2012年10月29日

FOB診療所

FOBの診療所は、プレハブ小屋5~6棟ほどをつなげた造りだ。外観は白く、赤十字マークが描かれている。基地内なので赤十字マークを隠す必要はない。これがないと、よそから一時的にFOBトラに来ている米兵やニュージーランド兵などの同盟兵が、診療所を見つけられない。

診療所の中には、受付室、軍医長のオフィス、プルキエ少佐のオフィス、診察室、当直室、入院患者用の病室、そして、休憩室があった。

受付室には、事務デスクが2つあり、電話やパソコンやプリンターもある。電話は国際通話も可能だ。さらに、壁に寄りかかる棚には、FOBトラにいるフランス兵全員の簡易カルテがあり、健康を害した者はまず受付に来る。そこで衛生隊員がカルテを取り出し、症状を尋ねるなどして、診察室へと通す。そして軍医が診察をする。

軍医たちのオフィスには、いろいろと秘密にしなければならない文書がある。作戦用の地図などもあるため、毎日17時頃に診療所を訪れる現地雇用の掃除夫3人は、入室を禁じられている。オフィスの掃除は当直の衛生兵の仕事で、紙のゴミは確実に焼却する。

診察室は診療所で最も大きな部屋で、12畳くらいあり、中央に診察台が2つある。壁には医療品が収納された棚が並び、部屋の隅に最先任看護官の事務デスクがある。診察室は彼のオフィスのようなものだ。



当直室には、当直人数分の2つのベッドと、アーマーやFAMASなどの装備を置く棚などがある。患者監視モニタもここで充電する。

病室には2段ベッドが2つと1段ベッドが1つあり、入院患者を5名まで収容できる。窓もなく、ベッドと小さなテーブルがあるだけの狭い部屋で、こんなひどい環境に入院したら、治るものも治らないのではないかと思える。

現代看護の祖であるナイチンゲールは、クリミア戦争で負傷兵の置かれた劣悪な環境を見たりして、治療そのもの以前に、住環境を整えることが患者の回復に重要だと説いた。そんな彼女がこの病室を見たら激怒するだろう。彼女たちが苦労して築き上げた「環境整備」の概念が蹂躪されているのだから。

休憩室は豪華だ。テレビがあればインターネットもあり、冷蔵庫があれば湯沸かし器もあり、紅茶・コーヒーがあればクッキーもある。ただし、勤務時間中は長居できない。あくまで休憩のための部屋だ。

そんな診療所で日々勤務に就くのは、CCL(Compagnie de Commandement et de Logistique=指揮とロジスティックの中隊)という中隊にある医療小隊の軍医・看護官・衛生兵たちで、我々第3中隊指揮小隊の衛生兵である私、ミッサニ伍長、ぺリシエ伍長も、任務でFOBの外に出ていなければ勤務に就く。当直として診療所に泊まることもある。

戦場での診察は、戦傷だけではない。下痢や発熱や捻挫など、日常生活で発生する傷病もあり、むしろ、診察件数はこっちのほうが遥かに多い。2006年10月に衛生兵教育課程で見せられたイギリス軍の女医の講話映像では、女医が上手なフランス語で「私のイラク戦争派遣期間中、最も多く診た症状は下痢だった」と述べていた。
FOBの診療所がヒマになることはない。

←仏軍とは関係ないが、現地の救急車が時々来ていた。

診療所前に駐車してある我々のVABに偽装ネットを施し、ラッションや水を積みこみ、死体袋を整理し終わったあと、私は運転席に座り、フロントガラス内側上部に走る電気系統のコードに、針金を使って、キャノンのデジカメIXYを外側に向けて固定した。

車載カメラの完成だ。原始的な構造だが、VABを操縦しながら、ハンドルから手を放さずに、安全第一を尊重しながら、前方の風景を動画撮影できる。しかも、針金の枠から横にズラすだけで、デジカメは取り外すことができ、一回一回針金を解く必要はない。われながら立派な発明だと思った。

