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Posted by ミリタリーブログ  at 

2013年04月29日

徒歩パトロール

2010年4月8日、朝。
2日前に第2中隊の一等兵がヘルメットに被弾するという事態があったが、我々の士気は落ちてはいなかった。第3中隊のほとんどの兵士が、その一等兵を知らなかったからかもしれない。知り合いである同僚が被弾した場合、どうなるだろう。

我々は車列を成して、COP46からCOP51まで北上した。COP51の外側に駐車し、徒歩で村に入る準備にかかる。COP46を出る前にバックパックの中身などはすべて用意していたので、VABから降りて、ともに行動する予定の小隊のところに行けばいいだけだ。

私は運転席から降り、FAMASのスリングを首にかけた。VABの後部にまわると、観音開きの後部扉が開いており、オアロ上級軍曹とミッサニ伍長は出発準備を完了していた。

私のイーグル社製A3メディカルパックと、プルキエ少佐のキャメルバック社製BMFバックパックが、車両の奥から後部扉のそばまで引き出されていた。後部にいた2人がやってくれたのだ。少佐と私はバックパックを背負った。

「ノダ、行くぞ。少佐殿、ミッサニ、またあとで!」
オアロ上級軍曹が笑顔で言い、私は上級軍曹とともに第1小隊へと歩きだした。

今回の任務は、タガブ谷のある村に入り、敵がいないかパトロールをするという「テロリスト捜索」だ。しかし、我々フランス軍には住居に入って敵を捜す権限はなかった。

そこでアフガン国軍の出番だ。彼らにはその権限があるので、もし疑わしい住居があれば彼らが家宅捜索をする。我々はあくまでアフガン国軍とアフガン国家警察に軍事支援をするためにいるという建前だ。現地人のプライバシーに踏み込んだ活動はアフガン当局がやる。我々が他の国々の部隊と構成する国際部隊「ISAF」の「A」は「ASSISTANCE=支援」を意味する。

そういうわけで今回の任務は、アフガン国軍と我々第3中隊の合同作戦だ。参加するアフガン国軍の規模はわからないが、我々の近くで見かけたアフガン兵の人数を見るかぎり、一個小隊だ。

いっぽう第3中隊からは2個戦闘小隊と中隊長班、そして我々医療班が参加する。医療班は2人ずつのバディシステムに分けられ、それぞれの戦闘小隊に編入される。プルキエ少佐とミッサニの2人は第4小隊に、オアロ上級軍曹と私は第1小隊に配置される。

さらに、IED(即席爆発性装置)や地雷に対処する必要が生じた場合のために、工兵小隊が一個、我々のあとにつづく。第17工兵パラシュート連隊の小隊で、アフガン派遣前の演習をともに積んできた仲間だ。

なお、VABの運転手は通常では車内待機になるのだが、今回私は例外とされた。衛生要員の必要が認められたうえ、村の中の道は狭いので車両は入れない。村の端までなら来ることができるが、もしその必要が生じた場合、車両整備班の運転手と車長が医療班のVABに乗りこんで来てくれることになっている。

上級軍曹と私は第1小隊の小隊長でリトアニア人のボーボニス曹長に合流した。彼は筋肉の塊で、身体が太短く見える。FOBトラの鉄棒で、彼がアーマーを着たまま懸垂を軽くこなすのを見たことがある。腰を痛めてしまいそうなので、私にはできない。

「きみら2人は我々指揮班に同行してくれ。」
ボーボニス曹長が言った。指揮班とは小隊長の班だ。我々はその班について行き、どこかで負傷者が発生したら、急行すればいい。

指揮班には小隊長、通信兵、衛生兵、副小隊長、2名の狙撃兵がいるが、副小隊長と狙撃兵たちは、同じ第1小隊の4つある戦闘班のどれかと行動する。そのため、この日の指揮班は小隊長、通信兵、衛生兵、オアロ上級軍曹、私の5名だった。

