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Posted by ミリタリーブログ  at 

2012年08月20日

VAB出動準備

FOBトラの2日目、「明日、ちょっとした任務に出るから、装甲車を出動できる状態にしておけ」と命令を受けた。自分が運転を担当する装甲車「VAB」を受理した。「VAB SAN(ヴァブ・サン)」と呼ばれる医療用仕様で、後部内側には、救急車にあるような救命設備が備わっている。

酸素ボンベ、AED、火傷対策パック、外傷対策パック、薬品類など。担架も1つある。その担架は米軍が採用しているモデルなのだが、VABに配備されたとき、すでに中古品だった。ある下士官によると、米軍は一度負傷者を搬送した担架を廃棄するという。それらを仏軍が回収してきて、実戦に再配備しているそうだ。

VABの外側、車体の左面には、バスチョン・ウォール用の金網を切り出して、グニャリと曲げてこしらえたカゴが設置されており、折り畳んで横幅を縮めた担架が4つ、水平に収納されている。カゴは、前にいた医療班が作製してくれたのだろう。ありがたい。走行中の揺れで、落ちないように、数本のフック付きエラスティック・コードで担架を押さえてある。

医療班の車両であることを隠すため、車体に赤十字マークは描かれていないが、4つも担架が見えていると、誰にでも一目瞭然だ。敵にとって優先的な標的になる。車体全体に偽装ネットを張り、担架を見えないようにしたいが、今日は時間がない。

助手席の真上の砲塔に備えられた機関銃も、我々が医療班であることを暗示している。VAB SAN以外のVABには、車両整備班のVABも含め、12.7mm口径のブローニングM2(米軍でいうキャリバー50)が設置されているが、我々の機関銃は7.62mmのAANF1だった。

ジュネーブ協定か何かで、「医療隊員は自衛のための武器しか携行してはいけない」と決まっているからだという。仕方ない。AANF1はM2よりも、火力で劣るが、分解結合が簡単だし、手入れが速くできるからいいじゃないか。ここはポジティブに考えよう。

太陽がまぶしく暑い中、同じ班の衛生兵、アルジェリア人のミッサニ伍長とともに、班員4名分のラッション(携帯糧食)を3日分と、6本1組の1.5Lペットボトルのミネラルウォーター10組を、VABに積み込んだ。日差しが非常に強く、サングラスを持参しなかったことを後悔しながらも、我々はVABの準備を整えた。

ミッサニ伍長は私より3年ほど遅く入隊した。アルジェリアで獣医の勉強もしていたので、衛生兵という役職は彼にふさわしいと思う。そして何よりも私が気に入っているのは、彼の正義感や倫理観だ。命を大切に思い、他者を敬う。罵声を発したり、ものを盗んだりしない。医療倫理の教科書に紹介されそうな人間だ。

彼は健全な精神だけでなく、健全な肉体も持ち合わせている。身長は180㎝ほどあり、ベトナムの古流武術で鍛えたという筋肉は、ジャン-クロード・ヴァン・ダムを彷彿とさせる。顔もハンサムで、私はこんな完璧な人間とかかわると、いつもなら嫉妬により、気分が悪くなるのだが、ミッサニに対しては、そうならなかった。それくらい好感の持てる仲間だ。

←VAB SANと運転手である著者
←VAB SAN後部内側

←後部に装備されている医療品用シートバッグ
←シートバッグを開き、後部扉に掛けた状態。ちょっとした診療所のようになる。

←VABから遠くを見張るミッサニ伍長

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年08月15日

タスクフォース・アルトーPart 3

はじめに

本日は終戦記念日。日本に今ある平和は大変ありがたいものだと思います。

さて、前回に引き続き、部隊構成の説明です。正直、つまらないです。書いていて面白くありませんでした。しかし、今回で説明は終わりますので、もう少しおつき合いください。
なお、今回の本文中でいくつかの仏軍階級が出てきます。階級制度が日本とフランスは異なるので、翻訳に困りましたが、ウィキペディアで説明されていた日本語訳を使わせていただきました。
それでは、どうぞ。

――――――――――

タスクフォース・アルトーの約800人のうち、REPの第2中隊と小規模の支援隊(工兵・砲兵・糧食・医療・他)の約200名は、FOBトラから北東へ数十キロの山岳地帯にある「COPロコ」というキャンプに駐屯している。COPとは、「Combat Outpost」のことで、正確な和訳が難しいのだが、いわば、「前哨砦」である。

COPロコは、バスチョン・ウォールに囲まれ、中に頑強な建造物はなく、天幕ぐらしだ。トイレやシャワーも簡易的なものしかなく、FOBトラのような美味しい食事も出ないワイルドな場所だ。

←COPロコ

REP(外人パラシュート連隊)では、各中隊が異なる専門特技を有しており、第2中隊は山岳戦が専門だ。ヒンドゥークッシュ山脈が近いこの地域に、この中隊が派遣されるのは当然だ。このような戦場のために、彼らは山岳技術を練習してきたのだから。今回、アフガニスタンに派遣されず、くやしい思いをした他の戦闘中隊の者たちも、第2中隊が選ばれたことに異論はないだろう。

一方、幸い派遣に選ばれた我々第3中隊は、実はなんと、水路潜入を特技としている。パラシュートで海に降下したり、ヘリコプターから海に飛び込んだあと、泳いで上陸し、歩兵活動に移るという技術だ。ゾディアック・ボートの操縦技術や、それを使っての上陸技術も保持している。10名ほどだが、カヌーイストや潜水士もいる。

そんな「水路潜入中隊」の我々が、山岳国家に派遣されている。他の中隊の者たちは、「非論理的だ !」と妬んだに違いない。しかし、実は論理的な裏付けがあった。

連隊長であるベロ・デ・ミニエ大佐はかつて、第3中隊の中隊長を務めていた。そのため、水路潜入中隊にもかかわらず、我々を起用してくれた。自分がかつて所属していた中隊に活躍の機会を与えたいと思うのは、当然の論理だ。ありがたい。

実際のところ、我々は水路潜入を得意としているが、当然、陸上での歩兵活動もできるし、装甲車も駆使できる。つまり、通常の歩兵部隊としての機能も持っているので、問題はない。山岳演習もしっかりこなした。

ちなみに、他の戦闘中隊の特技は、第1中隊が市街地戦闘、第4中隊が狙撃と爆破である。

そうしてアフガニスタンに赴いてきた第3中隊には、4つの小隊がある。指揮小隊1つと、戦闘小隊である第1小隊・第3小隊・第4小隊だ。本来は、第2小隊を加えた4個小隊があるが、アフガニスタンでは3つの戦闘小隊で中隊が運用されるシステムになっていたため、第2小隊の人員は、他の小隊に分配されたり、1つの分隊は1RHP(第1機甲パラシュート連隊)に組み込まれた。

1つの戦闘小隊には、指揮分隊1つと戦闘分隊4つがある。指揮分隊の構成は、小隊長1名(中尉もしくは曹長)、副小隊長1名(上級軍曹)、通信兵1名(伍長か一等兵)、衛生兵1名(伍長か一等兵)、そして、狙撃兵2名(伍長か一等兵、7.62mm口径の「FRF2」狙撃銃を使用)の6名だ。

1つの戦闘分隊には、分隊長1名(主に軍曹)、伍長2名、一等兵および二等兵が4名の7名がいる。伍長1名の下に一等兵/二等兵2名がつき、3名の班を成し、それら2つの班を分隊長が率いるシステムだ。

また、各戦闘小隊には4台の装甲車があり、各戦闘分隊が専用の装甲車1台を持つので、各戦闘分隊メンバーには、運転手1名と助手席の車長1名の計2名がプラスされる。原則として、運転手と車長は、常に装甲車に留まり、徒歩の任務に出ることはない。そして、指揮分隊の人員は、専用の装甲車がないので、車両移動の際は、戦闘分隊の車両4台に分乗する。

最後に、指揮小隊の構成だが、中隊長班、副中隊長班、そして、ADU分隊から成る。ADU(Adjudant d’Unite)とは、いわば中隊の最先任下士官である。

中隊長班には、中隊長1名(大尉)、通信兵2名(上級伍長と伍長)、衛生兵1名(伍長)がいる。通信兵の1人は私のルームメイトであるナチェフ上級伍長で、衛生兵は、私が一緒にアーマーを組み立てたぺリシエ伍長だ。

副中隊長班には、副中隊長1名(大尉)、通信兵2名(軍曹と伍長)、中隊需品担当下士官1名(曹長)がいる。

ADU分隊には、ADUが1名(上級曹長)、3名から成る車両整備班(上級軍曹1名と上級伍長2名)、そして、4名から成る医療班(軍医1名、看護官1名、衛生兵2名)、そして車両整備班の援護として、一等兵が1名がいる。

車両移動の際は、中隊長班と副中隊長班にそれぞれに、専用の装甲車1台と運転手・車長の2名がつく。

ADU分隊には3台の装甲車があるのだが、1台目は、ADUが車長を、車両整備の上級伍長1名が運転手を務める。装甲車後部には乗員はいない。

2台目は、車両整備の上級軍曹が車長を務め、同じく車両整備の上級伍長が運転手を務める。装甲車後部には援護の一等兵が乗る。

3台目は、医療班の装甲車で、軍医が車長を務め、衛生兵の1人が運転手を務める。看護官ともう1人の衛生兵は装甲車後部に乗る。

実は、車両整備班と医療班は、もともとは中隊には存在しなかったが、アフガニスタン用の特別な中隊構成のために結成された。しかも、いくつかの職種の連隊で混成された、REP単独でない部隊構成もアフガニスタン独特のシステムだった。派遣される10ヶ月前から、このシステムで演習をたくさん積んできているので、運用はうまくいくだろう。

私は、本来は第3小隊所属だったが、アフガニスタンの任務中は、指揮小隊に一時的に配属され、医療班の装甲車運転手と衛生兵を務めることとなった。

正直言うと、とても気の知れた第3小隊のやつらと一緒に任務につきたかった。しかし、私には決定する権限がないので、「仕事だ」と自分に言い聞かせ、あきらめた。

タスクフォース・アルトー、第3中隊、医療班などの構成は、多少の人員の変動はあれど、おおよそ、以上の通りだ。全員で力を合わせ、いずれ、敵と戦うことになる。

←第3中隊兵士の海上降下

←ゾディアックボートと著者

←山岳行軍中の著者(アゴが黒いのはヒゲではなく、カモクリーム)

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年08月10日

タスクフォース・アルトーPart 2

はじめに

このあいだの8月7日、アフガニスタン・カピサ州でフランス兵1名が戦死しました。アフガニスタン戦争における88人目の仏軍戦死者です。
仏軍戦闘部隊が撤収をすでに開始し、FOBトラからは完全撤収した矢先の出来事で、遺族は余計に無念だと思います。
撤収は始まっていても、戦いが終わったわけではなく、まだまだ危険に挑んでいるフランス兵がいます。

さて、前回から部隊構成の説明に入ったわけですが、体験記というよりデータの羅列で、“現場”の雰囲気はありませんが、部隊構成を知るのは今後の体験記をより深く理解して頂くのに有効だと思いますので、説明させてください。