にんまりしながら、車窓から診療所のほうを見ると、医療小隊の衛生兵で南アフリカ出身のブラーム上級伍長が、ACU迷彩を着用した米兵2人と、診療所前で談笑をしているのが目にとまった。米軍特殊部隊だ。話しかけるチャンスだ。

つづく

アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。  


Posted by 野田力  at 07:00Comments(4)アフガニスタン

2012年10月22日

FOBトラにて

はじめに
 先日、テレビをつけたら、「奇跡体験アンビリーバボー」で、1994年末におきたエールフランス機ハイジャック事件を紹介していました。
 フランス国家憲兵隊の特殊部隊「GIGN」が突入し解決を迎えた事件なのですが、昨年フランスで映画化され、日本でも渋谷の劇場で2週間だけ上映されました。
 タイトルが「フランス特殊部隊GIGN ~エールフランス8969便ハイジャック事件~」といい、DVD化されていると思いますので、興味のあるかたは是非ご覧になってください。
 私もパリの映画館で2回、渋谷で1回見ました。GIGN隊員の“決意”に何度も心を打たれました。とても尊敬し、憧れています。



――――――――――

アフガニスタンに到着してから5日が経った。昼夜の寒暖差や、乾燥した空気により、体に変化が出始めた。くちびる、鼻の粘膜、手の甲、内股がカサカサになった。痛くはないが、ひび割れになるのではないかと気になる。

アフガニスタンに行くのなら、ハンドクリームやリップクリームは必ず持参するべきだ。トイレで気づいたのだが、亀頭までもがカサカサになっていた。私の体が気候に順応するか、春が来て気温や湿度に変化が起きれば、肌は潤いを取り戻すだろう。

日差しも強敵だった。とにかく眩しい。2007年にアフリカのジブチという、世界一暑いと言われる国に派遣されたのだが、そこで体験した太陽はアフガンの太陽より熱かった。しかし、眩しさではアフガンの太陽が勝る。標高が高く、太陽に近いからかもしれない。

←2007年ジブチ共和国にて

ESS社の射撃用サングラスを買っておけばよかったと、後悔した。私のESSゴーグルは透明レンズだ。紫外線はカットするが、眩しさはどうにもならない。それに、基地内でゴーグルなど着けたくない。邪魔だ。結局、私にできることは、迷彩ハットをかぶり、目を細めるくらいだ。

そんな中、私は車両整備区域の倉庫から、いくつかのサイズの古い偽装ネットを10枚ほどもらい、ミッサニ伍長とともに、VABに偽装ネットを施す作業にとりかかった。ネットの多くは森林用の緑系の色だが、砂漠用のタン系の色のものが2~3枚あった。

色の系統が統一されていないが、カモフラージュを施して、周囲の環境に溶け込むわけではないので問題ない。VABの外側に設置した金網カゴにある4つの担架を隠すことが一番の目的だ。我々は、まず、担架が見えないように、カゴを覆うようにネットをかぶせ、切ったヒモやフック付きエラスティックコードで車体の突起物などと結んだ。

そして、他のVABの多くが施されているのと同じように、車体の前後左右に、可能な限り均等にネットを設置した。ネットの数が足りないので、車体全体をカバーできないが、他のVABも似た感じなので、我々のVABが医療用だとは敵も見破れないだろう。

ネット設置の後、我々は、ラッション(携帯糧食)を30箱ほどと、1.5リットルのペットボトルの水を100本ほど、VABの屋根の金網製の物置や車内に積みこんだ。多過ぎる気がしないでもないが、念のためだし、それでもまだスペースに余裕がある。

そのスペースには、我々乗員のバックパックが収納される予定だ。医療用バックパックは車内に置くが、着替えや雨具、野宿装備などの入ったバックパックは緊急性が高くないので、屋根の物置に置く。