第1小隊の衛生兵はハンガリー人のバラシュという一等兵だ。衛生兵としては新人だが、ハンガリーでは陸軍士官学校にいたエリートなので、なにも心配はいらない。

「ブラック1、出発せよ。」
無線から中隊長の命令が聞こえた。

「ブラック1、了解。」
ボーボニス曹長が答える。

私はFAMASの装弾レバーを少し引き、排莢口のボルトが少し後退した隙間に弾薬の一部が見えることを確認し、レバーを放した。弾は入っている。いつでも撃てる。

第1小隊はCOP51と村のあいだの荒野を縦一列で歩き始めた。しかし、村へは直行せず、村の端から200~300mくらいのところで、村に面して横一列隊形になったところで止まり、銃を構えた。



我々を追い越して、第4小隊が縦列を成して村へと向かっていくのが見えた。ひとりひとり5mくらいの間隔をあけている。班と班の間はもっとあいている。プルキエ少佐とミッサニ伍長の姿も見える。

計画では、まず第4小隊が村へ入り、その後、第1小隊が入ることになっている。第4小隊が村の西側半分を、第1小隊が東側半分をパトロールしながら北上する。中隊長班は2つの小隊のあいだを行き来し、状況に合わせて指揮をする。そして、第3中隊のバックに工兵小隊とアフガン国軍部隊がつく。



つづく

アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。  


Posted by 野田力  at 08:42Comments(0)アフガニスタン

2013年04月22日

狙撃Part2

翌日もCOPから出ていったが、まる一日何も起きなかった。夕方前、まだ明るいうちに帰投を始めたのだが、COP46には戻らなかった。土埃を立てながら荒野を走行し、COP46よりも5kmほど北に建設されたCOP51に向かった。

COP51は、村の端から数百メートル離れたところに孤立した、100m弱の丘の麓にあった。COP46よりも村に近いが、村とは逆の側の麓にあるので、丘が頼もしい遮蔽物となっているうえ、見通しのよい見張り台の役目を果たしている。

COP51もバスチョン・ウォールに囲まれており、中にはテントやコンテナが並び、アフガン国軍が駐屯している。丘の上までT55 戦車が登っており、村の方向を向いている。

我々の車列はCOP51に入らず、COP横に駐車したものの、しばらくすると、COP51から村の方向とは逆の山地の方向へと進み、荒野から山地に入った。大きなタガブ谷から山地のほうに細く短く伸びる小さな谷を進むと、山地の中に盆地のような地形が広がった。

我々はVABを盆地に駐車した。盆地にはすでに第2中隊のVABが何台かいた。その中に、第2中隊医療班のVABもあった。我々がVABを駐車した位置から近い。ヘルメットを撃たれた兵士について聞くことができるだろう。

我々医療班4人は第2中隊の医療班のもとへ、あいさつに行った。彼らから10mくらい離れた地面には戦闘ズボンにTシャツ姿のリトアニア人一等兵が座っていて、ぼんやり遠くを眺めている。額の右上部分に大きな絆創膏を貼っているので、ヘルメットを撃たれたのはこいつだと確信した。

第2中隊の看護官がそのヘルメットを見せてくれた。前面のやや右下寄りにポツンと弾痕があった。弾痕や弾痕の周りは緑の塗装がはがれ、白くなっている。あと数センチ下に着弾していたら死んでいただろう。

ヘルメットの被弾した部分の内壁は少し隆起し、破れた表面からスペクトラ素材の白色が見える。その周りに少し血がついていた。3針縫う傷を負ったという。その程度で済んで良かったと言うべきだろうか。

第2中隊の医療班へのあいさつが済むと、私はミッサニ伍長とその一等兵のもとへ歩み寄った。プルキエ少佐やオアロ上級軍曹は、第2中隊の軍医や看護官と話し続けている。

私とミッサニは一等兵のそばにしゃがみ、あいさつした。
「どんな具合だ?」
私が尋ねると彼は答えた。
「まだ痛いです。吐き気はないですが、めまいがします。」

「撃たれたときの状況を話してくれないか?もし嫌だったら別にいいんだけど・・・。」
撃たれた体験を話すのは本人にとって苦しいことかもしれないと思ったが、私は尋ねた。

彼が言うには、荒野の小高くなった場所から周辺を見張っていたところ、下のほうに多くのヤギとヤギ使いの男性が現れた。その男性を見張っていると、突然男性は踵を返し、もと来た方向へ走り出した。

