のさらに向こうには貨物コンテナが5つほどある。コンテナにはドアやガラス窓がついている。改造して、部屋として使っているのだろう。周辺では、迷彩服にサンダルといういでたちのアフガン兵が数名、うろうろしている。非番だからリラックスしているらしい。

←M113のそばに立つアフガン兵
←M113にある弾痕

天幕も5つほどある。そのうちの1つの前に、我々タスクフォース・アルトーとは別のフランス兵が2人、迷彩ズボン、ブーツ、Tシャツ、サングラスという格好でこちら、VAB群の方向を向いている。そこにちょうど、中隊長と副中隊長と第3小隊の小隊長が歩みよった。

2人の「Tシャツ仏兵」は、笑顔で中隊長たちと握手を交わす。「気をつけ」の姿勢や敬礼をしないということは、中隊長と同じような階級なのだろう。我々側の3人の将校は、2人のTシャツ将校と天幕に入っていった。コーヒーを飲みながら、情報や意見を交換するのだ。

私はアーマーを脱ぎ、VABの屋根中央部に置いた。他の皆も脱いでいる。脱ぐ許可なしでも、周りの者がやっているのだから、堂々と脱げばいい。余計な汗はかきたくない。迷彩ジャケットの、アーマーがのしかかっていた胴部が汗でベッタリしていて、すでに不快だ。私は額の汗を袖で拭いながら、COPの外側を眺めた。

COPフォンチーのあるこの地域はタガブ谷という。「タガブ」とは、現地の言葉で「水の流れ」を意味するという。一帯に広がる山岳地帯の中に、南北に伸びる川があり、その両岸は広い平地で、幅がだいたい1~2kmの細長い谷となっている。

COPフォンチーは、タガブ谷の南西部に位置し、COPのすぐ裏、つまり西側には山が連なっている。COPより数百メートル北から以北には、川の両岸にいくつもの集落がある。土でできた家屋や、まだ作物が芽を出していない畑がたくさん見える。樹木も多く見られるが、葉がついていない。地域一帯が砂色だ。

「ノダ。」
VABの左に立つオアロ上級軍曹が私を呼んだ。私は上から見おろした。
「ノダ、中隊長が第3小隊と裏山の歩哨所まで登ることになった。そのあいだ、我々はここで待機だ。何か食べてもいいし、COP内を見てまわってもいいぞ。遠くには行くな。」
「わかりました。」

私は、運転席からFAMASを取り出し、スリングに右腕と頭を通し、背負った。そして、単独でCOP内の散歩に出かけた。

COPの外郭にはバスチョン・ウォールがなかった。居住区内に部分的にあるだけで、外郭の防御は盛り土と土嚢で間に合わされている。屋根つきの小さな歩哨所があり、集落のある北東に面している。私は中に入った。そこには、タヒチ人のような黒人フランス兵がいて、タバコを吸っている。Tシャツ姿なので、階級章がついておらず、自分より階級が上なのか下なのか判断できない。

「ボンジュール(こんにちは)。」
私は敬礼もせずにあいさつした。階級がわからないし、フランス正規軍の多くの軍人は、外人部隊とはちがい、そんなことでガミガミ言わない。

「ボンジュール。サヴァ?(こんにちは。元気か?)」
笑顔で返事をしてくれた。フレンドリーな人でよかった。
「元気だ。ありがとう。このあたりの村には敵はいるの?」

私が、歩哨所から数百メートル先に見える集落を指さして尋ねると、彼は語り始めた。
「たくさんいるよ。ときどき夜にあの村からロケットが飛んでくる。村のモスク(イスラム礼拝堂)のそばから撃ってくるから、あの中に武器を隠しているんだと思う。周辺には民間人も住んでいるから、反撃するわけにもいかないんだ。まあ、ロケットがCOP内に落ちたことはないから気にしないよ。」

「村に入ってモスクから武器を押収できないの?」
「それは簡単じゃないな。このCOPの位置する北緯よりも北に行けば、必ず銃撃を受けるんだ。」
すごくナマナマしいことを淡々と語るのを聞いて、自分が今、最前線にいることを実感した。川が流れ、畑があり、アフガン独特の家々がある、のどかで美しい村に見えるが、この中に敵が潜んでいる。



つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年09月17日

COP

はじめに

最近、尖閣諸島問題が大きくなっており、中国で日本国旗が燃やされる映像も目にします。
国旗を燃やすという行為、私の経験から言わせていただくと、世界を敵にまわす行為です。