それではどうぞ。

――――――――――

第11パラシュート旅団の部隊を中心に構成されるタスクフォース・アルトーの骨幹を担うのは、我々、第2外人パラシュート連隊(2e Regiment Etranger de Parachutistes)だ。通称、REP(レップ)とか、「2REP(ドゥズィエム・レップ)」と呼ばれる。REPからアルトーには約500名が派遣されている。
アルトーの指揮本部や、兵站・通信・医療・車両整備などの後方支援要員の多くがREPの人員だ。
また、タスクフォースが戦闘部隊として機能するためには、歩兵職種をはじめ、いくつかの職種の部隊が必要だ。
まず、歩兵職種はREPの戦闘中隊である第2中隊と第3中隊が担っている。また、両中隊への増援として、CEA(偵察および支援中隊)の人員が、それぞれの中隊のメンバーとして組み込まれ、任務につく。
さらに、CEA所属の空挺コマンド部隊「GCP(ジェーセーペー=Groupement des Commandos Parachutistes)」は、両中隊からは独立して、戦闘任務や偵察任務につく。なお、GCPはREPだけではなく、他のパラシュート連隊にも独自のGCPが存在する。米軍や英軍で言う「パスファインダー」のような部隊だ。
アフガニスタン戦争において敵は、IED(Improvised Explosive Device=即製爆発性装置)という自家製の爆発物を頻繁に使用する。それらに対処するのは工兵職種で、第17工兵パラシュート連隊(17RGP=17e Regiment du Genie Parachutiste)が担当する。17RGPは約80名を派遣している。
REPの歩兵とRGPの工兵が戦闘中隊となり、前線へ行くのだが、そのとき、火力支援の砲兵や機甲兵が必要となる。
砲兵職種は、第35砲兵パラシュート連隊(35RAP=35e Regiment d’Artillerie Parachutiste)が務める。主力武器は120mm迫撃砲で、装甲車でけん引することができるので、あらゆる場所で火力支援を施してくれる。
また、RAPのGCPは、監視・観測のスペシャリストで、我々が戦闘地域に入っていくとき、離れた場所からハイテク機器を使用し、敵の動きを察知し、我々に知らせてくれる。さらに、航空機に地上標的の攻撃誘導を行なう「JTAC=Joint Terminal Attack Controller」の役割も担う。
RAPは約70名を派遣している。
機甲職種は第1機甲パラシュート連隊( 1RHP=1er Regiment de Hussards Parachutistes)が務める。AMX10RCという105mm砲を装備した装輪戦車や、20mm機関砲を搭載したVAB装甲車で火力支援をやってくれる。RHPは約130名を派遣している。
その他にも、小規模ながら、いろいろと重要な部隊がアルトーに所属していた。
EOD(爆発物処理)班は、17RGPでも対処できない複雑な爆発物を処理する。
軍用犬の小隊もある。犬1匹につき、1人のハンドラーが付き、隠されている武器や麻薬を見つけ出す。犬種はほとんどがシェパードだった。
情報部隊も存在する。陸軍だけでなく、空軍や海軍からも人員が派遣されている3軍合同の部隊だ。現地民に紛れた敵や、その隠れ家をつきとめるのが1つの役割なのだろう。
SDTIというドローン(無人偵察機)も使用されていて、FOBトラから毎日のように飛んでいた。
他にも、アフガン国家警察を訓練指導するフランスの国家憲兵隊(Gendarmerie Nationale)などもいた。
正確な人数はわからないが、アルトーに所属している人員はおそらく800人ほどだ。

←REPの部隊章
←アルトーの部隊章
←爆発物について説明するEOD隊員


つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年08月05日

タスクフォース・アルトー

はじめに

7月31日、私が駐屯していたFOBトラからフランス軍部隊が完全に撤収しました。もうFOBトラにはフランス国旗は掲げられていません。そして、今年中に仏軍戦闘部隊は完全に撤退するそうです。時代が大きく動いている感じがします。

さて、今回から何回かにわけて、私が所属していた部隊構成を説明したいと思います。構成を知ったうえで体験談を読んでいただければ、より理解も深まると思います。
それではどうぞ。

――――――――――

2001年10月、9.11のテロ攻撃を受けたアメリカ合衆国が世界に呼びかけ、それに応じた国々とともに派兵を開始し、アフガニスタン戦争が始まった。フランスも開戦のときから参戦している。

国連の取り決めのもと、ISAF(International Security Assistance Force=国際治安支援部隊)が組織され、NATO加盟国を中心とした国々が軍隊を派遣。アフガン国軍やアフガン国家警察とともに、アルカイダやタリバンなどのテロリストと戦っている。

ISAFはアフガニスタンを、東西南北と首都圏の5つの地域に分け、各地域ごとに指揮を担当する国際部隊を割り振った。東部地域で活動するフランス軍やアメリカ軍などの国際部隊はひとまとめに、「Regional Command-East(RC-Eと略される)」といい、「東部方面隊」とでも和訳すればよいだろうか。私がアフガニスタンに派遣された2010年1月の時点で、RC-Eの全体指揮をとるのは、アメリカ陸軍の第82空挺師団だった。

ちなみに北部は「RC-North」、西部は「RC-West」、南部は「RC-South」、そして首都圏は「RC-Capital」という。

RC-Eの担当する東部地方の中で、フランス軍の受け持つ地域は、「カピサ州」で、首都カブールのあるカブール州の北東に位置する。ここで活動するフランス軍部隊を、「タスクフォース・ラ・ファイエット」という。

「ラ・ファイエット」というのはフランスの苗字の1つだが、アメリカで第82空挺師団と特殊作戦部隊の基地「フォート・ブラッグ」のある町の名前が「ファイエット・ヴィル」なので、米兵たちにもなじみやすい部隊名だろう。

タスクフォース・ラ・ファイエットの指揮下に、2つのバトルグループがあり、それらの名称は、新たに部隊が派遣されてくる度に変わる。「ラ・ファイエット」はずっと変わらない。

我々の所属するバトルグループは「Altor(アルトー)」という名称で、フランス陸軍第11パラシュート旅団傘下の部隊を中心に構成されている。本来、「バトルグループ・アルトー」となるはずだが、なぜか「タスクフォース・アルトー」と呼ばれていた。

「アルトー」とはコルシカ語で「鷲」を意味する。我々の連隊長が名付けたそうだ。いいセンスをしている。カッコいいし、我々の連隊ならではの名称だ。第11パラシュート旅団の部隊章には鷲が中心に描かれているし、我々第2外人パラシュート連隊はコルシカ島に駐屯している。コルシカ語を起用するという発想がいい。

アルトーとは別の、もう1つのバトルグループは、「タスクフォース・ブラックロック」で、フランス陸軍の第13山岳猟兵大隊の部隊を中心に構成されている。フランスには、アルプスとピレネーの大山脈があるので、とても錬度の高い山岳部隊に違いない。彼らにとって、険しい山岳地帯であるアフガニスタン東部は、うってつけの戦場だ。

ブラックロックは、タガブ谷という、広くて南北に長い谷の北部にある「FOBタガブ」に駐屯している。一方、アルトーはタガブ谷の南側にあるスロビという町の外れのFOBトラに駐屯している。

タガブ谷からすると、「北には山岳部隊。南には空挺部隊」だ。なんと恐ろしい響きだろう。両方とも、危険をかえりみず攻めてくるような、攻撃的な性格の部隊だ。谷に潜む多くの敵は強いストレスを感じることだろう。もし私が敵の立場だったら、一目散にパキスタンへ逃げる。

←戦闘服の左肩についていた仏軍部隊パッチ
←右肩のISAF/NATOパッチ
←オーソドックスなISAFパッチ
←第11パラシュート旅団部隊章

つづく
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Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年07月30日

アーマー組み立てPart3

メディカルポーチのとなりには、レンジャーグリーン色のイーグル社製M60アモーポーチをつけた。米軍のM60機関銃やM240機関銃の7.62mmベルト式弾薬を収納できるよう設計されたポーチだが、ちょうどよい大きさの汎用ポーチになる。そこには、持っていると何かと便利な小物を入れた。

ペツル社製ヘッドランプ「タクティカXP」、レザーマン社製マルチツール「ウェイブ」、ガーミン社製GPS「ヴィスタHCx」、ホイッスル、小さな黒ガムテープ、3mくらいのナイロンコード、黒のバラクラバ(目出し帽)、プラスチック手錠。

GPSには、あらかじめ、FOBトラやバグラム航空基地のポジションを入力しておいた。万一、任務中に部隊からハグれ孤立しても、帰り道がわかるようにするためだ。私には地図が支給されない。分隊長以上でないと、地図がもらえない。だからGPSがあれば心強い。おおよその方角を知ることができる。

それらの小物をすべて入れても、まだスペースがあったので、ラッション(携帯糧食)の中から、ビスケットやチョコレートを何袋か取り出し、詰めた。たとえば、山岳任務で、バックパックを背中から降ろしたくないような小休止のとき、ちょうど良い行動食になる。歩きながらだって、とり出して食べられる。

アモーポーチの次は、オリーヴドラブ色のイーグル社製キャンティーンポーチをつけた。私を含め、我々のほとんどが、米軍のプラスチックのキャンティーン(水筒)を持っている。しかし、私はキャンティーンをポーチに入れず、ミネラルウォーターが入った、未開封の500mlのペットボトルを入れた。

これなら、栓が開いていない限り、中の水は清潔だと安心できる。水筒を使うと、雑菌がわくこともあるし、時々洗う必要があり、面倒くさい。通常は、ハイドレーション・リザーバーから飲み、それがカラになったら、ボトルを開けることにした。いわば、緊急用の水だ。

キャンティーンポーチのとなり、右腕側の端には、ダークグリーン色の英アークティス社製の発煙弾ポーチをつけた。発煙弾がちょうど入るようにデザインされているが、我々の多くが、バグラムで支給された個人用医療キットから圧迫包帯とモルヒネ注射器を取り出し、そこに収納していた。

ポーチのフタの外側上部にベルクロがついていて、そこに赤十字マークのパッチを貼りつけているので、例えば、自分が敵弾に倒れたとき、助けに来た戦友に、圧迫包帯とモルヒネの位置が一目瞭然だ。原則として、治療にあたるときは、負傷者本人の医療品を優先的に使用する。後で自分が負傷したら、自分のものが必要になるからだ。

アーマーの腹まわりのポーチ配列は以上だ。あとは、胸の部分にも、ポーチをつけられるスペースがある。もう少し携行品があるので、ここにもポーチが必要だ。

アーマー胸部の中央に、アドミンポーチという、小さな書類や筆記用具を入れるポーチをつけた。イーグル社製でレンジャーグリーン色だ。中には、メモ帳、4色ボールペン、油性マジックを入れた。

アドミンポーチの右腕側のとなりには、個人用医療キットに入っていたアメリカ製の止血帯「SOF-TT(ソフティー)」を、私はセロハンテープで固定した。多くの兵士が2本の輪ゴムで固定していた。止血帯は、戦場救命で非常に重要な装備品で、誰にでもすぐに見つけられる位置に携行しなければならない。

圧迫包帯やモルヒネのように、負傷者には負傷者自身の止血帯を使用する。両足をやられた場合は、負傷者の止血帯だけでは足らないので、救助に向かった者は、自分自身の止血帯を提供しなければならない。あくまで、「まずは負傷者の医療装備を使う」という、優先順序の問題だ。

止血帯を固定する位置は、胸のあたりだけでなく、人によっては、肩の部分につけたり、腹の前につけたりしていた。とにかく、目につく位置に保持することが大切だ。理想を言えば、皆が同じ位置に固定することが望ましい。しかし、人によって、扱いやすいポーチ配列が異なるので、一致しないのは仕方がない。

アドミンポーチの左腕側のとなりには、イーグル社製の手榴弾ポーチをつけた。これもまたレンジャーグリーン色だ。手榴弾の支給を私は受けなかったので、キャノンのデジカメを入れた。

アフガニスタンのような、多くの国籍が参戦している大規模な戦争に来るチャンスはあまりないので、いろいろと写真に撮りたい。ほんの少し、戦場カメラマンになった気分だった。

「余計なものを持って行くな」と思う人もいるかもしれないが、実は、部隊が現場で何かを写真におさめたいとき、個人のカメラを使うことがある。だから、堂々と携行できる。

カメラを持っていると、よく、「ノダは本物の日本人だなぁ」と、いろいろな国籍の同僚たちが言ってくる。世界の名所へカメラを持参し、写真を撮りまくる日本人観光客の強いイメージがあるので、皆がからかってくるのだ。しかし、私が外人部隊で見てきた限り、最も写真を撮っていたのは、ロシア出身の同僚たちだった。

アーマーの全ポーチ配列が終了した。背面には何もつけない。バックパックを背負うことがあるし、装甲車の運転席についたとき、せっかくの背もたれが不快になっては困る。
これで私は、歩兵としての機能を発揮できる準備が完了した。明日、医療装備の支給を受ければ、衛生兵の機能が加わる。本日の仕事は終わった。夕食を食べ、短いミーティングで明日の予定を聞いたあと、シャワーを浴びて、歯を磨き、小便をして、寝るだけだ。iPodでエルヴィス・プレスリーや鬼束ちひろを聴きながら。