実は、その物置には5つの死体袋がある。強化ビニールのような素材でできており、黒と緑の2種類がある。ジッパー開閉式だ。初めて死体袋を見た。試しに入ってみようと思ったが、やめておいた。こういうもので遊ぶべきではない。そもそも、救命用の車両にこんなものを積むなんて、精神衛生上、よくない。はたして我々は実戦で死体袋を使う状況に陥るのだろうか。そう思いつつ、私は死体袋をたたみ直し、物置に収納した。

←死体袋

第3中隊のVABのほとんどは、居住区の裏手に駐車されているが、我々医療班のVABは、FOBの診療所入口から15mほど離れたところに駐車されていた。診療所に近いほうが、医療品を積むのに便利だし、車載の患者監視モニタ(心拍数や血圧、呼吸などを表示する、小型テレビのような機材)を非番のときに降ろして、診療所で充電する必要もある。


つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年10月15日

アフガン兵たちとの交流Part2

ラゼックが聞いてきた。
「ノダ、君はハザラ人みたいな顔をしているが、本当にフランス兵なのか?」
ハザラ人とは、アフガニスタンに住む民族のひとつで、モンゴル人のような顔をした人が多いという。

「フランス軍に所属しているけど、日本人なんだ。フランス軍には外国人を受け入れる部隊があって、そこに所属している。」
そう私が答えると、ラゼックがさらに聞いた。

「私もそこに入隊できるか?」
「試験に受かればOKだが、まずはフランスに行く必要がある。アフガンから行くのにはビザが要る。発給してもらえるかどうかが問題だな。」

そんな会話をしながら、我々は料理をすべて食べ終えた。3人で1皿を食べたので、腹は満たされなかったが、アフガン兵とのあいだに絆が生まれたことが嬉しくて、胸いっぱいになった。ラゼックは、礼を述べる私に茶を飲むように言い、我々は調理場に入った。

今度は地面にしゃがまず、皆でイスに座った。私は青いプラスチックのイスに座り、ラゼックは金属の棒を溶接してこしらえた即席のイスに座った。炊事兵がカマドのほうからやってきて、お盆に載った透明なコップに入った黄色っぽいお茶を私とラゼックに配った。そして彼自身のコップを持ち、即席の金属イスに座った。

コップの中を見ると、底に砂糖が小山を成して沈殿していた。以前、軍医のプルキエ少佐が、「アフガン人は茶に大量の砂糖を入れるが、混ぜない」と言っていたことを思い出した。まったくそのとおりだ。
私は飲んだ。

「うまいよ。ありがとう。」味の感想は本音ではなかった。あきらかにフランス軍ラッション(携帯糧食)に入っているミントティーの味だ。COPでともに生活しているOMLTのフランス兵にもらったのだろう。重要なのは味ではなく、彼らからの優しさなので、「ありがとう」というのは本音だった。

炊事兵がラゼックにダリ語で何かを話したと思うと、ラゼックが通訳して私に言った。
「アフガニスタンは好きか、と聞いているよ。」
「ああ、好きだ。」

アフガニスタンに到着して日数がそんなに経っていないので、正直、好きか嫌いか判断できなかったが、彼らが気を悪くしないように、笑顔でそう答えた。そして、理由を添えないと説得力がないと考え、さらに言った。
「山が美しい。日本もアフガニスタンみたいな山国だ。」

すると、ラゼックが言った。
「Japan is Peace Country. Afghanistan is War Country(日本は平和な国。アフガニスタンは戦争の国)」

これを聞いたとき、胸が痛くなった。私はこの国へ、戦争するために来ている立場だが、彼らのことがかわいそうだと思った。そして言った。
「今は戦争中だけど、いつか発展していい国になるから、希望を捨てるな。日本だって、第2次世界大戦のあとは、英米に占領されてたけど、やがて発展したんだよ。アフガンだってそうなれるさ。」

彼らを元気づけるにはよい例えだったが、アフガンが本当に平和になるかどうか、私にはわからない。正直、そうは思えない。また彼らに嘘をついてしまい、良心が少し痛んだ。彼らの反応があまりなかったので、さらに私は言った。
「戦争で日本は本当にひどい状況だったんだよ。」

