2015年11月21日
ツイッター、はじめました。
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@NODA_Liki
ちょいちょい呟いていきたいと思います。
外人部隊でのチョットした思い出や、オススメの映画・書籍、近況など呟きたいです。
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@NODA_Liki
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外人部隊でのチョットした思い出や、オススメの映画・書籍、近況など呟きたいです。
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2013年08月26日
戦傷者Part6
はじめに
本日をもちまして、アフガン連載のほう、無期限休止させていただきます。理由は本業が忙しく、連載を続ける余裕がなくなったからです。
山岳任務や米軍特殊部隊・ルーマニア軍特殊部隊との合同任務なんかについても書きたかったのですが、将来、余裕ができて、機会をいただけたらにします。
連載を楽しみにしてくださっていた皆様には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなんですが、自分の生活を成立させるためには仕方がありません。
とりあえずは、今のエピソードの戦傷者事例が私のアフガン体験で一番重要なものでしたので、それがお伝えできて良かったと思っています。特に、自衛隊のかたがたの参考になっていれば幸いであり、光栄です。
それでは、どうぞ。
――――――――――
プルキエ少佐は担架搬送のための支援要員を確保するため、数十メートル離れたところで待機している工兵小隊に応援を要請した。6人くらいが来た。第4小隊の戦闘員も6人くらい来ている。それに加え、少佐、上級軍曹、ミッサニの3人が担架搬送をする。私はアンビュバッグを放せないので、担架のキャリングハンドルを握ることはない。
キャリングハンドルは8つしかないので、全員が同時に搬送作業をすることはない。8人が搬送し、疲れた者からどんどん交替し、腕を休ませながらついてきて、再び交替し搬送するというローテーションを繰り返す。
少佐たちが地面に置いていたバックパックを背負う。私はアンビュバッグを少しだろうと止めたくないので、背負わない。私は、戦闘員の1人でルーマニア人のエナケに私のA3パックを背負うように頼んだ。
彼は自分のバックパックを持ってきておらず、私のA3を背負う余裕があった。任務前のブリーフィングで、この任務は12時には終わると説明を受けていたので、バックパックを装甲車に置いてきた兵士が多かったのだ。
何もなければ12時に終わっていたかもしれないが、銃撃戦があったうえに負傷者が発生したため、すでに15時頃だ。
我々は担架を持ち上げた。担架の前方のハンドルを上級軍曹がつかみ、後方をミッサニがつかんだ。左右は工兵たちが担当する。
我々は速歩きで搬送を開始した。私はアンビュバッグが外れないようにハンドルをつかむ兵士たちの動きに速度やアンビュバッグの位置を調節する。負傷者を持ち上げなくてもいいので、重さは感じないが、この作業は演習で何度もやったことがあるので、他の兵士たちの感じる重さはおおよそわかる。
我々は両側が土塀の路地を進んだ。すぐに土塀が崩れた見渡しの良い場所に来た。通路の両側は麦畑だ。次に土塀のあるところまで50mほどある。開けた地形なので狙い撃ちされる危険があるかもしれないが、ここを通らないと脱出できない。
ところどころ、土塀が崩れきっていない箇所が4つほどあり、そこに第4小隊の戦闘員たちが北に向かってFAMASやMINIMIを構え、我々を援護していた。
我々は進んだ。若干、速度が上がった気がした。敵が狙っているかもしれないような場所にいるのは気分が悪い。誰だって早く通過したいと思うはずだ。
50mほど進み、再び路地は両側を土塀に囲まれた。土塀の上から銃撃を受けたりする可能性もゼロではないが、遠くから狙撃されたり、流れ弾が当たる可能性は低いだろう。もし、土塀越しに敵が現れたら、担架の2mほど先を行く、護衛を務める戦闘員がうまく対処してくれるよう、期待している。
さらに50mほど進むと、小川があった。村の中まで引かれている灌漑用水だ。幅が2mほどあり、ちょっとした運河としても使えそうなくらいだ。水が灰色に濁っており、深さはわからない。