「どうしたんだ?」と彼は思ったが、再び視線を前方に戻した。そのとき、ガツンと頭に強い衝撃を感じ、地面に倒れこみ、周りの同僚たちが「大丈夫か ?!大丈夫か?!」と駆け寄ってきたという。

ヘルメットのアゴひもは締めていたが、アゴひもを固定するマジックテープが一瞬ではがれ、ヘルメットは飛んでいった。アゴひもの固定がバックル式だったら首を痛めていたかもしれない。

発砲は1発だけだったというので、狙撃らしかった。この一等兵から話を聞いたときは、どこから撃たれたのかわからなかったが、後で「600m離れた場所から」だと聞いた。けっきょく敵は見つけられなかった。

興味深いのはヤギ使いの行動だ。狙撃直前に踵を返し、走り去っている。この男性が狙撃したのではないだろうが、走り去るタイミングからして、彼には敵の狙撃手の存在がわかったのだろう。目がよかったのか、我々にはわからない合図があったのか?

とにかく、幸いなことに一等兵は、内側に割れ込んだヘルメット内壁で額を少し切っただけで済んだ。ヘルメット着用の大切さを痛感した私とミッサニは、話してくれたことに感謝し、VABに戻った。

2時間ほどその盆地に留まったあと、我々第3中隊は車列を成して、COP46へと帰った。そして、夜の医療班のブリーフィングで、「明日、徒歩で村のなかへ入ることが決まった」とプルキエ少佐が言った。



←ヘルメットから摘出された弾丸。撃たれたリトアニア人が後に首かざりにした。

つづく
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Posted by 野田力  at 07:00Comments(10)アフガニスタン

2013年04月15日

狙撃

はじめに

実は4月1日から13日まで、所用で英仏へ行っていました。なかなか日本語が打てるパソコンにありつけず、いただいたコメントへの返信が遅れてしましました。コメントをくださった皆さま、週末に返信を書きましたので、ご覧ください。

それでは、連載のつづきにまいりましょう。

――――――――――

アフガン兵が手首に被弾し、米陸軍のブラックホークに搬出された翌日、我々の車列はCOP46を出た。第1小隊4台、第4小隊4台、指揮小隊5台だ。

第1、第4小隊は戦闘班で構成されているが、指揮小隊は中隊長班、副中隊長班、ADU(中隊の最先任下士官)班、車両整備班、そして私の所属する医療班で構成されている。

第1、第4小隊のVABが列を成してCOP46を後にした。中隊長班や副中隊長班のVABはその列のどこかに混ざる。最後にADU班、医療班、車両整備班のVABがつづく。これら3つの班はいつも一組となって動く。

タガブ谷東側にひろがる荒野に、第3中隊の車両群が散らばった。しかし、どんな配置になっているのかは私にはわからない。我々の位置は谷の西側にある村の端から1kmくらい離れている。一番接近しているVABでも500~600mくらいではないかと思う。

第1小隊所属の狙撃班やミラン(対戦車ミサイル)班は小高くなった地形のところに陣取っているだろう。我々の荒野への展開に対する敵の反応を観測するのだ。

エンジンを切り、ヘルメットをハンドルの上に置いた。退屈な時間が始まった。何時間たっても、敵の反応はない。戦場の時間の多くはこのように暇だ。日光の暑さがVABの車体を通して体に伝わる。

脱水症状にならないように、運転席のわきに置いてある500mlのペットボトルからミネラルウォーターを飲んだ。そして再び、遠くに見える村に目をやる。

目では村を見ているが、心はもの思いにふけっていた。「1年後除隊したら何をしよう」とか、「日本の親友たちは今どうしているのだろう」とか、「アフガン派遣後の長期休暇はどこに行くか」など考えていた。

すると、中隊長から無線が入った。
「全コールサイン、レッドのほうで1人、ヘルメットを撃たれた。緊急搬送の必要はない。」

「レッド」とは第2中隊のコールサインだ。つまり、第2中隊の誰かがヘルメットに被弾したのだ。被弾すること自体は不運だが、ヘルメットに救われるのは好運と言えるだろう。