←アーマーベストの内容物

つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(8)アフガニスタン

2012年07月25日

アーマー組み立てPart2

はじめに

学生のかたがたにとって、夏休みシーズンに入りました。それに合わせて、8月末日まで連載の更新を1、5、10、15、20、25、30日に行ないたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

それでは、連載にうつりましょう。ここ数回に分けて、私のアーマーのポーチ配列や、そこに収納した装備について書いてまいります。

――――――――――

弾薬の入れ方にも工夫を凝らした。支給された弾薬には、弾丸先端の数ミリが赤く塗られた弾薬が混ざっていた。曳光弾だ。私は、すべての弾倉内のトップから4~5発を曳光弾にした。そうすれば、もし私が敵を最初に発見し、発砲を始めた場合、曳光弾の放つピンクの小さな光が、他の兵士たちに敵のいる方向を伝えてくれる。

兵士の中には、各弾倉の最後の数発を曳光弾にして、弾が切れるサインとして使う者もいた。私は、自分が撃っている曳光弾を視認するのが不得意だったので、この方法はやらなかった。

最初と最後の両方に、数発の曳光弾を込める者もいるいっぽう、当然、何も考えず、曳光弾を無作為に混ぜたまま装填する者もいた。曳光弾の込め方については、何の指示もなかったのだ。

あるとき、ベラルーシ出身のヴァルダ伍長は、いきなり私に弾倉を見せてきた。トップから曳光弾が見える。彼は言った。
「へへへ。曳光弾をかき集めて、この中の25発すべてを曳光弾にしてやった。ヒヒヒ。連射したらキレイだぞ。」
花火じゃないんだぞ、と思ったが、おもしろいアイデアだとも思った。マネはしないが・・・。曳光弾をひとまとめにして興奮するヴァルダは変態だ。まあ、友軍兵士や非戦闘員を誤射しなければ、別にいい。

3つの弾倉ポーチを並べたあと、それらの左腕方向のとなりには、トゥルースペック社の「キャンティーン/ユーティリティー・ポーチ」をつけた。暗視装置に、クッション代わりとして、緑色のネックウォーマーを巻き、そこに入れた。クッションが必要なほど、暗視機能自体は脆くはないが、ヘルメット・マウントに接続するアダプターの部分などは少々脆く、割れると頭部につけられず、常に片手で暗視装置を眼の前に保持しなければならなくなり、確実に任務に支障をきたす。

トゥルースペック社ポーチのとなりには、OD色のイーグル社M4弾倉ポーチを1つ配置した。中には弾倉は入れず、発煙弾を入れた。発煙弾は、日本で売っている缶コーヒーの長い缶に近いサイズだ。

手榴弾と同じように、リング状の指掛けのついたピンを抜き、仏語で「Cuiller(スプーンの意味)」と呼ばれるレバーが外れてから数秒後、「シューッ、モクモクモク・・・」っと、煙が噴き出てくる。正確な持続時間は知らないが、5分くらいは噴きつづけると思う。私の知るかぎり、煙には、白、緑、赤、黄色がある。私のは「白」だ。

発煙弾は、ヘリコプターなど、遠くから見ている味方に位置を知らせるために使用したり、狙ってくる敵の視界を遮るための煙幕などに使用できる。洞穴とか家屋に隠れる敵を出てこさせるのにも使えるかもしれない。

以上が、アーマーの左腕側のポーチ配列だ。次に右腕側に移ろう。

まず、腹部前面の右腕側寄り、さきほど最初につけたM4弾倉ポーチのとなりに、レンジャーグリーン色のイーグル社製メディカルポーチをつけた。

中には、救急隊が患者の衣服を切るために使うハサミや、折り畳まれてコンパクトになっているエマージェンシー・ブランケット、小さく丸めた医療用の使い捨てゴム手袋2組、グルグル巻いて小さくした、バンドとクリップだけで構成された仏軍の従来型の止血帯2個、そして、バンドエイドと消毒液ガーゼの小袋を数個ずつ収納した。バンドエイドのような、小さな傷に対処する医療品も必要だ。戦場では、小さなケガをすることもある。

さらに、まだ支給されていないが、「クイッククロットACSプラス」という、出血部位を凝固させる医療品も、手に入り次第、収納する予定だ。

なお、ハサミには、日曜大工用品店「コメリ」で購入した小さなランヤードをつけた。電話の本体と受話器をつなぐスパイラル・コードと同じ形で、伸縮性がある。一端をハサミの柄につなぎ、もう片端をメディカルポーチ内部に縫いつけてあるナイロンコードの小さな輪につないだ。ハサミをつかんで腕を真上に思いきり伸ばせるくらいの長さだ。

これでハサミを紛失する心配はない。落としても、ぶらさがる。ランヤードを引いて、たぐり寄せればいい。

2007年1月、私が衛生兵になったばかりの頃、当時、我々の連隊にいた軍医が、「ハサミにランヤードをつける」というアドバイスをくれた。そのとき以降、私はそうしている。

かつて、その軍医が中央アフリカで任務についていたとき、夜間の戦闘で負傷者が発生。その処置の際、衣服を切るため、ハサミを使用した。その後、彼はハサミを落とし、それにはランヤードはついていなかった。夜の暗さと密生した草のせいで、ハサミは見つからなかった。そのときの教訓を軍医は我々に伝えた。

←アーマーに入っている防弾プレート

←エマージェンシーブランケット、医療用ハサミ、医療用グローブ(白、黒)

←フランス軍のオールドスタイルな止血帯

←クイッククロットACS+(上の大きなティーバッグのような物体が内容物本体)

つづく
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Posted by 野田力  at 07:00Comments(6)アフガニスタン

2012年07月20日

アーマー組み立てPart1

はじめに

小中高校など、学生にとって夏休みシーズンに入ります。夏休みシーズンのあいだ限定で、アフガン連載の更新を5日おきにしようかと思います。ですので、次回更新は25日を予定しています。

それでは連載のつづきをどうぞ。

――――――――――

「アーマーにポーチを装着しろ。それで今日の仕事は終わりだ。」
個人装備各種を受け取ったあと、上官が言った。

我々はそれぞれの部屋へ行き、アーマーの入ったバッグをつかみ、表へ出た。狭い室内よりもスペースがあるし、太陽のおかげで明るい。フランス人のぺリシエ伍長と一緒に作業をした。

ぺリシエは南仏ニース出身で、フランス正規軍の試験に落ちたので外人部隊に入隊した。私より2年あとに入隊した後輩だが、フランス語でわからないことがあれば、私は彼を頼った。嫌な顔をまったくせず、わかりやすく教えてくれる。

当然、彼はフランス語を母国語とし、口が達者なので、新兵のころ、上官からの命令に「なぜそんなことをやる必要があるのですか?」と、頻繁に質問をぶつけた。外人部隊では禁句だ。当然、懲罰のトイレ掃除や腕立て伏せをさせられる。そのたびに、「こんな部隊、脱走してやる」と文句を言うが、結局とどまり、同じ禁句と懲罰のプロセスを繰り返していた。

やがて、いくらシゴかれても、改心も脱走もしないぺリシエの根性を上官たちは認めた。一転して所属小隊のムードメーカーとなり、笑いの中心になった。いろんなことを豪語するが、実際にはへタレなところが滑稽だった。

2007年、ジブチに派遣されたとき、近くに駐屯しているアメリカ軍について話をしていたら、「おれは英語が話せるんだぞ」とぺリシエが自慢を始めた。

「じゃあ、英語で会話しよう。Hi, what’s your name ?(やあ、名前は何 ?)」
私が言うと、ぺリシエは期待に応えた。
「Hello. Yes...yes...yes. Fly away ?(ハロー。はい・・・はい・・・はい。飛んでいくの?)」

“Fly away”に私は大笑いした。名前を聞いているのに、なぜ「飛んでいく」という言葉が出てくるのだ!
今やぺリシエは立派な伍長・衛生兵になり、アフガニスタンでは、中隊長付きの衛生兵を務める。

私はぺリシエと、パラクリート社アーマー「RAV」の組み立てを始めた。バッグのジッパーを開けると、コヨーテタン色のアーマー本体が入っており、バッグの内壁には、MOLLE(モーリー)システム対応のモジュラーポーチがズラッと並んだ状態で、取り付けてあった。ポーチ類はすべて「スモークグリーン」という灰色に近い緑色で、アーマー本体の色とは異なる。

私はぺリシエに聞いた。
「アーマーとポーチの色が違うのはなぜだろう?」
「グリーンとタンを組み合わせて、迷彩柄にしたいんだろう。」
多分そうだろう、と私も思っていた。しかし、バックパックのBMFがACU迷彩やフォリエッジ色なのは、どう説明がつく?

戦闘服は森林迷彩。アーマーはタン。ポーチは緑。リュックは灰色。制式採用装備がこんなに統一感のないカラーコーディネーションなのは、国際部隊の中でも、フランス軍だけだろう。

アーマー本体には防弾プレートとソフトアーマーが内蔵され、ズッシリと重かった。プレートは防弾レベル「NIJ レベル4」で、敵がよく使うAK47の7.62mm弾にも対応しており、ソフトアーマーは、爆発物の破片や、ピストルやサブマシンガンの9mm弾から守ってくれる。

付属ポーチ類には弾倉ポーチや汎用ポーチ、無線機ポーチ、手榴弾ポーチなど、いろいろあった。皆、自分たちの使いやすいように、各種ポーチを配置した。使い慣れた自前のポーチを装着する者もいた。

私を含め、FAMASを持つほとんどの兵士に共通している配置は、弾倉ポーチの位置だ。アーマー前面、ちょうど腹の部分から、利き腕とは逆側の側面にかけて、弾倉ポーチを3つ、4つ、装着する。

こうすれば、利き手で銃把を握りながら、もう一方の手で、無理なく、弾倉をポーチから抜き、銃に差し込むことができる。利き手を銃把から放さないほうが、弾倉交換のあと、より素早く撃つことができる。

私は右利きなので、アーマー前面から左腕方向に向けて、弾倉ポーチを3つ並べた。ただし、パラクリート社の付属ポーチではなく、3年ほど前から使っている米国イーグル社の弾倉ポーチを装着した。色は、スモークグリーンによく似た「レンジャーグリーン」という色だ。

このイーグル社のポーチには、1つにつき、3本のFAMAS弾倉が収納でき、合計9本の弾倉を私はアーマーに保持することができる。パラクリート社のポーチには、2本しか弾倉が入らず、9本の弾倉を携行したい場合、5つのポーチが必要になる。弾倉ポーチ以外にも、アーマーに装着しなければならないポーチ類はたくさんある。そのためのスペースが要るので、イーグル社のポーチは重宝した。

弾倉をポーチに入れる向きには注意を要する。弾倉は、弾薬が見えるトップの部分を下向きに、なおかつ、弾丸が前を向くかたちでポーチに差し込む。そうすれば、弾倉をつまんで引き出し、手首を少し回したとき、銃に装着するのに正しい方向を向いた弾倉を手にしている状態となる。

この方法が標準的な弾倉収納方法となっており、私も新兵の頃に教わった。1度、不注意で逆向きに差し込んでいたのを見つかったことがある。「バカタレ!」と、頭を叩かれた。

あれから4年以上が経ち、今、アフガニスタン戦争で、弾倉をポーチに差し込んでいるのだが、怒られた当時と同じ向きで弾倉を入れた。トップが上を向いている。これには理由がある。

私は救急装甲車の運転手を務めることになっているのだが、運転席に乗り込むとき、どうしても弾倉ポーチの下部が車体内側にコンコン当たってしまう。標準的なやり方で弾倉を収納したら、トップの部分が固い車体で変形してしまい、装弾不良の原因となる。弾倉交換は速くできたが弾が出ない、という状況は訓練のときだけで結構だ。