すると炊事兵が強い口調で言った。
「ヒロシマ!ナガサキ!」
「そう!原爆だ!」
こんな末端のアフガン兵が原爆のことを知っているとは驚いた。

そういえば、2006年2月から6月に派遣されていたアフリカ・コートジボワールで、熱帯雨林にある村の16歳の黒人少年と話をしたら、広島と長崎を知っていたし、広島については、原爆が投下された年月日だけでなく、爆発した時刻も知っていた。

日本が世界に平和メッセージを発信していることの証明だと思う。すばらしいことだ。しかし、日本人の側は、世界からのメッセージを受信しているだろうか。まだまだ世界は平和ではないことを意識している日本人は、いったいどれだけいるのだろう。

私はあまり歴史や国際情勢に詳しくないので、偉そうに言えないのだが、平和メッセージを発信するだけでなく、戦争のある国からのメッセージを受信することも大切だと感じた。

ミントティーが残り少なくなり、糖度がやたら濃くなったころ、中隊長と第3小隊の連中がVAB群のところに戻ってきたことが、聞こえてくる音や会話でわかった。
「そろそろ行かないと。」

私は立ち上がり、お茶を飲みほした。溶けきれていない砂糖が少し、舌にのり、ジャリッとした。私は最後に言った。
「いろいろありがとう。話ができて本当によかった。」
2人は立ち上がり、ラゼックが言った。
「僕らもだ。また来てくれ。」

私は調理場を出て、VABに戻った。15分後に出発だ、という命令が伝達でまわってきた。VABの後部内側の座席に、プルキエ少佐とオアロ上級軍曹が座り、携帯コンロで沸かした湯で入れたコーヒーを飲んでいた。フランス人は本当にコーヒーが好きだ。もし、ここがイギリス軍なら、ミルクを入れた紅茶だったに違いない。

そんなことを思いながら、私はアーマーを着用した。どこかに行っていたミッサニ伍長も戻ってきた。VABが1台、また1台と、エンジンをかけ始めた。コーヒーセットを片づけた少佐と上級軍曹は、ミッサニとともにアーマーを着て車内の持ち場についた。

「出発。」
無線から中隊長の声がして、我々はCOPフォンチーを出発した。そして、もと来た道を、やはり緊張しながら、FOBトラへと帰還した。何の問題もなく、無事に到着した。何も起きなければ、モロッコの田舎をドライブするような感じではないだろうか。

この初任務は、アフガン兵たちのおかげで、予想をはるかに超える楽しさだった。これから6ヶ月、楽しみだ。今度、COPに行くときは、ラゼックたちのため、ジュースやお菓子をお土産に持って行こう。

←アフガン国軍の車両と機関銃「ダッシュカー」
←COPの小便器

つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(5)アフガニスタン

2012年10月08日

アフガン兵たちとの交流

私が調理場に入ってきたアフガン兵に歩み寄ると、お互いに通じる英語での会話が始まった。
「僕の名前はノダだ。フランス兵だ。」
「私はラゼックだ。昼食を一緒に食べよう。」

私はどう答えるべきか悩んだ。あまり物質的に豊かではないアフガン兵に甘えてよいのだろうか。私が食べることで、彼らの食べる量が減ってしまったら申し訳ない。1~2秒後、私は答えた。
「是非!」

アフガニスタンにはよそ者を手厚くもてなす文化があるので、食事を断ることは、ラゼックの好意を踏みにじることになると私は判断した。食べないと失礼だ。

ラゼックはカマドの番をしている炊事兵にダリ語で何かを伝えた。料理を皿に盛るように言ったのだろう。炊事兵が左手で大皿をとり、右手でオタマをつかみ、カマドのそばのバケツのような黄色いプラスチック容器から、ご飯をよそうのが見えた。容器の外観は少し汚れているが、内側はどうなのだろう?