しかし、7.62mm弾をヘルメットに被弾すると、衝撃で首の骨を折ってしまうと聞いたことがある。無線で「搬出の必要はない」と言っていたので、折れてはいないのだろう。

ヘルメットに撃ち込まれた弾丸は遠距離から放たれたものだったかもしれないし、アゴひもを外していたから、ヘルメットだけが飛んでいき助かったのかもしれない。さまざまな条件で負傷の程度も変わる。

第2中隊がどこで何をしているのかについては、私は全然知るよしもなかった。ヘルメットに被弾したのは、激しい戦闘のときなのか、狙撃を受けたからなのか、それすらわからない。まあ、私の立場では、知る必要性がないから情報が届かないのだ。どのみち後で、現場にいた奴らから聞く。

←どこから狙撃されるかわからない。

我々第3中隊のほうでは何もなかった。朝から夕方まで荒野に停まったVABのなかで、丸一日太陽に蒸されたあと、暗くなると、車列を成してCOP46に戻った。

COP46に常駐している衛生兵が我々のVABのところにやってきた。外人部隊ではないフランス正規軍の、第1機甲パラシュート連隊に所属するフォエという名の黒人兵だ。40歳過ぎで中年太りをしている。

フォエは1990年に陸軍に入隊した古参兵で、初陣はなんと湾岸戦争だった。その後、アフリカ諸国や旧ユーゴスラビアの紛争など、いろいろな地域へ派遣され、アフガニスタンは2回目の派遣だという。

フォエとは、アフガニスタンに派遣される4ヶ月前の演習で一緒に行動し、知り合った。私より10歳以上年上だが、階級は私と同じ上級伍長なので仲良く話すことができた。

そんなフォエが、VABの後ろにいる我々のもとへやってきて、「村から敵がロケットを撃ってくるとしたら18時から22時のあいだだ」と言った。毎晩ではないが、毎週1回は必ず飛んでくるという。しかし、1発もCOP敷地内に落ちたことはない。

←これがよく飛んでくるロケット、中国製の「シコム」。のちに何度かCOP46の中心部に着弾し、車両やトイレを破損し、1名の死者と数名の負傷者を出すこととなる。

フォエは我々とともに缶ジュースを飲み、少し雑談をした後、自分の寝泊りする天幕へ戻って行った。天幕の半分が診療所で、残り半分が生活スペースとなっている。折り畳みベッドに寝る生活だ。

←COP46の診療所
←診察室/治療室。垂れ幕の向こう側が生活スペース

つづく
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Posted by 野田力  at 07:00Comments(6)アフガニスタン

2013年04月08日

アフガン国軍兵士

 再び、タガブ谷へと新たな任務に出た。我々第3中隊の指揮小隊、第1小隊、第3小隊が参加する。他にも第2中隊やアフガン国軍も参加する大掛かりな任務だ。

 夕方、VABでCOP46に行った。バスチョンウォールに囲まれた敷地内には天幕が立ち並び、多くの兵士が駐屯していることを実感させる。我々はVABを駐車し、そこで一夜を明かした。基地は駐屯部隊により警備されているので、我々が歩哨に立つ必要はなく、途中で起きなくていい。

 春が来たとはいえ、夜は冷える。真昼は灼熱なのに、夜はダウンジャケットを着て眠る。私はVABの屋根の上で眠るのが好きだった。スリーピングマットを敷いて、アーマーを枕にし、ポンチョライナー(化学繊維の毛布のようなもの)にくるまって眠る。

 プルキエ少佐とミッサニ伍長はVABの真横に担架を置いて、それをベッドのようにして寝る。少佐がVABの右側、ミッサニが左側に寝る。オアロ上級軍曹はVAB後部内に設置された担架に寝る。医療用VABなので担架がいくつもあり、ほんの少し、他の班より快眠できたかもしれない。

 翌日は出動せず、COP46にずっといた。第2中隊やアフガン国軍、第1機甲パラシュート連隊の1個小隊が何らかの任務を遂行しているようだった。昼ごろには遠くから銃撃音や爆発音が聞こえたりした。

 どこで、どの部隊が、どんな状況になっているのか、よくわからなかったが、しばらくするとCOP46上空にアメリカ陸軍のブラックホークヘリが2機現れた。そのうち1機のサイドドアには赤十字マークがペイントされている。

 どうやら負傷者が出たらしい。ケガしたのは知り合いか?