我々の進む路地は橋となって、その川を越えている。橋の先はT字路になっている。我々は橋を渡った。幅が1.5mほどあるので、難なく渡れた。路地両側の土塀は橋の手前までで無くなったが、今いる地点は周辺家屋に囲まれているおかげで、ひらけた場所ではない。
我々はT字路を左に進んだ。ここからが問題だった。通路の左側は川で、右側は泥の溜まった溜池だった。しかも路地の幅が1mくらいしかない。皆、カニのように横向きに歩いた。まともに正面を向いて歩くと、川か池に落ちる。10mくらい先で路地は右に曲がっていて、そこからは川もなく、幅も広いので普通に歩ける。
我々はそこまでなんとか持ちこたえられるよう、バランスを取りながらカニ歩きをした。あと1mで右折というところで、路地の右側に土塀があり、さらに悪いことに、道幅が20㎝ほど狭くなっていた。
私を含め、担架の右側にいた者は少し左に寄らざるをえなかった。おのずと左側の者が川に向けて押されることになる。最初の被害者はMINIMI担当の工兵だった。彼は「くそっ」と言って、後ろにのけぞった。
私は左手で彼の右腕をつかんだ。
「いいんだ。俺は水に入る。」
彼はそう言って、濡れずにいることを放棄し、落ちるように川に入った。右側にいるもう2人の工兵たちも川に入った。川は意外と深く、水深は彼らの胸のあたりまであった。私は自分が担架の右側にいて良かったと安心した。
3人の工兵たちは胸まで川に浸かったが、キャリングハンドルを放さず、手を高々と上へ伸ばし、負傷者が担架の傾きで滑り落ちないように努めてくれていた。
私はこの3人の献身的な行為に感動した。外人部隊とフランス正規軍は別々のように見なされるが、彼ら正規軍の工兵たちは、今、外人部隊の負傷者のために必死になっている。我々は異種の部隊どうしだが、協力しあえる。私の中に、フランス正規軍に対する感謝の気持ちが生じた。
1mほど川を進むと、3人は順番に上陸し、通常の歩き方で搬送を再開した。
「交替しよう!」
そう言って、次々に後ろから交替要員が名乗り出た。ハンドルを持つ8人が代わる。私はアンビュバッグをつづける。空気の送りかたが特殊なので、交替すべきではないと判断した。それに、私は負傷者の体重の影響を受ける役割ではないので、彼らほど疲労困憊はしていない。
やがて家屋のある地域から出て、麦畑地帯に出た。200mほど突き進めば荒野に出て、さらに200mくらいでCOP51の敷地に入る。
まだ穂の生えていない若い麦が足にまとわりつき、歩きにくい。しかも、地面が凸凹しているので、転倒したり、足首をひねらないように注意がいる。搬送の速度が落ちるのがくやしかった。
さらにアンビュバッグに血が伝わってきて、私の手のところまで到達した。コンバット・グローブをしていたが、ヌルヌルと滑り、アンビュバッグが揉みにくい。ちゃんと揉むのにコツと握力が必要だ。手の筋肉が痙攣を起こしそうだ。しかし、この手を止めるわけにはいかない。
「VABが来ている!」
誰かが叫んだ。装甲車VABが2台、麦畑を越えたところの荒野に停車しているのが見えた。我々から直線距離で100mくらいの位置だ。ところどころに低い土塀があったり、ケシが生い茂っていて、そこに向かって直進はできない。
やがて平らで広いあぜ道に出た。あと数十メートルで荒野に出る。そのあとは50mくらい進めば装甲車だ。
麦畑と荒野のあいだに幅2mくらいの小川があった。残念なことに橋がない。水はキレイで底も見える。水深20㎝くらいだ。
「くそっ」と思った。せっかくここまで足を濡らさずにきたのに、最後に濡らすことになるなんて。
我々は“ジャブジャブ”と川を進んだ。3、4歩だけだったが、靴下に水が浸みてきた。
川を越え、右に曲がり、VABを目指すと、VABのほうから第1小隊の兵士が折り畳みの強固な担架を持って、駆けてくるのが見えた。その姿は頼もしかった。
彼は、我々と合流する前に立ち止まり、担架を広げ、地面に置いた。担架の準備ができると同時くらいに我々はたどり着き、フォックストロット担架ごと、負傷者を強固な担架の上に降ろした。
担架は第1小隊の隊員2人が運ぶ。頑丈な棒が左右に2本通っているので、前後に1人ずつの2人で運べる。アンビュバッグは引きつづき、私が操作する。
2人の歩く速度は遅かった。私のアンビュバッグ操作を考慮に入れているのだ。
「もっと速く行っていい!」
私が言うと、小走りになった。
VABまでの距離が30mほどに詰まった。本部中隊の医療小隊に属するVABが、開いた後部扉をこちらに向けて待っている。扉のそばに連隊の軍医長を務めている大佐が立っており、なかには看護官の上級曹長と、衛生隊員の上級伍長がいる。