そうなることを避けるために、敢えて差し込む方向を逆さにするのだ。弾倉交換には少々時間がかかるが、弾は出る。

向かって左から、ナチェフ、私、ぺリシエ


パラクリート社RAVフルセット

つづく
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Posted by 野田力  at 07:00Comments(5)アフガニスタン

2012年07月10日

装備支給

はじめに

もうすぐ7月14日です。7月14日はフランスの革命記念日で、アメリカでいう7月4日のような大祝日です。パリのシャンゼリゼ通りで軍事パレードが開催され、騎馬隊、外人部隊、歩兵、工兵、警察、消防、装甲車、戦車など、あらゆる兵科が行進します。しかも上空を航空機が「パレード」します。

私の中隊は2009年にパレードし、私自身も参加しました。シャンゼリゼのド真ん中を威風堂々と歩くことは貴重な経験で、楽しかったです。

何よりも楽しかったのは、課業時間外にパリ市内を観光したりできたことです。スロバキア人やネパール人の後輩たちを「日本人街」の和食レストランへ案内し、一緒にチキンカツ定食を食べました。スロバキア人が私に言った感想は、「美味しかった。あなたが日本人だからそう言ってるのではなく、本当に美味しかったです」でした。



それではアフガンシリーズの続きに参りましょう。

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弾薬・弾倉の次は、各種個人装備を支給された。小型バックパック、ハイドレーション・リザーバー(背面水筒)、ゴーグル、ニーパッドなど。

我々は米国キャメルバック社製の中型バッグ「BMF」、もしくは「マザーロード」というモデルのオリーブドラブ色を持参していたが、フランス軍はアフガニスタンに派遣される兵士に、ある中型バックパックを支給していた。

そのモデルは、我々が持参していたものと同じキャメルバック社のBMFだった。ただ、色が違った。「フォリエッジ」という灰色、もしくはACU迷彩だった。私はACUのBMFを渡された。我々は米軍ではないのに、不思議な色の選択だ。

色はさておき、BMFは頑丈だし、機能的で使いやすい。我々の前にいた部隊が使い古していたので、表面が擦れたり、色褪せていたが、まだまだ使える。それに、今までオリーブグリーンのBMFを使っていたので、ACUは新鮮で気分転換になる。使い慣れたオリーブグリーンがいいという者は、持参したBMFを使えばいい。



ハイドレーション・リザーバー(背面水筒)は、さすがに新品が支給された。こればかりは中古を配ったりはできない。衛生上、問題になる。

ハイドレーション・リザーバーに関しては、キャメルバック社が有名だが、我々が受け取ったのは、ブラックホーク社のリザーバーだった。約3リットルの水が入る長方形の袋から、チューブが伸び、その先にゴムのバルブが付いており、噛んで吸うと水が出る仕組みになっている。

リザーバーをバックパックに入れ、チューブだけを体の前面に回して飲むという装備だ。これなら、走りながらでも飲める。さらに、装甲車運転席の天井に吊るせば、運転中、前を見ながらでも飲める。

我々の多くがキャメルバックのリザーバーを持参していたが、どちらでも好きな方を使えばいい。私はキャメルバックを使うことにした。口をつけるバルブに保護カバーがついているからだ。

アフガニスタンは土埃が多いので、バルブが埃だらけになるのは確実だ。いくら埃にまみれても、カバーさえ外せば、清潔なバルブがあるというのはありがたい。

ゴーグルは、信頼できるモデルが支給されたが、前任部隊のやつらに酷使され、レンズが傷だらけになっていて、装着すると視界が遮られた。こんなものを使うと逆に危険だ。

私はもともと自前のゴーグルを持参していた。米国ESS社製「プロファイル」のアジアン・フィット版だ。アジア人の顔にフィットするよう設計されたモデルなので、私の顔にも隙間なくフィットした。

オリジナルのプロファイルならば、鼻と額中央のあたりに隙間ができる。そこから土埃が入ってきては困る。私がゴーグルを着用する1番の目的は、爆発物の破片などから目を保護することだが、破片と埃の両方に対して効果のあるアジアン・フィットは理想的だった。

他の兵士たちも自前のゴーグルやシューティング・グラスを持っていた。米国オークリー社、米国ワイリーX社、フランスのボレー社など。誰だって目を守りたい。皮膚に破片が軽く突き刺さるくらいなら、やがては治るが、瞳をやられたら、失明してしまう。



ニーパッドも支給された。しかし、膝に固定するためのエラスティック・バンドが伸びきっていて、ヨレヨレだった。固定したい位置にうまく固定できない。こんなもの、いらない。

結局、ニーパッドは一切使わないことにした。迷彩ズボンの膝の部分が、保護パッドを入れられるように、ポケット状になっていたので、ウレタン製のスリーピング・マットを適当なサイズに切って、そこに入れることにした。

釘などが上を向いて出ていたら、貫いて膝に刺さるが、滅多にないことだ。ゴツゴツした岩肌に膝をついても痛くなければ、それでいい。立派なニーパッドがないなら、このように即席で作るしかない。

良好なエラスティック・バンドのついたニーパッドを支給された好運な兵士は、通常使用のとおり、膝に装着し、中には、エラスティック・バンドを切り取ったニーパッドを、ズボンの膝部分に挿入する者もいた。

私がスリーピング・マットからハサミでパッドを切り出していると、ルームメイトのナチェフがのぞき込んで言った。

「おい、ノダ。いいもん作ってるじゃないか。それ、余分にないか?」

つまり、“俺にも作ってくれ”という意味だ。私は即座に答えた。

「ああ。ちょっと待ってくれ。」

ナチェフはいい奴なので、作ってやりたい。

自分のために切り出していた最初のパッドをナチェフにやり、その後、自分のぶんを作ることにした。ナチェフは「Merci (メルスィ= ありがとう)」と言い、膝にあるベルクロ式開閉口をジャリジャリッと開けて、さっそくパッドを入れて試した。

「ノダ、ピッタリだ。上手に作るもんだな。」

当然だ。定規で図って切り出すという手間をかけているんだから。大事に使ってくれよ、ナチェフ。

←私のキャメルバックBMF OD

←コルシカ島での山岳行軍で、BMFやマザーロードを背負う第3中隊のメンバーたち

つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(7)アフガニスタン

2012年06月30日

私のFAMAS

はじめに
テレビのニュースで聞いたのですが、東京の西新井駅周辺に「おれは元外人部隊だ。お前らのために戦争に行った。もっと敬意を払え」と言って、タクシーの運転手に絡んでくる男が出没するそうです。
決して私ではありません。迷惑な話です。
さて、前回は、一般的な戦闘員たちに弾薬が支給されたことについて書きました。今回は私に支給された弾薬と私のFAMAS小銃について書きたいと思います。
どうぞ。

――――――――――

戦闘員たちは立派な火力を得た。一方、私はというと、12個の弾倉は受け取ったが、弾薬は270発だった。満杯25発入り弾倉10個と20発入り弾倉1個分になる。あとは発煙弾を1個。戦闘員に比べると、火力は劣る。私は衛生兵で医療装備を携行するから、そのぶん弾薬が少ないのは仕方がない。

ただ1つ不思議なことがあった。私のFAMASは最もシンプルな原型バージョンで、光学照準器を付けるマウントが設置されていなかったのに、エイムポイントが支給された。どうやって装着しろというのだろう。

ガムテープで固定してやろうか、と冗談で考えたが、実際そんなことをしても、1発撃つ度にエイムポイントがグラつき、照準調整ができないし、貧乏くさい。結局、エイムポイントは返却し、光学照準器のないFAMASで頑張ることにした。

実際、アイアンサイトでもじゅうぶん戦える。イギリスのドキュメンタリー番組で見た、英海兵隊特殊部隊SBSも、光学照準器なしのC8(カナダ製のM4コピー)で銃撃戦を戦っていた。その映像を思い出し、「私はそのSBS隊員と同じなんだ」と自分に言い聞かせたら、逆にモチベーションが上がった。

そして「逆に少し軽くなったからいいじゃないか」とも思った。数日後には、もっと軽くしたくなり、二脚を外した。FAMASの二脚が本領発揮するのは、休憩時などで地面に置く時だ。銃を横倒しに置かずに済み、ほとんど汚すことなく置ける。

確かに二脚は、伏せて狙うとき、安定するが、そんな落ち着いて狙う機会はそうそうないので、実際はあまり使用することはない。我々が任務を遂行するのは射撃場ではない。

私はFAMASにオリーブグリーンのナイロン製2点スリングを付けた。部分的に内蔵されたゴムひもが伸縮するので、首に掛けて歩いたり走ったりしても、首への負担が軽減される。他にも何人かの兵士がコルシカの駐屯地の売店で同じ物を購入していた。

もともとFAMASには古い素材の2点スリングが付いているが、ほとんどの兵士が別のスリングを使用していた。私のように2点スリングの者もいれば、1点スリングの者もいた。私は、医療行為をするとき、FAMASを背中側に回して背負う必要があるので、2点スリングにした。

1点スリングだと、FAMASを放して医療行為をやろうとすると、銃が胴体の前に留まったり、横にどかしても、ブラブラして邪魔になる。FAMASを体から離して、地面に置くのは論外だ。両手放しでも、FAMASが自分についてくるようにしないと駄目だ。

フランス北部の医療教育部隊で受けた、戦場救命課程のある想定訓練のとき、私はFAMASを地面に置いて、負傷兵の治療に当たっていた。そこに敵襲が来て、私は負傷兵を両手で掴み、急いで別の遮蔽物まで避難した。FAMASは置き去りとなり、私は丸腰になった。「衛生兵は2点スリングを使え」という規定はないが、私は訓練の失敗を教訓にした。

私のFAMASを見たチリ人で私の親友のエステバン伍長が言った。
「リキ、お前のFAMASを持たせてくれ。」

エステバンはチューンナップされたMINIMIの担当だ。私がFAMASを渡すと、彼はニッコリ笑い、キレイに並んだ白い歯を見せながら言った。
「おい!このFAMASはオモチャか?軽過ぎるぞ!おれのMINIMIを持ってみろ。」

私は地べたに置いてあるMINIMIを拾い上げた。オリジナルの7.1㎏のMINIMIには慣れていたが、このMINIMIは、一瞬、目を見開いてしまうほど重かった。10㎏以上に感じた。私は、自分がMINIMI射手でなくてよかったと思い、ニヤニヤしながら言った。
「お前は大きいから大丈夫だ。がんばれ。」

エステバンは身長185㎝ある。うまくMINIMIを扱うだろう。私は身長165㎝なので、軽量化FAMASでいい。

なお、エステバンは私より10ヶ月遅く入隊した。分別とユーモアのある男で、一緒に仕事をしていて気分がよく、すぐに仲良くなった。小太りだが、持久走も綱登りも速く、戦う勇気を持ち合わせているので、ともに戦争に行きたいと思える仲間だ。

以前に派遣されたコートジボワール、ジブチ、ガボンでも一緒だった。そして今、アフガニスタンで彼とともに戦えることが、私は嬉しかった。

エステバンのミニミを構える私

エステバンと私

フランス北部の医療教育部隊で受けた訓練の一コマ 2009年5月

つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(5)アフガニスタン

2012年06月20日

弾薬の支給

はじめに

先日、私が以前所属していた第2外人パラシュート連隊の現役日本人2名に会いました。狙撃課程やアフリカなどの土産話を聞き、まだまだ軍隊を経験したいと思いました。2人のことが羨ましかったです。

今週金曜日、22日から公開の映画「ネイビーシールズ」、楽しみですね。必ず劇場で観たいです。


それでは本文にうつりましょう。
どうぞ。

――――――――――

昼食時の興奮が冷めやらないまま、我々は弾薬・弾倉を受け取りに行った。銃があっても、弾薬がなければ仕方がない。私はこの時を待っていた。

FAMASを持つ戦闘員は1人につき、300発の5.56mm弾薬と12個の弾倉を受け取った。1つの弾倉に25発入るので、12個の弾倉に弾薬300発がすべてピッタリ収まる。(バネのことを考え、装弾数を22~23発にとどめる者もいた)