 いつのまにか負傷者は車両でCOP46 に搬入され、米軍ブラックホークが病院へ搬送するために飛んできたのだ。赤十字のついたブラックホークだけが、COP46のすぐ外にある広場に着陸し、もう1機は上空を旋回し、周囲を警戒した。



 私はVABの屋根に立ち、様子をうかがった。ここからなら広場が見える。キャノンのデジカメのスイッチも入れた。周りを見渡すと、ほんの5、6名しか見物していない。100人近くいるのに、それだけだ。将校や下士官は作戦会議などで忙しく、下っ端の多くは昼寝で忙しい。

 屋根に立つことで気づいたのだが、広場の隅に、担架に乗せられた負傷者と搬送するフランス兵4名が見えた。他にも3名のフランス兵が見える。赤十字付きのブラックホークから1人の米軍クルーが降りてきて、フランス兵たちのもとへ歩いて行った。

 少し話をするとすぐに、米兵が仏兵たちを先導する形で、全員ブラックホークに向け歩きだした。私はデジカメのシャッターを切った。戦場救護装備の企業が宣伝写真に使いそうな光景だった。



 担架を運ぶ4名のフランス兵の周りを3名のフランス兵がうろちょろしながら写真を撮ったり、映像を撮ったりしている。写真映像の部隊から派遣されている要員だ。戦闘職ではないが、彼らも最前線まで行くことがある。いわば軍所属の戦場カメラマンだ。

 やがて負傷者はブラックホークに載せられ、治療は米陸軍にゆだねられた。フランス兵たちが広場の隅へ小走りしていくと、ブラックホークは離陸し、2機そろって飛んでいった。

 後で、負傷者の治療に携わった衛生兵に聞いたところ、負傷したのはアフガン兵だった。銃撃戦で手首を撃たれたが、弾丸は骨も動脈も損傷しておらず、AK47の7.62mm弾が貫通したらしいが、射入口も射出口も小さかった。

 以前、書籍で「7.62mm弾が当たると肉が大きく吹き飛ぶ」というようなことを読んだことがあるが、そのアフガン兵の銃創は小さな穴が開いただけで、原型をしっかりと留めていた。本に書いてあることがいつも正しいとは限らないと実感した。

 ただし、内部はどうなっていたのかわからない。神経が損傷されていたかもしれない。しかし、少なくともそのアフガン兵は生き残った。「メダルをもらうには最適な負傷の仕方だ」と同僚の衛生兵が言った。私はメダルは一切いらないので、軽傷すらなく無事に生き残りたいと思う。

 ブラックホークが去ると、再び暇になった。ちょうど、アフガン国軍の車両(ハンヴィーやM113)がCOPにやってきて、我々のVABの近くに駐車したので、私は携帯糧食のビスケットやキャンディなどをかき集めて、ミッサニとともにアフガン兵たちのもとへと遊びに行った。

 以前、一緒に食事をしたアフガン兵ラゼックはおらず、英語を話す者が1人もいなかった。しかも、ミッサニの母国語であるアラビア語も通じなかった。そのため、あまり話ができなかったが、身振り手振りで交流した結果、ビスケットなどは受け入れてもらうことができ、そのお礼にビニール袋に入ったナン(平たいパン)をもらった。



 彼らはカッコをつけるのが好きで、ロケットが先端に装着されたRPG-7ロケットランチャーや、ベルト式弾薬の垂れ下がったPKM機関銃をどんどん見せてきた。私がデジカメをジャケットの胸ポケットから取り出すと、RPGやPKMをかまえてポーズをとった。撮影してやった。





 彼らはとても友好的で、言葉も通じないながらも異文化交流が成立していることが私は嬉しかった。一緒に戦う同盟軍どうしなんだから、仲良くしたほうが得だ。こちらが敬意を持てば、向こうも敬意を持って接してくれる。