「こっちで食べよう。」
ラゼックが言い、歩き出したので、私はついて行った。

調理場を出てすぐのところにプラスチックの青いイスが1つだけあり、ラゼックは私に座るように言った。私がイスに腰掛けようとすると、彼はイスから1mほど離れた地面にしゃがんだ。現地の文化からして、標準的な座り方だ。私はそれを見て、イスに座るのをやめ、イスをどかして地面にしゃがんだ。それを見て、ラゼックが言った。

「イスに座る方が楽だろう。遠慮するな。」
「いやいや。アフガン式にやりたい。異文化が大好きなんだ。」
私が答えると、ラゼックは微笑んだ。

カマドの炊事兵が皿に盛った料理を持ってきた。ご飯に肉スープをかけたものだ。ぶつ切りの肉とジャガイモが何切れか載っている。炊事兵は皿を、ラゼックと私のあいだの地面に置いて、自分もしゃがんだ。3人で食べるのだ。炊事兵の左手にはナン(インド料理に出てくる平べったいパン)が数枚入ったビニール袋が握られている。

「スプーンがあるけど、使うか?」
ラゼックが私に言った。普通、アフガン人は右手の指で食べる。私は言った。
「いや、いらない。僕も君たちの方法で食べたい。」

ラゼックは嬉しそうに微笑んだ。私はかっこよく言ったものの、心中では、腹痛になることを恐れていた。調理場の衛生状態がわからないし、どんな調理をしたのかも不明だ。しかも私は手を洗っていない。アフガニスタンでは手洗いをしないと高い確率で下痢になる。これはピンチだ。

炊事兵が私にナンを1枚差し出し、「ナン、ナン」と言った。
あきらめて食べろ、と自分に言い聞かせた。今さら「食べない」なんて言えないし、命を落とすほどの下痢にはならないだろう。危険を冒してでも、アフガン兵と友好関係を築くことのほうが有意義だ。私は現地密着型なんだ!それに、皿の料理はいい匂いを放っていて食欲をそそる。

私は笑顔を見せながら、ナンを受け取り、言った。
「食べ方を教えてくれないか。」
ラゼックと炊事兵が右手の指を器用に使って肉スープで味のついたご飯をすくって食べ、ラゼックが説明した。

「こうやって指を使ってもいいし、ナンに挟んで食べてもいい。」
ラゼックはナンを5cmくらいちぎりとり、それでご飯をつまみ、口に運んだ。そのやりかたのほうが、指が汚れなくていい。マネをしよう。

私は、まず、迷彩ジャケットの腹の部分をつまむようにして、右手の指を生地とこすり合わせ、指の汚れを可能な限り落とした。そして、ラゼックの実演のように、ちぎったナンでご飯をつまみ、食べた。ジャガイモが入っているからなのか、肉ジャガのような味がした。とてもいける!

ひとりじめにしたいくらいの美味だと思ったが、私は2人の食べるペースを計り、それより緩やかなペースで料理に手を出した。彼らよりも多く食べるべきではない。招かれている者として、謙虚に振る舞うべきだ。

「みんなで同じ皿の料理を共有するのがアフガニスタンの伝統的な食べ方だ。」
ラゼックが言った。
私はラゼックと、食べながら会話を続けた。ラゼックはその内容を炊事兵に通訳した。

私はラゼックに聞いてみた。
「君はどこで英語を勉強したの?」
「パキスタンだ。コーラン(イスラム経典)の学校に行ってたとき、英語も学んだ。パキスタンへは、かつてタリバンが政権を取ったあと、亡命したんだ。まだ子供だった。5年前にアフガニスタンに戻ってきて、陸軍に入ったんだ。」

ラゼックが政治状況に大きく人生をふりまわされたとわかり、気の毒だと思った。ラゼックが続ける。
「アメリカは、タリバンをひとまとめに敵というが、良いタリバンと悪いタリバンがいる。良いタリバンは真剣なコーラン学生。悪いタリバンはこの国で戦争してる奴ら。外国からも来てる。」