彼らには、さらに手榴弾、発煙弾、FAMASの銃口に取り付けて発射する擲弾が支給された。中には、LGI(個人用擲弾発射器)や使い捨てのAT4ロケットを携行する者もいた。

ちなみに、「AT4」という名称の由来だが、私の後輩がフランス陸軍の武器庫管理の課程で教わったことによると、「AT4=エイティフォー」は「84」という意味で、84mm口径を表しているという。

私は基本訓練でAT4を習ってから、長いこと「Anti-Tank(対戦車)4」だと思い込んでいた。お恥ずかしい・・・。しかし、フランス語では「アー・テー・カトル」と読むので、「84(カトルヴァン・カトル)」という意味ではなくなる。

MINIMI(ミニミ)軽機関銃射手や、AANF1(アーエネフ・アン)汎用機関銃射手も多くの弾薬を受け取った。MINIMIに関しては、30発弾倉や100発ベルト式弾薬用の箱型弾倉の他、200発ベルト式弾薬用の箱型弾倉まで支給された。

MINIMIは5.56mmのベルギー製軽機関銃で、私自身、新兵の頃、小隊に配属されると、まずMINIMI射手を担当した。扱いやすく、頼もしい武器だ。固定式銃床・長い銃身の歩兵仕様と、伸縮式銃床・短い銃身の空挺仕様があるが、フランス軍では空挺仕様のみを採用している。

中隊はアフガンでの任務に合わせ、その空挺バージョン数丁をチューンナップした。M4小銃のような伸縮式銃床やピカティニーレイルが設置され、エイムポイントと望遠器、そしてフォアグリップが取り付けられた。しかも、フォアグリップには小型の二脚が内蔵され、必要に応じて二脚を引き出すことができる。もともとMINIMIに付いていた長い金属製の二脚は外された。そのうち何丁かに黄土色の塗装も施され、まるで米軍特殊部隊が使う武器みたいで、カッコいいと思った。

中には、チューンナップされていないMINIMIを担当した射手も2人ほどいたが、見た目では劣っていても、「J4」というフランス製の4倍率スコープが付いているので、性能にはそんなに差は無いだろう。しかも、実はこのオリジナルの方が重量は軽い。

一方、AANF1は、7.62mm口径のフランス製機関銃だ。1950年代から使われている古いモデルで、グリップの持ち心地などが悪く、扱いにくいので、人気がなかった。しかも、何度か故障するのを見たことがある。

しかし、あくまで7.62mm口径の機関銃だ。火力があり、作動さえしてくれれば、大いに頼りになる。新しい部品を使うなり、こまめに手入れをするなりして、しっかり作動させるよう、努力するしかない。アフガニスタンで使用するAANF1 には、古い部品は使われていないだろうから、故障せずに、心強い支援火器になるだろう。

FAMAS原型

AT4

MINIMI
一番右のMINIMIには個人購入の二脚が付けられている。


AANF1

弾薬・手榴弾

つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(14)アフガニスタン

2012年06月10日

FOB食堂

はじめに

現地時間の6月2日、夜。アフガニスタンでイギリスSASが人質救出任務を成功させたそうです。イギリス人女性1名を含む、合計4名の民間人が救出されました。誘拐犯たちは殺されたそうですが、メディアにより人数が異なります。「4人」やら、「8人」やら、「11人」やら、いろいろです。米軍特殊部隊DEVGRUとの合同任務だったという情報もあります。
ともかく、任務成功、おめでとうございます。さすがです。

それでは、アフガン記のつづきをどうぞ。

――――――――――

昼食の時間になった。ここはバグラムとは違って、敵に近い前方なので、あまり良い食事は期待できない。ラッション(携帯糧食)より美味ければいい。そう思いながら、銃をロッカーにしまい、鍵をかけ、何人かの同僚たちと一緒に食堂へ行った。

食堂は結構大きかった。面積は、縦50m×横30mの1500㎡くらいだと思う。社員食堂や学生食堂のような感じで、入ると、手を洗うための洗面台がいくつかある。ハンドソープも設置してあり、しっかり手を清潔にできる。下痢を予防するため、手洗いが推奨されていた。私も必ず手を洗った。衛生兵が不注意で下痢になったら面目ない。

手を洗い、備え付けの紙で手を拭くと、食堂従業員のいる食事配給のところまで進む。トレイや食器を取り、メニューを見たら、心が躍った。バグラムの食事に匹敵しそうなくらい豪華なメニューだった。しかも、いくつか選択肢がある。例えば、ハンバーグ、フライドチキン、ビーフステーキから1つ、パスタ、ライス、フライドポテトから1つを選び、従業員に告げると、それらを皿に盛ってくれる。

従業員は、やはり、インド人やネパール人やアフガン人だった。そこの管理者として、一人の南アフリカ人の色の浅い黒人がいた。食堂全体の管理者はフランス人の中年男性だったが、厨房にいたり、食事配給場所にいたり、忙しそうにしていた。

メニューを皿に盛ってもらったら、サラダバーとデザートバー、そしてチーズバーがある。文字通り、好きなだけ取れるし、種類もいくつかある。サラダはグリーンサラダ、ラディッシュ、豆サラダ、他。デザートはケーキ、ムース、ピーカンパイ、みかん、他。チーズはカマンベール、ロックフォール、チェダー、他。
スライスされたフランスパンも自由に取れたし、マヨネーズ、ケチャップ、タバスコやウスターソースなどの調味料もバリエーションがあった。そして、缶ジュースやミネラルウォーターもあった。コーラやスプライト、そしてファンタ・オレンジなどがあったが、缶ジュースに関しては、「1人1缶のみ」という注意書きがあった。

申し訳ないが、ジュースのそばに見張りでも立たせておかないと、必ず誰かが余分に持って行く。注意書きは効果がない。しかし、私自身はそのルールを守った。糖分をとり過ぎるのは健康に良くないからだ。

こうして、メニュー・フルコースをトレイに載せ、長いテーブルの席につき、食べる。まさか、FOBでこんなに質量のすばらしい食事ができるとは思ってもみなかった。何が一番嬉しかったかというと、豊富なサラダだった。野菜はとても健康にいい。癌になる率が減少するとテレビで聞いた。

コルシカ島の駐屯地の食堂では、サラダがほとんど出ず、揚げ物など、油っこい物が多く出る。我々の体に何かを発病させたいようだ。戦場の食事の方が美味しくて健康に良いなんて信じられない。

われわれは感動しながら、その食事に舌鼓を打った。すると、ナチェフが言った。
「ここの味に慣れたら、もう連隊の食堂ではマズくて食べられなくなるぞ。」



我々が談笑しながら食べていると、6名の、私服を着た集団が入ってきた。青のジーパンやベージュのカーゴパンツをはき、黄土色のフリースジャケットや紺色のジャケットを着ている。我々フランス兵は、食堂へは、ちゃんと迷彩服上下を着用しないと入れない規則になっていた。

「この人たち、もしかして・・・。」と、私は思った。皆、白人で髭を蓄えている。鼻髭だけの者もいれば、アゴ全体に髭を生やした者もいる。身長は170㎝から190㎝くらいとまちまちで、体格も細身から中肉まで、いろいろだ。

何人かの腰には、ヒップホルスターに収まったベレッタM9拳銃が見える。使い古されており、金属部分の色が落ち、灰色になっていた。

私はナチェフと他の同僚にささやいた。
「見ろ。米軍特殊部隊だ。」

皆で憧れのまなざしを送った。我々の誰もが、特殊部隊になることがどんなに大変なことか理解している。その選抜試験をクリアして、特殊部隊として活躍している彼らは当然優秀だ。偶然とか、人手不足なんかで、特殊部隊になれるわけがない。それはどの国でも同じだろう。米軍でも、仏軍でも、英軍でも、自衛隊でも。

私は米軍特殊部隊をチラチラ見つつ、芸能人かスポーツ選手を見ているかのように、ワクワクしながら食事を続けた。「近々彼らに話しかけよう」と思った。そして、食べ終わると、トレイを返却口に置き、食堂を出た。アフガンでは、普通の食堂ですらエキサイティングだ。

ちなみに、朝食はイギリス式朝食で、ソーセージ、スクランブルエッグ、ベーコン、シリアル、フルーツ、クロワッサン、フランスパン、バター、ジャム、コーヒー、紅茶などがあり、ボリューム満点だった。
FOBトラでは、朝昼晩、毎食が大きな感動だった。


↑食堂の従業員たち。普段は屋内の調理場で調理をするが、この写真を撮った日は何かの祭典でバーベキューがふるまわれた。肉だけでなく、バーベキューコンロにも注目。鉄杭を溶接して作った土台、ドラム缶を半分にカットした本体、バスチョンウォールの金網を切り出したグリル。フランス軍おなじみのバーベキューコンロだ。

つづく

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SAS本の金字塔



米軍特殊部隊





  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年05月30日

FOBトラ

はじめに
現在公開中の映画「キラーエリート」を見ました。アクションもさることながら、フェザーメンの暗躍にドキドキしました。私も、このブログで下手なことを書いて、フランスのフェザーメンに狙われないよう、気をつけます。
なお、主人公の殺し屋たちが、もともとどこで技術を習ったのか気になったんですが、私は勝手に解釈して、元外人部隊と見なしました。パリに集合してましたし。
まあ、そんな設定ではないと思いますが、そんな見方をしたら、とても楽しめました。勝手に妄想してすみません。


さて、前回の記事では、FOBの宿舎やシャワー・洗面所を描写しました。引き続き、FOBがどんなところか、紹介していきたいと思います。FOBの生活を感じて頂ければ幸いです。
それではどうぞ。

――――――――――

兵舎に荷物を置いた後、我々は集合し、FOBの中を手早く案内された。どんな施設があるのかや、それらの位置、そして、FOBの簡単な歴史がわかった。

我々の駐屯するFOBは「FOBトラ」という名称で、荒野に隆起した標高約1400mの高台に建っている。人里から少し離れており、FOB関係者以外では、ヤギを遊牧するヤギ飼いくらいしか、現地民を周辺で見かけることはない。

もともとイタリア軍部隊の小さな基地だったが、2008年からフランス軍部隊に引き継がれ、早急な増築の後、大きな基地となった。今や600人以上の収容が可能だ。

FOBの内側には多くの施設があり、居住区の他には、指揮所、作戦会議室、通信室、診療所、車両整備区域、無人偵察機区域、軍用犬宿舎、集合広場、食堂、筋トレ小屋、売店、そしてバー(パブのようなもの)などがあった。

さらに、我々フランス兵は自由に出入りができないが、アメリカ軍の小さな区域もある。

FOBの外側には、野球グラウンドのように広いヘリポートがあり、その先には100mくらいの岩山があった。その山は「モン・サンミッシェル」と呼ばれ、頂上には監視所があり、常時、15名ほどが警備や通信の任務に就いている。

FOBもヘリポートもモンサンミッシェルも、長い有刺鉄線に囲まれていたが、射撃場だけはその枠の外にあった。FOBの高台から下った平地が射撃場だった。ここで皆、到着してすぐ射撃をし、銃の照準を調節する。

特筆すべきは、FOBの周りを固めている防壁で、「バスチョン・ウォール」と呼ばれる。「ヘスコ」というイギリスの会社の製品で、構造はとてもシンプル。

まず、フェンスのような金網で、四角柱型のカゴを組み立てる。断面は1辺が約1.5mの正方形で、高さは約2m。他にも、1辺が1mで、高さ1.5mのタイプもある。上面と下面には金網を張らず、開けたままだ。まるで檻のようである。

そして、組み立てた金網の内面に、頑丈な薄茶色の生地を張り付る。すると、大きな箱のようになり、その中に、上から土や石をぎっしりと詰め、押し固めれば完成だ。

原理は単純で、巨大な土嚢みたいなものである。これらを隙間なく並べ、FOBの防壁が形成される。2重にもできるし、積み重ねることもできる。

シンプルな構造ながら、防御性能は高い。弾丸は当然のこと、RPGの攻撃や突っ込んでくる車にも耐える。現在、アフガニスタンやイラクのあらゆる基地で、この「バスチョン・ウォール」が採用されている。