私が現役時代、反日デモで中国人群衆が日本国旗を燃やしているのをフランスのニュース番組が放映しました。そのことで私は中国人同僚と関係が悪くなることはなく、割り切って考え、仲良くしてましたが、周りのスロバキア人やポルトガル人などが、「国旗を燃やすのは最低の行為だ。中国人を殴ってやれ」と私に言ってきました。

当然、殴ったりなんかしませんでしたが、このとき、国旗を燃やす行為は、その国旗がどの国のものであれ、関係のない他の国々の人々をも敵に回すことになる、と気づきました。

さて、連載にまいりましょう。

――――――――――

開いた金属製ゲートのわきに立つ歩哨を横目に、すべての車両がFOBを出た。凸凹の多い土道で、舗装されておらず、土と石の混じり合った地面がむき出しだ。車間距離を50mくらいとる。前のVABが舞い上げる土埃が、少佐たちに降りかかるのをなるべく少なくするためと、ひとつのIEDで2台の車両が一度にやられないためだ。



周辺の荒野や、遠くの山々を眺めつつ、FOBの高台から緩やかに下っている土道を進み始めること約5分、舗装された道に合流した。首都カブールから東部の都市ジャララバードへとつづく幹線道路だ。ここを右折する。民間車の交通量も多い。

FOBを出たときに車列の先頭だったVABが、幹線道路を出てすぐ、我々の車線上で停車し、民間車の交通を一時的に止めていた。部外の車両が我々の車列にまぎれ込むのを防ぐためだ。後続のVABがすべて通り過ぎると、そのVABは車列の最後尾についた。

滑らかな舗装道路を、車列は速度を上げ、COPフォンチーに向かう。ここからがIEDや自爆テロの危険性が高まる。FOBと幹線道路のあいだの土道は、関係車両しか通らないので取締りが簡単だが、幹線道路はあらゆるタイプの乗り物が往来する。民間軍事会社の装甲車も通れば、現地農夫のトラクターも通る。



幹線道路の周りは広大な荒野で、遠くにヤギの群と1人のヤギ飼いが見える。道路沿いには古いガソリンスタンドや、パーキングエリアの機能を持つ小さな飲食店があった。どんな料理が出てくるのか想像がつかないが、店の前にはいくつかの大型トラックが駐車されているので、どうやら繁盛しているらしい。

トラックには赤や朱色、セルリアンブルーなどの明るい色をふんだんに使った、インドの寺院によくありそうな美術デザインが塗装されている。蓮の花が咲く庭園の風景画などが小さく描かれていたりするが、ほとんどの部分はカラフルな模様で、ところどころに目が描かれている。目は不気味だが、他の部分はエキゾチックで美しい。昼間に眺めるなら、日本の「デコトラ」よりも派手だ。



やがて、幹線道路から左折して、ところどころにひび割れや陥没のある道路に入った。左折してすぐ右手に、アフガン警察の基地があった。有刺鉄線が上部に張られた塀の中に、いくつかのコンクリート製の建造物がある。ダークグレーの制服を着た警察官らが、AK47を持ち、塀の前を歩いている。

そのうちの1人と目が合った。右手を挙げてあいさつをした。装甲車のフロントグラスに日光が反射して、その警察官から車中は見えないかと思ったが、笑顔になり右手を高く挙げてくれた。こちらが敬意を示せば、あちらも敬意を示してくれる。友好関係をつくる鉄則だ。

←アフガン国家警察(ANP=Afghan National Police)

さらに進むと道路の右側に沿って、大きな川が現れた。幅は30mくらいだ。荒野は乾いているように見えるが、水は大量にあるらしい。前方、遠くを見ると、我々はダムを見あげる感じに走行していることがわかった。右手の川の水はダムからの放水だ。大きなダムだし、発電所も併設されている。立派な橋もあるし、快適に走行できる道路もある。アフガニスタンのインフラ整備は意外と進んでいて驚いた。

橋を渡り、登り坂となった道路を登り、ダムの横を通過した。美しい水色の大きなダム湖が広がる。ここなら我々第3中隊の特技「水路潜入」が活かせる。湖畔に敵が潜むとは思えないので、現実的ではないが。



ダムのそばのアフガン国軍の詰所を過ぎると、道路と荒野だけの地域になった。敵にとっては、待ち伏せするのにちょうどよい場所ではないだろうか。近くに警察や同盟軍はいそうにない。民間車とときどきすれ違うくらいだ。