確かに「タリバン」とは「学生」という意味であることは、書籍で読んだことがある。アフガン人から直接聞くと、書籍を著した専門家の解説よりも重みがある。





つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン

2012年10月01日

アフガン兵

「君たちはこのCOPで何やってるの?」
私は基本的な質問を投げかけ、情報を聞き出した。

COPフォンチーにはアフガン国軍の1個中隊とフランス兵が6名が駐屯しており、その6名はアフガン兵らとともに生活し、彼らを訓練し、ともに任務に出るのが任務だという。彼らのように、少数でアフガン国軍と生活をともにし、指導する部隊をOMLT(Operational Mentor and Liaison Team)と呼ぶ。

私の英語力・日本語力では「作戦指導連絡チーム」という翻訳になる。プルキエ少佐やオアロ上級軍曹も、前回のアフガニスタン派遣では、OMLTの一員として活動していた。なお、フランス軍だけでなく、米軍をはじめ、多くの国がOMLTに人材を派遣している。

アフガン国軍1個中隊と、たった6人で活動をともにするなんて、少し怖い気もする。たまにアフガン兵がISAFの兵士を殺すニュースを耳にするし、アフガン兵による杜撰な銃口管理で暴発が起きる話も頻繁に聞く。

怖いと思う一方で、まったく異なる文化を体験できることをうらやましいとも思った。どんな国民性なのか?どんな習慣があるのか?どんな食事なのか?そう考えると、ワクワクする。私は「現地密着型」を目指している。

黒人兵と別れ、歩哨所を出た。そして、アフガン兵たちのいる貨物コンテナ兵舎に向かった。いきなりコンテナ入口に行くのは失礼なので、コンテナの周りにいるアフガン兵に話しかけることにしよう。ところが、先ほどまでいたアフガン兵たちは見当たらない。

コンテナ群を一周すれば1人くらい見つけられるだろう。私は歩きつづけた。コンテナ群を半周し、裏手にまわった。そこには、金網で組まれた骨組みに、天井など、ところどころに天幕の生地が張られた簡易的な小屋があった。

その小屋の側面の一部に、金網が張られていないところがあり、そこが出入り口らしい。その前で、1人のアフガン兵が、茶色いタオルで手を拭きながら、立っていた。目が合う。私は右手を挙げ、「ハロー」と言った。フランス語は通じないだろうが、英語なら通じるかもしれない。

そのアフガン兵は、鼻ヒゲを生やし、40歳くらいに見える。彼は笑顔を見せると、何も言わず、私に手招きをした。英語すら通じないが、仲良くしてくれるようだ。私は彼に歩み寄る。彼は現地の言葉で何かを言い、小屋に入っていった。私は中をのぞいた。調理場だ。

日本のキャンプ場にあるようなカマドが2つあり、たき火の上に大きな鍋とヤカンが置いてある。湯気があがっている。そこには、カマドの番をする、もう1人のアフガン兵がいた。30歳くらいに見える。ヒゲは生えていない。私が右手を挙げると、笑顔の会釈が返ってきた。

私を招いたアフガン兵がさらに手招きをして、もっと中に入るよう促した。私はカマドのそばに来た。鍋の中には赤茶色のスープが入っていて、大きく切ったジャガイモと肉も確認できる。ヤギの肉だろう。牛丼のような匂いがただよう。食べたい 。

そのとき、入口から新たにアフガン兵が入ってきた。私は入口のほうにふりむいた。そいつは迷彩服上下に、タン色のブーツを履き、黒いベレーも被っている。非番ではなく休憩か。

「ハロー、マイ・フレンド!」
そいつが元気よく言った。私は応じる。
「ハロー。ドゥ・ユ・スピーク・イングリッシュ?(英語を話せるのか?)」
「イエス。」
すばらしい。英語を話すようだ。いろいろ話がしたい。




つづく

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Posted by 野田力  at 07:00Comments(2)アフガニスタン