そんな防壁のところどころに見張り台があり、機関銃やロケットで武装した兵士が交替で24時間、警戒している。しかも、FOBのメインゲイトから幹線道路まで伸びる道は、起伏が激しいうえ、舗装されていない。そのため、車が高速で走ることができず、たとえ自爆テロの車が来ても、道の途中で対処できる。

このように、FOBトラは防御が固い。それでも稀に、遠くからロケットが飛んでくる。幸い基地内に落ちたことはないが・・・。

FOBから眺める日の出
FOB入口。フランス国旗とアフガン国旗がたなびく。
FOBトラ
FOBトラの周辺環境
背後の小山がモン・サンミッシェル
モン・サンミッシェルの見張所
山頂
山頂からの眺め
バスチョン・ウォールを作る現地雇用職人
バスチョン・ウォール

つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(5)アフガニスタン

2012年05月20日

FOB

はじめに
毎年、5月半ばに、フランス南西部のルルドという町で、「国際軍人巡礼」というイベントがあります。
今年の巡礼に、アフガンで脚を負傷した元同僚が行ってきたそうです。彼は今も松葉杖や車椅子を使用しています。神の力でも医学の力でも何でもいいので、早く自力で歩けるようになって欲しいです。
ルルドはカトリック教徒の聖地で、その巡礼には、バチカン市国から韓国まで、世界じゅうからカトリックを信仰する軍人がたくさん集まります。実は私も、一切宗教を信じていないにも係らず、2007年の巡礼に連隊から派遣され、いろんな国の兵士と話ができて嬉しかったです。

さて、アフガン記のつづきに移りましょう。
FOB(前方作戦基地)とはどんなところかについて、説明を続けたいと思います。
それでは、どうぞ。

――――――――――

我々は6ヵ月間住むことになる兵舎に案内された。到着前は、天幕の中、折り畳みベッドで寝る生活になると思っていたのだが、兵舎は1階建てのレンガ造りの長屋だった。ドアを引いて中に入ると、そのまま真ん中に1本の廊下が伸び、突き当たりには、小隊の会議や情報処理に利用される事務室兼倉庫がある。12畳くらいの部屋だ。

廊下の左右には、2人部屋が全部で10個並ぶ。1つの兵舎に20人収容できる。1部屋3畳くらいで、2段ベッドと高いロッカー2つ、パイプ椅子2つがあった。狭いので、所持品を効率良く収納しないと邪魔になる。

となりの部屋とは板でできた薄い壁のみで隔てられ、廊下との境には壁はなく、カーテンしかなかった。それでも我々にとっては豪華な宿泊施設に感じられた。一般人の感覚からすれば、プライバシーに問題ありと判断されるだろうが、我々は普段から集団生活だし、戦争に来てマットレス付きのベッドで眠れるなんて、贅沢だと思った。

私は、上り下りが楽なので、2段ベッドの下段が欲しかった。しかし、ルームメイトのブルガリア人ナチェフ上級伍長が下段に寝ることとなった。私の階級も上級伍長だったが、ナチェフの方が私より1年ほど早く入隊していたので、優先的に彼の希望が通る。私と同じ理由で、彼は下段を選んだ。

彼は穏やかな性格で、私と同じ165㎝くらいの身長なので、彼がルームメイトで私は嬉しかった。彼の役職は中隊長付きの通信兵だ。

こうして私は毎回、上のベッドによじ登る破目になった。ハシゴなど無かった。こういうとき、我々が練習してきた障害物コースの技術が発揮できる。





トイレとシャワーは私の兵舎から10mくらいのところにあった。これもレンガ造りの長屋で、片側半分が洋式水洗トイレ、残り半分がシャワー/洗面所だ。数も多く、広くて快適である。水は無限では無かったが、無駄に流しっぱなしにしない限り、じゅうぶんあった。しかも湯がでる。

実は、フランス・コルシカ島の駐屯地で私が住んでいた建物のシャワーは、真冬に湯が出ることが稀だった。冬のシャワーを浴びる時は、冷水に耐えるため、雄叫びを上げることもあった。

世界的な評判で「REPは立派に戦う」とよく言われる。それは普段の生活より戦場の生活の方が楽だからだろう。訓練が苦しいのは当たり前で、生活も不便で厳しい。

「Train Hard, Fight Easy=訓練が厳しければ、実戦が楽になる」という諺があるが、REPの場合、「Live Hard, Fight Easy=生活が厳しければ、実戦が楽になる」という方が適切だ。




つづく





  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年05月10日

FOB到着

はじめに

ビン・ラディンが殺されてから、1年が経ちました。
当時、そのニュースを聞いたときは、驚きましたが、喜びとか達成感などは感じませんでした。なぜかわかりませんが、ある戦死した同僚の顔が思い出されました。被弾して苦しんでいたときの顔がです。
テレビをつけると、ニューヨークなど、アメリカ各地で、多くの人々がお祭りかのように、歓喜の声をあげていました。「アメリカ万歳!!!」と・・・。
私はアメリカという国は、正直、好きです。しかし、これらの歓喜に満ちた人々には強い違和感を感じました。
アメリカ万歳?
この戦争に、アメリカの同盟として戦っている国は数多く、死傷者を出しているのもアメリカだけではありません。アフガニスタンの民間人も多数の死者を出しています。
この戦争の死傷者のことを考えたら、あのお祭り騒ぎはやめて欲しかったです。

一般大衆に、「戦争の犠牲者のことを考えろ」というのは無理なことだとは思います。そこのところは理解しているつもりです。私も、もし兵士でなかったら、アフガニスタンに関心すらなかったかもしれません。ですから、あまり強くは私も言えません。
ただただ私は上記のように感じました。

さて、前回は、バグラム航空基地からチヌークで飛びたち、FOBへ向かうところまで書きました。FOBとはどのような場所なのでしょうか。
つづきをどうぞ。

――――――――――

30分ほどするとチヌークは高度を下げ始めた。いよいよFOB に到着する。依然として下界は、文明のおもかげのない、起伏のはげしい荒野だ。高度だけでなく、速度も落ちてきた。

着陸が近づくと、チヌークの後部扉は閉じられた。少し暗くなったが、コクピットや左右の窓から光が入るので、じゅうぶん明るい。そんな中、機体が前進する感覚がなくなり、着陸する感覚が伝わってきた。
着陸すると、後部扉はゆっくりと下がり、外へのスロープとなった。日差しが強く、機内にいるのに照り返しが目に刺さる。

米軍乗組員が地面に降り立ち、我々に手招きをする。後ろ側の者から次々と立ち上がり、荷物をかついだり、つかんだりして、チヌークから砂利の敷き詰められたヘリポートに足を付けた。砂利を敷くことで、ローターで舞い上がる砂埃を軽減させているのだ。

チヌークから出ると、左方向50mくらいにFOBが見えた。内部は見えないが、連なる薄茶色の防壁とゲートが見える。とても簡素な造りで、“基地”というより“砦”だ。内側の建物の屋根や長いアンテナ類が防壁を越えて目に入る。

右方向を向くと、ヘリポートの端に、これからチヌークに乗って帰還する兵士達が集合していた。我々の前任部隊である第2外人歩兵連隊(2REI)か第1外人工兵連隊(1REG)だろう。彼らは6ヶ月の任務を、戦死者を出すことなく終了していた。もしかしたら、我々REPも戦死者を出さずに、無事帰還できるかもしれない。

(ちなみに、私の知る限り、この時、2REIに1人、1REGに2人の日本人隊員がいた。アフガニスタン戦争には、外人部隊・米軍・PMCとして、意外と多くの日本人が参戦している。私の知る限り、私を含め、16人はいる。)

←到着した我々

←帰還する前任部隊

←FOBに入ってゆく

我々は、先遣されていた下士官に案内され、FOBに入った。

まずは、装着してきたヘルメットとアーマー、そして20発の弾薬と弾倉を、需品担当者に返却した。そして、ついにアフガン作戦用のヘルメットとアーマーを支給された。アーマーは専用の大きな緑色のバッグに入っていた。

両方ともアメリカ製だ。我々の前に作戦を遂行していた幾つかのフランス部隊が、ほぼ毎日使っていた物で、使い古されていた。それでも機能に問題はない。

「このヘルメットはAKの7.62mm弾を止める」
需品担当者は言った。「心強い !」と思い、勇気が湧いた。しかし、今思えば、どの距離から撃って出たデータだったのだろう・・・。5mと500mでは心強さが大きく変わる・・・。

まあ、弾丸にしろ、爆発物の破片にしろ、装着していなければ、致死率は高まるので、ヘルメットは被っておいた方がいいに決まっている。実際のところ、このヘルメットはあるフランス正規軍兵士の命を守ったことがある。

その兵士は装甲車の上部ハッチから、胸部から上を出し、FAMASを構え、周囲を警戒していた。すると突然、敵の銃撃を受け、1発の弾丸がヘルメットを貫通した。血が吹き出し、顔面を滴る。兵士は「畜生 !頭を撃たれた !助けてくれ!」などと叫びながら、装甲車の中にうずくまった。

同僚たちはヘルメットを外し、おびただしい血に覆われた傷を見ると、額の上部から頭頂部にかけて、線状の傷があった。同僚たちは圧迫包帯で処置し、兵士は国際部隊病院に搬送され、一命を取りとめた。

結局、弾丸はヘルメットを貫いたが、軌道を変え、ヘルメット内壁をなぞるように、兵士の頭皮をえぐったのだった。軌道が変わったおかげで、頭蓋骨を貫かれることなく、脳を撃ち抜かれずに済んだ。

やはり、ヘルメットは是非とも着用したい。

さっそく、ポーチ類をアーマーに取り付けたかったが、先遣の下士官は言った。
「兵舎に荷物を置いたら、すぐ集合だ。FOB内の施設をひと通り案内する。」

←アーマーの入ったバッグ

↓ヘルメット




つづく

ビンラディンを殺したシールチームの本


アフガンで戦った米空軍人内山さん


アフガンで戦った義勇兵高部さん


アフガンで戦った米陸軍人飯柴さん
  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年04月30日

バグラム出発

皆さま、ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか。私は、この春、自衛隊に入隊した友達に会い、基本教練の土産話を聞いたりしています。その友達が、「構えの練習のため、64式小銃の電動ガンを買いたい」というので、ショップに行ってきました。64式はなかったので、友達は89式小銃を購入しました。初めてのエアガンを買い、ゴールデンウィークは射撃姿勢の練習にまるまる費やすそうです。射撃徽章を勝ち取るために。
その友達に同行して行ったショップで、ある書籍が陳列されているのを見つけました。
「リアル・アクション・ポーズ集 ガンアクション編」です。

女子たちの教官を務めた小峯隆生氏のプロジェクトで、私もお手伝いさせていただきました。他にも、元傭兵の高部隊長や元米陸軍の飯柴大尉など、数名のリアル戦士が指導にあたりました。
女子たちの訓練に臨む姿勢は真剣で、休憩時間に質問を受けることもありました。彼女たちのひたむきさに、私は正直、心を打たれました。一生懸命な彼女たちは本当にカッコよかったです。

さて、アフガン記に移りたいと思います。今回はいよいよ、バグラムから飛びたちます。敵の近くへと、さらに一歩、踏み出します。
それでは、どうぞ。

――――――――――

翌朝、明るくなった頃、我々は集合し、エプロンの入り口手前まで行き、米軍のCH47チヌーク輸送ヘリの到着を待った。ついにFOB(フォブ=Forward Operating Base=フォワード・オペレイティング・ベイス=前方作戦基地)に行く時がきた。

バグラムからFOBまでの移動中に着用するヘルメットとアーマーが支給された。両方とも仏軍の古いモデルで、アーマーは肩の部分がかさ張り、着用すると両腕の可動範囲が狭くなる。まあ、しばらくの辛抱だ。

5.56mmの実弾20発が入った弾倉も一個渡された。移動中、不測の事態が起きるかもしれないからだ。荒野に不時着したチヌークが敵に包囲され、銃撃戦となるが、すぐに弾薬が尽きるという状況が思い浮かんだ。早くFOBに着いて、新採用のヘルメットとアーマー、そして大量の弾薬を受け取りたかった。そうでないと不安だ。

ヘリを待っている間、アーマーやリュックなどの装備をそばに置き、我々は飛んでいくUH-60ブラックホークやF-15Eストライクイーグルを眺めていた。そんな中、1台のバスが到着し、米兵がゾロゾロと降りてきた。

パン!