私は引き続き、IEDを警戒し、運転しながら、周辺の地面に不審物がないか、目を凝らす。さらに、自爆テロを心配し、すれ違う民間車の乗員をジロジロ見る。すると、車体におもしろいものを見つけた。白のセダンに「小仲製パン」と書いてあった。日本の中古車がアフガンで活躍しているのだ。

他にも、「佐久間玩具店」と書かれた白のワゴン車や、「荒田病院」と書いてあるクリーム色のマイクロバスなどがあった。電話番号が書かれているものもあり、日本へ帰ったら電話したいと思った。そんな日本の店名などが書かれた車にアフガン人が真面目な顔をして乗っているので、つい微笑んでしまった。しかし、ここは戦場なので、気を引き締めなければならないと思い、自分をいましめた。



FOBを出て、1時間近く経つだろうか。舗装道路から左に折れ、平坦な土道に入ると、村が見えてきた。土でできた2mから5mの壁が、中の居住空間を見えなくしている。壁は、上空から見れば四角になる形で居住空間を囲んでいる。出入り口は、金属製か木製の扉で、他の部分は土だ。ピラミッドのような色をしていて、エジプト文明の世界を旅している感じでドキドキした。

道は村の中を通っていた。アフガン民族衣装を着た村の男たちや子供たちが、我々をジロジロと見てくる。笑顔はない。憎しみの目でにらまれてもいない。村人の誰かが、AK小銃やRPG-7ロケットを構えるのを想像した。



結局、何も起こらないまま、無事に村を通過した。少し進むと、有刺鉄線に囲まれた砦が見えた。COPフォンチーだ。入口のアフガン兵がバリケードとなっている有刺鉄線をどかし、車列はCOPへ入っていった。門番のアフガン兵は、米軍のウッドランド迷彩と同じ柄の戦闘服を着て、M16A2を担いでいる。そいつとは目が合わなかったので、あいさつをしなかった。

←アフガン国軍(ANA=Afghan National Army)

土や土嚢が高く盛られたCOPの中にVABを駐車した。ここまで来たなら一安心だ。初めての任務だったので緊張してしまい疲れた。数時間、ここに留まるだろうから、気持ちを休めたい。私は、ヘルメットを脱ぎ、ハンドルの上に置いた。


つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年09月10日

初任務

はじめに

9月5日、アフガニスタンのフランス軍特殊部隊を題材にした映画がDVD発売されました。
ストーリーには無茶があるのですが、劇中のところどころにフランス軍のリアルな戦闘技術が盛り込まれています。私も同じ技術を習ったので、見ていて懐かしかったです。
あるレビューサイトで、それらの技術を非難しているかたがいましたが、実際そうした技術があるので、それらを描写することが実はリアルだと思います。

なお、劇中に登場するフランス海軍特殊部隊メンバーの「マリウス」は本名で、実際に海軍特殊部隊のOBです。本人が本人を演じています。そのことを知っている日本人は少ないと思いますので、ここでお知らせします。
[DVD] スペシャル・フォース

[DVD] スペシャル・フォース
価格:2,953円(税込、送料別)



それでは連載にまいりましょう。

――――――――――

翌朝、朝食抜きでミッサニ伍長と出発準備にとりかかり、7時前に自分たちの装甲車を、FOBの出口に向けて編成された車列に組み入れた。参加するのは指揮小隊・第3小隊・1個工兵小隊だ。
ミッサニは後部座席で待機し、私は助手席のわきに設置されている無線機の受話器をとり、交信をチェックする。

「ブラック・オペラトゥール、イスィ・タンゴ・ブラック、コントロール・ラディオ、パルレー(ブラック通信士、こちらタンゴ・ブラック、交信チェック、どうぞ)」

ブラックとは中隊長のコールサインで、出発前は全車両の無線から、通信チェックの連絡が、中隊長付き通信兵に入る。ブラック(黒)は我々第3中隊の識別色だ。中隊のスポーツ用Tシャツやトレーナーも黒だ。そして、タンゴ・ブラックは第3中隊の医療班を意味する。

「イスィ、ブラック・オペラトゥール、フォール・エ・クレール、テルミネー(こちらブラック通信士、音量よく明瞭、通信終了)」

通信兵ナチェフから返事が来た。無線は異常なしだ。あとは軍医のプルキエ少佐と看護官のオアロ上級軍曹が我々の車両に乗り込めば、救急装甲車「VAB SAN」はいつでも発車できる。私は運転席上部のハッチを開け、屋根に立った。VABが2列縦隊で出発を待っている。何台かはアイドリングをしている。VAB SANのエンジンはじゅうぶん温まっているので切ってある。