「VABに載せろ!」
大佐が言った。
「VABのなかだ!VABのなか!」
私は大佐の指示を、搬送している2人が確実に理解するように言った。
我々はVABに到達し、後部扉から後部スペースの床に担架を50㎝ほど滑り込ませた。
なかの上級伍長がアンビュバッグを受け継ごうと、手を伸ばす。私は、プルキエ少佐が指示した速くて浅い空気の送り方を示し、言った。
「こうやるんだ!少佐がそう言った !」
「よし、わかった!」
私はアンビュバッグを放し、彼に託すと、担架から数歩さがった。担架は中の上級曹長に引かれ、外からは搬送してきた兵士や大佐によって押され、VABに完全に収納された。
大佐は観音開きの後部扉の片方を閉めると後部スペース内に飛び乗った。私はもう片方の扉を閉めた。担架を運んできた兵士が重い扉を押し、手伝う。
VABはすぐさま発車し土埃をたてながら、COP51のほうへ走っていった。
私は発車せずに残っているもう1台のVABに向かう。我々医療班のVABだ。車両整備班の操縦士が運転してきてくれた。7.62mm機関銃の銃座には同班の上級軍曹がいる。
「負傷したのは誰だ?」
上級軍曹が私に尋ねる。
「わかりません。顔が変形していたので・・・。」
プルキエ少佐をはじめ、負傷者搬送に携わった兵士たちがVABの近くに到着した。少佐のそばには通信兵がおり、そのバックパックの中の無線機から伸びる受話器を片手に、もう片方の手にある紙を見ながら、少佐は無線で通話している。
負傷者の情報を伝えているのだ。
「名前はハブリック・・・。」
この瞬間、私はやっと負傷者が誰かを知ることができた。
少佐が情報を伝え終わったとき、ようやく我々第3中隊の救命活動は終了した。ハブリック一等兵を運んだ兵士たちは、切らした息を整えようとしている。私はVABの屋根にあがり、保管スペースから水のボトルを皆に投げて渡した。
ハブリックの担架搬送の距離は500m弱だったと思う。2008年11月にアフリカ・ガボン共和国のジャングルで参加したコマンド訓練の最終想定で、4kmの距離を小隊の皆で代わるがわる大きな隊員を担架搬送したことがある。当時は、「こんな長距離を運ばせやがって」と皆で文句をつぶやいたが、今回の実戦での搬送において、その経験が精神的に支えとなった。あのときよりはマシだったからだ。
数時間後、夕方になり、薄暗いなか、村に入った全員がCOP51に帰還し、それぞれのVABに戻った。我々医療班がVABに戻ると、本部中隊・衛生小隊の看護官が現れて言った。
「ヘリコプターのなかで彼は死んだよ。」
VABでCOP51に運ばれたあと、フランス軍のヘリコプターに載せられ、カブールの国際部隊病院に搬送される途中だった。
「くそぉ・・・。」
ミッサニが静かに落胆の声を漏らす。
その後、しばらく医療班は沈黙に包まれていた。責任感や道徳心の強いミッサニは見るからに落ち込んでいた。私は心配になったが、何も言わなかった。へたなことを言って、余計に落ち込ませることになるかもしれない。誰もが黙っていた。
私自身は、「救えない命もある。ハブリックはそれだったんだ」と考えていた。そのため、心は痛くなかった。頭を撃たれたのだから、ふつう助からない。救命活動を放棄したとしても非難されることがなかったかもしれないほどの重傷だ。
それでも少佐は救命活動を実施するみちを選んだ。本当の理由はわからないが、私が思うのは、周りの兵士たちの士気を維持するためだったのではないか。
もし我々がハブリックの救命をやらなかったとしたら、周りの兵士たちは自分たちが負傷した場合も見放されると考え、医療班に不信感を抱くようになり、不安感が高まり、士気が落ちるだろう。
しかし、今回の救命活動を見たり聞いたりした場合、「もし自分が負傷したら、周りの皆が必死になってくれる」と思い、士気もあがるだろう。そこに今回の救命活動の意義があったと私は思う。我々の行為は決して無駄ではなかった。
ハブリック一等兵はスロバキア出身で、23歳だった。フランス軍の戦死者として、遺体の入った棺は、フランス国旗に覆われてアフガニスタンを発った。
タスクフォース・アルトーで最初の戦死者が発生したことで、私は自分たちが本物の戦争に来ていることを強く実感した。
一旦終了
――――――――――
今まで、約1年半のあいだ、ありがとうございました。連載は一旦終了ですが、今後もちょっとした記事や写真をアップすることがあるかもしれません。
それから、Vショーやブラックホールなどにお邪魔したり、個人出店することもありますので、今後ともよろしくお願いします。
さようなら。Au Revoir.