突然の銃声に我々はいっせいに米兵たちの方を向いた。彼らの近くにいた黒人フランス兵が、驚いた顔で我々に向かって駆けてくるのが見えた。何があったのだろう?

どうやら、米兵の1人がM16A2を暴発させたのだった。銃口は下に向けられており、弾丸は地面に撃ち込まれたらしく、ケガ人は無かった。これが、アフガンに来て初めて聞く銃声だった・・・。

銃声にビックリしたが、もっと驚いたのは、誰もその米兵を叱らなかったことだ。我々の連隊の者にそんなことが起きたら、そいつはその場で怒鳴り散らされるだろう。下手したら、頭が飛んでいく勢いで殴られる。しかし、その米兵の集団は、暴発など無かったかのように、静かだった。
ちなみに、その米兵たちはアフガン戦争に召集された陸軍予備役らしかった。

「米兵がこっちに来たらアーマーとヘルメットを着用しよう。」
と、ブルガリア人同僚が言った。
 
やがて、滑走路に入るよう促され、ヘルメットやアーマーを着用し、120リットルサイズのリュックと30~40リットルサイズのリュックを肩に掛けたり、手に提げたりして、我々は歩き出した。実弾入り弾倉はFAMASに装着した。

米軍のCH-47チヌーク2機が、すでにローターを回して待機していた。キィーンというエンジン音が少しうるさい。後部扉は下の方向に開き、乗機するためのスロープとなっていた。

我々は、各チヌークの後部扉から30m程後ろに、縦2列に並び、合図を待った。私は右列の最後尾だ。自ら進んでこの位置を取った。ここなら、機内に乗り込んだ時、後部扉のすぐそばに座ることになり、開いた後部扉を通して、空から景色が見下ろせるかもしれないのだ。そんな写真を英米のアフガン戦争関連書で見たことがある。是非、ナマで見たい!

なお、フランス軍にはチヌークが無く、この時が我々の多くにとって初めてのチヌーク搭乗だった。私の尊敬する英陸軍特殊部隊SASが湾岸戦争やシエラレオネ紛争でチヌークに乗って潜入した話を思い出し、胸が高鳴った。彼らが目にしたような光景が私にも見られるのだ。

後部扉の先端中央に7.62mm口径のM240D機関銃が設置されている。そのそばに立つ乗組員が手招きをした。我々はチヌークの貨物室に向けて歩き出す。僭越ながらも、SAS隊員になった気がして、心臓がはち切れそうになった。夢を見るのはタダだ。

やがて、全員乗り込み、荷物の山を機内中央にできた。そして、両サイドに設置された長い座席に座る。銃は、負い紐を首にかけて、胴の前に提げた。思惑通り、私は後部扉のすぐそばに陣取ることができた。

そしてチヌークは離陸し、南東方向へ加速を始めた。

離陸するとき、後部扉は閉じられていたが、飛行が安定すると開かれ、水平まで下がった。眼下にバグラム航空基地の全景が、そして彼方には雪で覆われた山脈が広がった。キャノンの小型デジカメIXYで写真や動画を撮り始めた。

米軍乗組員の一人が、後部扉のM240Dのとなりに座り、グリップの上部に肘を掛けている。彼はすごいパノラマ風景を満喫しているに違いない。優雅だ。私もそこに座りたいと思った。そこなら、機体のどこかが視界に入ることがなく、風景が目の前に果てしなく広がるのだろう。

下界は航空基地の景色から、平らな荒野に変わり、やがて丘陵地になった。ところどころ村があったり、大きな川もあったりしたが、この大地のほとんどは、岩と石と土と少しの草木に覆われていた。荒野・丘・川・遠くの雪山など、大自然の調和が美しく、この空の旅だけでもアフガニスタンに来た甲斐があると思った。





つづく

CAT11の別の本


マンガでガンアクションを描くための本



  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年04月20日

バグラム航空基地 Part3

つい先日、4月15日・16日、アフガニスタンの首都カブールで、タリバンによる同時テロ攻撃があり、日本大使館にも合計5発のロケット弾が着弾したそうです。
ぜんぜん平和にならないですね。近い将来、国際部隊が撤退しても、戦いは続き、さらに激しい内戦に発展するのではないかと思えてしまいます。

さて、今回も「バグラム航空基地」の続きです。前回は、基地内にどんな施設があり、どんな人々を見たのかについて書きました。今回は、米兵と会話したときのことを書きたいと思います。
それでは、どうぞ。

――――――――――

バグラム滞在2日目、同じ兵舎に泊まっている米兵3人と英語で話をした。彼らの部隊は歩兵部隊で、1年間の任務を終え、2日後にアラスカの駐屯地に帰還するところだった。

私が、戦死者は出たかと聞くと、「戦闘は何度もあったけど、戦傷者も戦死者もなかったよ」と言う。それを聞いて、我々からも戦死者は出ないかもしれないと思った。

そこで、アフガンでの任務遂行のために、何かアドバイスはないかと尋ねると、細くて長身のドイツ系アメリカ人軍曹は言った。
「エイムポイントやEOテックを使うより、倍率の高い照準器を使う方がいい。我々のいた地域は山岳地帯だったんだけど、敵は遠くから撃ってくるから、倍率の高い照準器じゃないと見つけられないんだ」。

そう言って彼は、トリジコン社製の照準器の付いたM4A1小銃を私に手渡した。そのM4を天井に向けて構え、照準器を覗いてみる。倍率4倍くらいだろうか。天井が少し近くに見える。トリジコンを通して見える円形の光景には、中央に「∧」型の赤い印があり、その左右と真下に向かって、目盛りの付いた黒い線が伸びていた。

「Can I hold your FAMAS ? (FAMASを持ってもいいか)」
軍曹のとなりにいた中肉中背のヒスパニック系米兵2名のうちの1人が聞いてきた。私は「Yeah, sure(ああ、もちろんだ)」と言って、FAMASを手渡した。

その米兵が言った。
「FAMASには『トランペット』というニックネームがあるんだろ?」
私は答えた。
「いや、ない。アメリカの本にそう書いてあるのを見たことあるけど、単に『ファマス』って呼んでるよ。」
確かに形が似ているかもしれないが、私はFAMASがトランペットと呼ばれるのを聞いたことがない。

この時、この米兵達は初めてFAMASを手にしたのだが、私もM4は人生で初めてだった。M4は軽いし、思っていたよりも短く、弾倉がグリップより前に位置するので扱い易かった。FAMASより10㎝ほど長いだけなので、M4の方が絶対にいいと思った。一方、米兵たちは「FAMAS、すごく短いのに銃身が長いからいいなあ」と感心していた。お互いに「無い物ねだり」だ。

私は以前、いくつかの本や雑誌で、「M4は作動不良におちいりやすい」と書いてあったことを思い出し、聞いてみた。
「M4って、頻繁に作動不良起こすの?FAMASは、状態のいい弾倉を使えば、大体はちゃんと作動するんだけど・・・。」
「M4も同じだ。弾倉さえ変形していなければ、ちょっとくらい汚れていても、ちゃんと作動するよ。」
米軍軍曹がそう言っている横で、2人の兵卒が何度もうなずいていた。

トリジコン付きM4
トリジコンのレティクル
エイムポイント付きM4


 
私が話をした米兵たちは皆フレンドリーで、とても気分が良かったのだが、中には我々のことを快く思わない米兵もいたようで、トイレのドアに「仏軍パラシュート部隊はクソだ」と英語で書いた落書きがあった。

我々が大勢で到着し、シャワーなどの待ち時間が長くなったから嫌われたのだろう。残念だと思ったが、その横に別の落書きがあり、「実際に彼らを知るまでは、彼らがクソかどうかはわからない」、「書くことに気をつけろ。君はアメリカを代表しているのだから」と書かれていた。

我々をかばう落書きを見て、嬉しくなり、かばってくれた米兵に会いたいと思った。悪口の落書きを塗りつぶせば手っ取り早いが、敢えてそのままにするなんて、米社会では「言論の自由」が尊重されていることがよくわかった。


つづく

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アフガニスタンで米軍部隊が経験した激戦の記録

  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(6)アフガニスタン

2012年04月10日

バグラム航空基地 Part2

皆さま、お待たせしました。前号「バグラム航空基地」の続きです。前号で、我々はバグラムに到着し、銃や個人用医療ポーチの支給を受けました。これから航空基地内の施設をいくつか回るのですが、ちょっとした驚きや発見が待っています。
それでは、どうぞ。

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食事の時間になった。食堂は、いくつもの天幕をつなげた造りだったが、内部は立派なレストランみたいで、美味そうな料理がふんだんに用意されていた。フライドポテト、ライス、パスタ、ハンバーグ、フライドチキンなどなど……。しかもサラダ、フルーツ、デザートは取り放題。飲み物も好きなだけ取れた。
食堂から食べ物を持ち出すのは禁止だと注意書きがあったが、パックのジュースやチョコバーをいくつか隠して持ち帰った。この程度の悪さは、軍隊では当たり前のことだ。

アメリカの民間企業が運営しているこの食堂の料理は、コルシカ島の駐屯地の食堂が出す料理よりも100倍豪華だった。戦場でこんなにいい物を食べられるなんて、正直、米軍が羨ましいと思った。しかし、毎日こんな料理ばかりでは食べ過ぎてしまい、体重管理に苦労しそうだ。

しかも、こんな素晴らしい食堂があるのに、「バーガーキング」、「ポパイチキン」、「サブウェー」などのファストフードの店も営業していた。食堂で無料で食べられるのに、なぜファストフード店があるのか不思議に思い、1人の米兵に聞くと、それらの店は24時間営業で、食堂が閉まっている時間帯でも食べられるから、との返事だった。
 
「AAFES(エイフェス)」という米軍PXストアもあった。まるでスーパーマーケットそのままの大きな店舗で、家電・食品・衣類・書籍の他、ブーツやポーチなどの米軍個人装備も販売していた。米軍の部隊章パッチや階級章などは、米軍所属でない者には販売できないと注意書きがあったが、ランニングショーツ2枚と一緒に、米第82空挺師団の部隊章パッチなどを、レジに持って行ったら、何も言われずに購入できた。

〈食堂〉

〈食事〉

〈朝食〉

〈デザート〉

バグラム基地には、アメリカ以外の国からも多くの兵士が派遣されていた。イギリス、チェコ、ヨルダン、ポーランド、エジプト、ルーマニア、ラトヴィア、韓国……。韓国兵とフランス兵だけが森林用迷彩服で、他は砂漠用迷彩服だった。
(フランス軍は貧乏で砂漠迷彩服を支給できないのか? あるいはこの迷彩柄がアフガンで効果があるのか?)