ふと、VAB車列の合間を、1人の見慣れない格好の兵士が通りがかった。マルチカモの戦闘服とタン色のアーマーを身にまとい、M4小銃を右手に持ち、銃口を真上に向けている。茶色い民間モデルのトレッキングシューズを履き、頭にはグレーのキャップをかぶっている。タン色の塗装を施した、布カバーなしのヘルメットは左手でつかんでいる。

米軍特殊部隊だ。

我々フランス兵は憧れの眼差しを送った。すべてがカッコよかった。一般的にイメージされている特殊部隊員は、筋肉ムキムキでヒゲがモジャモジャだが、その隊員は細身で鼻ヒゲしかなかった。その控えめな感じに好感が持てる。タン色のスプレーを無造作に吹きかけたようなM4は、光学照準器やレーザー照射装置などのアクセサリーがついていて、時代の先端を行っている雰囲気があった。私のFAMASと交換して欲しい。

その隊員は車列を通り越し、FOBの片隅にある施設のドアの暗証番号を押し、入って行った。FOBの中の隔離された施設だ。黒い生地を張ったフェンスでできたゲートと、その端にあるドアが、我々と米軍特殊部隊を隔てている。近いうちに入らせてもらおう。

やがて、軍医と看護官が中隊長や副中隊長らとともに現れた。皆、それぞれの装甲車に乗り込む。私のとなりの助手席には、軍医が乗り、AANF1機関銃の砲塔から助手席に向かって垂れている布製の砲塔用座席に座る。ちょうど狙いやすい高さに上半身が位置する。看護官はミッサニとともに後部ハッチから、周囲を警戒する役だ。

←AANF1機関銃砲塔

軍医のプルキエ少佐は、フランス北西部ブルターニュ地方出身で、フランス軍の医大を卒業し、軍医歴は約10年だが、まだ34歳だ。身長は約170㎝くらいで細く、見た目は華奢だが、持久走はそこそこ速い。穏やかな性格で優しく、教育的で医療のことをいろいろ教えてくれる。アフガニスタンへは、実は2度目で、前回は南部のカンダハルにいたらしい。

看護官のオアロ上級軍曹は、少佐と同じくブルターニュ地方出身で、身長も170㎝くらいだ。もともとはフランス空軍で看護官をやっていた。空軍除隊後、30代半ばで外人部隊に入り、再び下っ端から軍隊生活をやり直し、下士官となったあと、看護師資格があるため、看護官の役職に就いた。現在45歳と高齢だが、足が速いし、実際よりも5、6年若く見える。プルキエ少佐とともにカンダハルに派遣されていたそうで、アフガニスタンは2回目だ。

←オアロ上級軍曹(奥)とミッサニ伍長(手前)

「全隊、出発。」

無線から中隊長の声が流れた。

私はエンジンをかけた。前にいる、ウィルソン上級曹長のVABが進みだした。砲塔に上級曹長の後ろ姿が見える。私は10mくらいの間隔をあけ、発車した。運転席裏に位置するエンジンルームで、ウォンウォンとエンジンがうなる。いよいよだ。

FAMASは運転席左はしの専用スペースに立て掛けてある。弾倉は入れてあるが、薬室に弾は込めていない。「緊急時以外、装填するな」という命令だ。危険度の低い任務だということでもあるが、その確信が私は持てない。

つづく

アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年08月27日

メディカルパック

はじめに

シリアでジャーナリストの山本美香さんが死亡しました。戦場の取材には死の危険が潜むことは当然で、山本さん自身も理解はしていたと思います。それでも山本さんの死はくやしいです。
山本さんのように、敢えて危険を冒してでも、戦場の様子を世界に伝えるジャーナリストたちがいるからこそ、平和な地域にいる我々は戦場をかいま見ることができます。崇高な存在だと思います。

それでは、アフガン連載のつづきをどうぞ。

――――――――――

VABの準備を中断し、我々衛生兵がバックパックに収納する医療品を支給してもらいに行った。私が受け取った医療品はだいたい以下のとおりだ。

・点滴キット2個(出血多量や脱水症状などの患者に施す)

・BIG(=Bone Injection Gun スネの骨の上部に釘のような点滴用の針を打ち込む道具。例えば、火傷などで皮膚が損傷し、通常の点滴を打つ部位にカテーテルを刺せない場合など、BIGを使用し、骨髄へ点滴をする)