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本日をもちまして、アフガン連載のほう、無期限休止させていただきます。理由は本業が忙しく、連載を続ける余裕がなくなったからです。
山岳任務や米軍特殊部隊・ルーマニア軍特殊部隊との合同任務なんかについても書きたかったのですが、将来、余裕ができて、機会をいただけたらにします。
連載を楽しみにしてくださっていた皆様には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなんですが、自分の生活を成立させるためには仕方がありません。
とりあえずは、今のエピソードの戦傷者事例が私のアフガン体験で一番重要なものでしたので、それがお伝えできて良かったと思っています。特に、自衛隊のかたがたの参考になっていれば幸いであり、光栄です。
それでは、どうぞ。
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プルキエ少佐は担架搬送のための支援要員を確保するため、数十メートル離れたところで待機している工兵小隊に応援を要請した。6人くらいが来た。第4小隊の戦闘員も6人くらい来ている。それに加え、少佐、上級軍曹、ミッサニの3人が担架搬送をする。私はアンビュバッグを放せないので、担架のキャリングハンドルを握ることはない。
キャリングハンドルは8つしかないので、全員が同時に搬送作業をすることはない。8人が搬送し、疲れた者からどんどん交替し、腕を休ませながらついてきて、再び交替し搬送するというローテーションを繰り返す。
少佐たちが地面に置いていたバックパックを背負う。私はアンビュバッグを少しだろうと止めたくないので、背負わない。私は、戦闘員の1人でルーマニア人のエナケに私のA3パックを背負うように頼んだ。
彼は自分のバックパックを持ってきておらず、私のA3を背負う余裕があった。任務前のブリーフィングで、この任務は12時には終わると説明を受けていたので、バックパックを装甲車に置いてきた兵士が多かったのだ。
何もなければ12時に終わっていたかもしれないが、銃撃戦があったうえに負傷者が発生したため、すでに15時頃だ。
我々は担架を持ち上げた。担架の前方のハンドルを上級軍曹がつかみ、後方をミッサニがつかんだ。左右は工兵たちが担当する。
我々は速歩きで搬送を開始した。私はアンビュバッグが外れないようにハンドルをつかむ兵士たちの動きに速度やアンビュバッグの位置を調節する。負傷者を持ち上げなくてもいいので、重さは感じないが、この作業は演習で何度もやったことがあるので、他の兵士たちの感じる重さはおおよそわかる。
我々は両側が土塀の路地を進んだ。すぐに土塀が崩れた見渡しの良い場所に来た。通路の両側は麦畑だ。次に土塀のあるところまで50mほどある。開けた地形なので狙い撃ちされる危険があるかもしれないが、ここを通らないと脱出できない。
ところどころ、土塀が崩れきっていない箇所が4つほどあり、そこに第4小隊の戦闘員たちが北に向かってFAMASやMINIMIを構え、我々を援護していた。
我々は進んだ。若干、速度が上がった気がした。敵が狙っているかもしれないような場所にいるのは気分が悪い。誰だって早く通過したいと思うはずだ。
50mほど進み、再び路地は両側を土塀に囲まれた。土塀の上から銃撃を受けたりする可能性もゼロではないが、遠くから狙撃されたり、流れ弾が当たる可能性は低いだろう。もし、土塀越しに敵が現れたら、担架の2mほど先を行く、護衛を務める戦闘員がうまく対処してくれるよう、期待している。