 それに、私が日本人だということは理解してくれた。それもそのはずで、英語で自分のことを「ジャパニーズ」と伝えたのだが、彼らの言語で「日本人」は「ジャパニー」という。以降、私は彼らから「ジャパニー」と呼ばれるようになった。

 この日、COP46でアフガン兵と和気あいあいと過ごしていたが、やがて我々の中隊に試練が訪れ、戦場というものを痛感することになる。


つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2013年04月01日

アフガンの春

 タガブ谷の東に前哨砦「COP46」の原型ができたのが2010年3月初めだった。それから一か月が経ち、COP46は拡張工事で広くなり、FOBトラから一部の部隊が派遣され、100人を超えるフランス兵が駐屯するようになった。

 COP46に駐屯する部隊のメインは第1機甲パラシュート連隊の部隊で、AMX10RCという装輪戦車も配備された。他にも、第35砲兵パラシュート連隊の迫撃砲も配備され、我々第2外人パラシュート連隊からもいくつかの分隊が派遣された。

←COP46

 私はFOBトラに駐屯したままだ。COPの食事は美味しくないので、それでよかった。それにFOBトラにいれば、米軍特殊部隊に会える。

 私が非常に驚いたのは、COP46が建設されて1ヶ月しか経っていないのに、私の知らないうちに、COP46よりも何キロか北にCOP51が建設されていたことだ。ここはアフガン国軍の駐屯地だった。仏軍の部隊は常駐していないと思う。

 この1ヶ月のあいだに、我々はいくつかの任務に出たが、あまり大きな出来事はなかった。あるとき、夜中に山を登り、朝、敵の訓練キャンプではないかという疑惑のある村を監視したが、怪しい動きはなかった。




 車両でタガブ谷の村に再度近づいたりもした。敵の大きな抵抗はなく、中隊長の班と第3小隊が徒歩で村に入っていった。軍医プルキエ少佐と衛生兵ミッサニ伍長も同行したが、私と看護官オアロ上級軍曹は装甲車VABで留守番だった。



 私も村のなかが見たかったが、VABの出動が必要になったとき、運転手がいなければ本末転倒なので、我慢するしかなかった。そもそも命令なのだから、どうしようもない。私がここにいる理由は観光ではなく仕事なのだ。

 村のなかを徒歩で行けば、敵が攻撃してくる可能性は高いのではないかと思ったが、なんの動きもなく、全員無事にVABへ帰ってきた。1ヶ月前までは、侵入すると必ず銃撃を受ける地域だったが・・・。
 ミッサニが言うには、「村のなかは緑が豊かで美しかった。住民もたくさんいて、我々を見てくるが、笑顔は見せなかった。我々はきっと敵視されている」という。

 4月に入り、荒野のそこらじゅうで雑草が芽を出し、茶色と砂色に支配されていた荒野に緑色が加わった。全体として乾燥した大地には変わりなく、雑草が茂っているのは一部で、砂色や茶色の部分のほうが多い。



 しかしタガブ谷の川沿い一帯は草木が生い茂り、畑一面が緑色になっている。アフガニスタンに派遣されている軍隊の多くが砂漠迷彩を着用しているが、ここでは森林迷彩のほうが効果的だ。フランス軍がアフガニスタンで森林迷彩を採用しているわけが理解できた。

 フランス軍は迷彩パターンの更新を計画していたが、アフガニスタンで現用迷彩パターンが意外と効果的だったので、更新しないことにしたという噂を聞いたことがある。その噂に納得がいくくらい、現用迷彩はいい色合いだった。



 春の到来は兵士の健康面にも変化をもたらした。暖かくなり、下痢の症状を訴える兵士が激増した。気温の上昇で細菌が活発になったのだろう。私は手洗いに注意していたおかげか、下痢にならなかった。

 さらに暖かくなれば、マラリア対策の錠剤を毎日一回飲むことが義務付けられる。ほんとうに意外なのだが、暑い夏が来ればアフガニスタンにもマラリアが発生する。ただし、それは一部の地域であり、我々のいる地域もその可能性があるだけで、必ずしもマラリア原虫を運ぶ蚊が発生するとは限らない。ただ念のために錠剤を飲む。


つづく


  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(8)アフガニスタン