・気管切開キット(気道確保がうまくいかない場合、喉に小さな切込みを入れ、チューブを気管に直接さし込む)

・縫合キット

・ガーゼ

・バンドエイド

・医療用の使い捨てラテックスグローブ

・包帯

・医療用テープ

・抗生物質

・注射器/注射針

・サムスプリント(副木の一種)

・ブリザード・パック(日本のモンベル社と英国のマウンテン・イクイップメント社が共同開発した、保温性の高いエマージェンシー・ブランケット)

・薬品(頭痛薬、下痢止めなど)

・1回使いきりの容器に入った消毒剤

・バーンシールド(大きな冷湿布のようなもので、火傷に使用する)

・イスラエル製の圧迫包帯(パッドの大きさが17㎝×13㎝のもの)

・イスラエル製の圧迫包帯 大サイズ(腹部一面が覆えるほどの大きさ)

・三角巾(軍用品なので深緑色)

・クイッククロットACS+(大きなティーバッグのような医療品で、出血多量の部位に押しつけ、血液を凝固させる。私はこれを1個だけ支給され、アーマーのメディカルポーチに収納した)

だいたい、このような感じだ。

これらをミッサニは、いくつかのビニール製の透明ポーチに入れ、支給されたキャメルバック社製バックパック「BMF」に収納した。私は、持参したイーグル社製A3メディカルパックMOLLEのレンジャーグリーン色に収納した。

このA3パックは、私が衛生兵になった2か月後の2007年2月にアメリカから通販で購入した。内部に多くのポーチが配列されていて、医療品を効率よく分けて収納できる。フランス国内の訓練をはじめ、東アフリカ・ジブチの砂漠、中部アフリカ・ガボンのジャングルでも使用し、使い慣れているし、信頼もできる。パラシュートでともに5回、降下したこともある。こいつをどうしてもアフガニスタンで使いたかった。

それらの個人用医療バックパックをVABに積み込み、軍医と看護官のバックパックも積み込んだ。彼らのバックパックには、ケタミンやアドレナリンなど、私が詳しい使用法を知らない物品も入っている。衛生兵が携行すべき医療品は明確に規定されていないが、重要なことは、「自分が使い方を熟知している医療品を携行する」ということだ。知らないものはバックパックを重くするだけだ。

こうしてVABは出動可能になった。

 
↑↓イーグル社A3メディカルパックMOLLEレンジャーグリーン
 

その夜、指揮小隊のブリーフィングのため、将校以外のメンバーが小隊事務室に集合した。ADU(中隊の最先任下士官)でイギリス人のウィルソン上級曹長が言った。

「明日の朝、タガブ谷南部にあるアフガン国軍のCOPフォンチーへ行く。今後、このCOP(前哨砦)に何度も行くことになるだろうから、ルート確認のために偵察をするのだ。戦闘任務ではないが、IEDなどに気をつけるように。なお、ウォーニングショットは禁止だ。あやしい車が制止の合図を聞かずに近づいてきても、撃ってはならん。地面だろうと、空中だろうと、撃つな。上層部が決めたことだ。」

イギリス英語なまりのフランス語の説明を聞いている我々の中から、「くそっ」と不平が聞こえた。そりゃあそうだ。突進してくる自爆テロに対して我々は無防備になったのと同じだ。私は感情的にならないように努め、禁止になった理由を考えた。

きっと、無実の民間人を兵士があやしいと判断し、ウォーニングショットを放ち、怒らせてしまい、現地民が敵側に味方するという事例が多発したのだろう。それなら仕方ない。「疑わしきは罰せず」だ。民間人は死ぬかもしれないという前提で生きてはいない。怒るのは当然だ。一方、我々兵士はそういう前提のもと、任務につく存在だ。

ウォーニングショットが禁止され、より危険になったが、受け入れるしかない。嫌だという者はダダをこねて、任務を休めばいい。フランス本国に戻され、営倉に入るだろう。交代要員はたくさんいる。

とにかく我々は、フランス政府が我々に期待することを実行するだけだ。いよいよ、明日の朝、FOBトラの外に出る。不思議と恐怖感はない。ほんの少し楽しみなだけだ。意外と落ちついたものだ。この目でこの国をしっかりと見てみたい。

つづく

今回出てきた「COPフォンチー」は仮名です。フランス国内のメディアで名称が出ているのを私が確認していない基地名は仮名にさせていただきます。FOBトラやCOPロコは実名です。

来週は連載を1回お休みさせていただきます。ご了承ください。

次回は9月10日月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(6)アフガニスタン