〈韓国兵と銃を交換しての記念撮影。私が持っているのは韓国製K2小銃〉
〈ヨルダン軍兵士〉
 
兵士のほかにも多くの民間人がいた。彼らは料理、運送、清掃、販売などのロジスティック(兵站業務)のために来ている。アメリカ人も多かったが、ネパール人やインド人は更に多くいた。タイ人やアルメニア人も少数ながらいた。欧米の民間会社にしてみれば、安い賃金で彼らを雇うことができる一方、彼らにとっては高い給料なのだ。まさにアフガニスタン戦争は出稼ぎのチャンスでもある。

バグラム基地では、軍人、民間人を問わず、女性の姿も多く見かけた。とくに韓国の女性兵士が目についた。おそらく韓国軍医療部隊の看護婦なのだろう。
 
また、基地内には大きなトレーニング施設もあり、我々駐屯地の筋トレ施設よりはるかに大きく、設備も充実していた。フランス兵にも無料で利用させてくれ、タオルの貸し出しやジュースも無料だった。米軍は圧倒的に太っ腹である。


つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(10)アフガニスタン

2012年03月30日

バグラム航空基地 Part1

皆さま、お待たせしました。3月20日に始まったアフガン体験記の第二回目です。
第一回はプロローグでしたので、いきなり激しい戦闘シーンを描写しましたが、今回から順を追って書いていきたいと思います。
皆さまに、現場の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。どうぞご覧ください。


「バグラム航空基地」

2010年1月、フランス外人部隊第2外人パラシュート連隊(2REP)の約500名がアフガニスタンに派遣された。
その1人として私は、1月14日、カザ輸送機でコルシカ島からパリへ飛んだ。その後、仏軍旅客機エアバスA320に搭乗し、パリ・シャルルドゴール空港を飛び立った。
(コルシカ島の空港でカザ輸送機に乗り込むところ)

アブダビを経由した後、我々を乗せたA320はアフガニスタン領空に入り、高度を下げ始めると、「フェルメ・レ・ウブロ、シルヴ・プレ(窓のシャッターを下げてください)」とアナウンスが流れた。航空基地を上空から見られると具合悪いのだろうか? 私を含め、窓側に座る者がいっせいにシャッターを下ろした。しかし私は時々、少しだけ開けて外を見た。

眼下には、雪に覆われた山々が連なっており、飛行機の高度がさらに下がると、雪のない乾燥した土色の大地が見えてきた。目を凝らすと、土壁でできた家々も小さく見えた。
「シャッターを上げないように」とアナウンスが流れた。バレた!素直に下げた。
やがて、A320はバグラム航空基地に着陸。夕陽が沈んだばかりで、あたりは薄暗かった。


このバグラム航空基地には、戦争開始直後の2001年11月のある深夜、英海兵隊特殊部隊SBSが潜入した。SBSは基地の安全を確認し、C-130輸送機でやって来る米陸軍特殊部隊デルタフォースを誘導した。やがて、バグラムは国際部隊の一大拠点となるに至った。そんな歴史的な場所に来られて、一兵士として誇らしく思った。
 
飛行機からエプロンに降りる。アフガンの冬は極寒と聞いていたが、周囲に雪は見られず、冷気が鼻の粘膜を刺激するほどには寒くなかった。臭いもなく、空気は新鮮だった。
我々は民間仕様の古いバス2台に分乗した。運転手は灰色基調のタイガー迷彩服を着ているので、米空軍兵だとわかる。

バグラム基地内には多くの軍用機が駐機していた。UH-60ブラックホーク、CH-47チヌーク、F-15Eストライクイーグル、C-130ハーキュリーズ、Mi-18等…。戦争映画の冒頭のような光景を目の当たりにして、大規模な戦争に来たことを実感した。
 
しっかりと舗装されたエプロンを出て、仏軍トラック「GBC(ジェーベーセー)」に乗り換えると、土埃が舞い上がり始めた。開戦から8年以上経つのに、道路は舗装されておらず、所々、凸凹があり、GBCがガタンガタンと大きく揺れた。

10分ほど揺られると、兵舎に到着。兵舎は金属の骨組みと頑丈な防水シートでできたかまぼこ型の巨大なテントのような建物で、中には二段式ベッドが所狭しと並んでいた。300人くらい収容できそうだ。

建物内の片側半分のベッドは米陸軍部隊が使っており、ACU迷彩ズボンにクリーム色のTシャツ姿や、グレーのフリースジャケット姿の米兵たちが談笑したり、イヤホンを耳にして、寝転んだりしていた。周りにはACU迷彩の個人装備やM4カービンなどが置かれている。出入り口のそばには大きな冷蔵庫があり、中のミネラルウォーターのボトルを自由にもらうことができた。我々はここで二泊する。
 
まず初めにフランス・コルシカ島の駐屯地から空輸されてきた貨物から、自分たちの銃を取り出す。アフガン到着から出国まで、銃は各人が管理する。バグラムでは、食堂に行くときにも銃を携行した。シャワーを浴びたり、筋トレをする場合は、兵舎に残ってる同僚に頼んで、管理してもらった。

「トゥルース・アンディヴィジュエル・ドゥ・コンバタン(戦闘員用個人ポーチ)」という、個人用医療ポーチも、全員に一個ずつ、支給された。我々は「トゥルース・ノワール(黒ポーチ)」とか「トゥルース・アンディヴィジュエル(個人ポーチ)」などと呼んでいた。

縦15㎝、横10㎝、幅6㎝くらいの黒いポーチで、中には、止血帯、圧迫包帯、点滴セット、モルヒネ注射器、医療用テープ、消毒液、バンドエイド、そして、7.5cm×7.5cmサイズのガーゼ5枚入りの袋が入っている。アフガニスタンにおけるフランス兵の死傷事例を教訓に構成された内容物だ。この小さな装備が我々の命を救うかもしれない。


つづく
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仏軍個人用医療ポーチに含まれる圧迫包帯と同じモデル




  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年03月20日

プロローグ

アフガニスタン タガブ谷の村 
2010年4月8日 現地時間14時頃


“バババババン !!”
AK小銃の掃射が聞こえた。それに呼応して、友軍のFAMAS小銃とMINIMI軽機関銃の単射音や連射音が加わった。交戦だ。

銃声が鳴り響いているのは村の西側で、そこは第4小隊が受け持っている。村の東側を担当している我々第1小隊から直線距離で100mも離れていないが、アフガニスタン特有の家屋や、路地沿いに構築された高さ2m程の土塀で、銃撃戦現場は視認できない。敵どころか味方の姿も見えない。

この日、私は第1小隊の第3分隊に衛生兵として派遣され、行動を共にしていた。我々は高さ1.5m程の土塀越しに、前方(我々の北側)に広がる空き地や、銃声のする左前方向にある土塀や家屋を見張っていた。

弾丸が近くを飛ぶと、“ヒュン”とか“ピュン”という、空気を切り裂く音がするが、そんな音はしない。どうやら我々の方には弾丸は撃ち込まれていないらしい。

西側では銃撃が全然止まずに続いている。銃声のする方向(我々の左側)50mくらいの所にある土塀の陰にしゃがんでいた我々の同盟であるアフガン兵たちが、激しい銃声の中、我々の方向に向かって、いっせいに走り出した。

M16A2小銃やPKM機関銃を持つアフガン兵たちが我々の方へ走ってくる。PKMのベルト式弾薬や装備の金具が“カチャンカチャン”と音を立てる。彼らは空き地を駆け抜けると、我々の正面を横切った。私はFAMASを上に向けて、銃口がアフガン兵に向かないよう努めた。

1人、また1人と、次々にアフガン兵が遮蔽物のない空き地から土塀の裏に滑り込んできた。中には、ロケットを1発撃ち込んでから悠然と避難してきたRPG射手もいた。

アフガン兵約15名全員が土塀に隠れる頃には銃声はやみ、アフガン軍司令官が、地面に置いた無線機から伸びた受話器を横顔に押し付け、交信していた。落ち着いた口調だが、ダリ語なので何を言っているのか全然わからない。

我々の分隊長であるアルゼンチン出身のデルトロ軍曹のヘッドセットにも、腰に付けた小型無線機ER328を通して、何か連絡が入ったようだ。デルトロ軍曹がいつものドスの効いた声で言った。

「第4小隊で負傷者が出た。衛生班の増援が要請されてる。ノダ、出番だ。行くぞ。」

無線を聞き、2つの小隊の位置関係を把握している軍曹は6名の戦闘員と私を率いて駆け出した。
どんな負傷だろうか?腕か脚を撃たれたのだろうか?第4小隊には軍医1名と衛生兵1名が派遣され、一緒に行動している。すでに何か処置を始めているだろう。しかし、その2人では人手が足りないなんて、重傷に違いない。

そう考えながら、家屋の塀に沿って走った後、深緑の若い麦畑をガサガサと抜け、幅2m程の路地に真横から入った。入ると左方向約20m先で、フランス人軍医プルキエ少佐とアルジェリア人衛生兵ミッサニ伍長がひざまずいて両手を忙しく動かしていた。

2人の間には、1人の白人兵士が頭をこっちに向けた状態で、仰向けに横たわっていた。すでにヘルメットもアーマーも脱がされ、仏軍森林迷彩服だけを着ていた。どんな傷なんだろう?近づかないと見えない。誰なのかすら、ここからはわからない。

私は分隊から離脱し、軍医らのところへ急いだ。着ているアーマーや医療用バックパックの重さは気にならなかった。負傷者の苦しみに比べれば大したことない。彼を助けなければ・・・。
「少佐殿、今行きます!!」
私に気付いたプルキエ少佐が叫び返した。
「気管切開キットをくれ!」



プロローグ 終



  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(0)アフガニスタン

2012年03月10日

はじめに

皆さま、はじめまして。

私は、元フランス外人部隊第2外人パラシュート連隊の野田力(りき)と申します。除隊時の階級は上級伍長(Caporal-chef)。2010年1月から7月まで、同連隊第3中隊衛生班の一員として、アフガニスタンに派遣されていました。

このアフガンでの任務は、これまでの私の人生で、最も充実した期間であると同時に、現代戦の過酷な現実を知る貴重な体験となりました。


以前から、アフガンでの出来事を自分自身で整理したいと思っていたところ、この度、友清仁さんにお誘い頂き、ブログを開設いたしました。(友清さんはミリタリーブログでアフガニスタンにおける特殊部隊の活動についてのブログを運営されています。)


はじめに皆さんにお約束したいのですが、話を面白くするために脚色したり、嘘は書きません。私の中隊がアフガンでどう戦ったのか、正直に書こうと思います。
そして、戦闘だけでなく、衛生兵の活動や、民事支援活動、現地民との交流などについても紹介するつもりです。


去る1月20日、アフガンに派遣されていたフランス兵4名(うち一人は外人部隊)が一人のアフガン国軍兵により射殺される悲惨な事件がありました。殺された兵士にしてみれば、戦闘で死ぬならまだしも、同盟軍の兵士に殺されたなんて、あまりに無念で死にきれません。

いまもアフガンの戦場で戦うフランス兵や英米独等の同盟国兵士に思いを馳せながら、連載をスタートしたいと思いますが、その前に私の略歴を簡単に紹介します。


1979年9月 関西生まれ。

1999年10月 阪神大震災における自衛隊の活躍を描いた書籍を読み、陸上自衛官を志す。

2004年10月 15回に及ぶ自衛隊入隊試験不合格(たぶん基礎学力の不足)。大きな屈辱を感じ、自分が立派な兵士になれることを証明するため渡仏。外人部隊への入隊を果たす。

2005年3月 基本訓練ののち、希望していた第2外人パラシュート連隊に配属され、コルシカ島に駐屯。

2005年4月 パラシュート課程修了。

2005年5月 第3中隊(舟艇中隊)第3小隊配属。歩兵訓練修了。ミニミ軽機関銃射手を担当。

2005年10月 対戦車ミサイルERYX(エリックス)課程修了。同ミサイル射手を担当。

2005年12月 水路潜入課程レベル1修了。

2006年2月~6月 アフリカ・コートジボワールに派遣され、治安維持作戦に従事。

2006年12月 衛生兵課程修了。小隊の衛生兵となる。

2007年3月 水路潜入課程レベル2修了。

2007年4月 装甲車VAB(ヴァブ)免許取得。

2007年6月~10月 アフリカ・ジブチに派遣され、砂漠訓練等を受ける。

2008年2月 伍長(Caporal)昇進。

2008年9月~2009年1月 アフリカ・ガボンに派遣され、ジャングル訓練等を受ける。

2009年7月14日(フランス革命記念日) パリのシャンゼリゼ大通りの軍事パレードに参加。

2009年12月 上級伍長昇進。

2010年1月~7月 アフガニスタン派遣。ISAF(国際治安支援部隊)活動。

2011年4月 除隊。

2011年6月 帰国。

人名・地名・日時などプライバシーの保護もあり、変える箇所もありますが、それ以外はありのままに書くつもりです。

アフガン体験記は毎月10日、20日、30日に更新します。

それでは、どうぞよろしくお願いします。

野田 力






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こちらの書籍の表紙を飾らせて頂きました。

  


Posted by 野田力  at 01:32Comments(28)自己紹介