さらに50mほど進むと、小川があった。村の中まで引かれている灌漑用水だ。幅が2mほどあり、ちょっとした運河としても使えそうなくらいだ。水が灰色に濁っており、深さはわからない。
我々の進む路地は橋となって、その川を越えている。橋の先はT字路になっている。我々は橋を渡った。幅が1.5mほどあるので、難なく渡れた。路地両側の土塀は橋の手前までで無くなったが、今いる地点は周辺家屋に囲まれているおかげで、ひらけた場所ではない。
我々はT字路を左に進んだ。ここからが問題だった。通路の左側は川で、右側は泥の溜まった溜池だった。しかも路地の幅が1mくらいしかない。皆、カニのように横向きに歩いた。まともに正面を向いて歩くと、川か池に落ちる。10mくらい先で路地は右に曲がっていて、そこからは川もなく、幅も広いので普通に歩ける。
我々はそこまでなんとか持ちこたえられるよう、バランスを取りながらカニ歩きをした。あと1mで右折というところで、路地の右側に土塀があり、さらに悪いことに、道幅が20㎝ほど狭くなっていた。
私を含め、担架の右側にいた者は少し左に寄らざるをえなかった。おのずと左側の者が川に向けて押されることになる。最初の被害者はMINIMI担当の工兵だった。彼は「くそっ」と言って、後ろにのけぞった。
私は左手で彼の右腕をつかんだ。
「いいんだ。俺は水に入る。」
彼はそう言って、濡れずにいることを放棄し、落ちるように川に入った。右側にいるもう2人の工兵たちも川に入った。川は意外と深く、水深は彼らの胸のあたりまであった。私は自分が担架の右側にいて良かったと安心した。
3人の工兵たちは胸まで川に浸かったが、キャリングハンドルを放さず、手を高々と上へ伸ばし、負傷者が担架の傾きで滑り落ちないように努めてくれていた。
私はこの3人の献身的な行為に感動した。外人部隊とフランス正規軍は別々のように見なされるが、彼ら正規軍の工兵たちは、今、外人部隊の負傷者のために必死になっている。我々は異種の部隊どうしだが、協力しあえる。私の中に、フランス正規軍に対する感謝の気持ちが生じた。
1mほど川を進むと、3人は順番に上陸し、通常の歩き方で搬送を再開した。
「交替しよう!」
そう言って、次々に後ろから交替要員が名乗り出た。ハンドルを持つ8人が代わる。私はアンビュバッグをつづける。空気の送りかたが特殊なので、交替すべきではないと判断した。それに、私は負傷者の体重の影響を受ける役割ではないので、彼らほど疲労困憊はしていない。
やがて家屋のある地域から出て、麦畑地帯に出た。200mほど突き進めば荒野に出て、さらに200mくらいでCOP51の敷地に入る。
まだ穂の生えていない若い麦が足にまとわりつき、歩きにくい。しかも、地面が凸凹しているので、転倒したり、足首をひねらないように注意がいる。搬送の速度が落ちるのがくやしかった。
さらにアンビュバッグに血が伝わってきて、私の手のところまで到達した。コンバット・グローブをしていたが、ヌルヌルと滑り、アンビュバッグが揉みにくい。ちゃんと揉むのにコツと握力が必要だ。手の筋肉が痙攣を起こしそうだ。しかし、この手を止めるわけにはいかない。
「VABが来ている!」
誰かが叫んだ。装甲車VABが2台、麦畑を越えたところの荒野に停車しているのが見えた。我々から直線距離で100mくらいの位置だ。ところどころに低い土塀があったり、ケシが生い茂っていて、そこに向かって直進はできない。
やがて平らで広いあぜ道に出た。あと数十メートルで荒野に出る。そのあとは50mくらい進めば装甲車だ。
麦畑と荒野のあいだに幅2mくらいの小川があった。残念なことに橋がない。水はキレイで底も見える。水深20㎝くらいだ。
「くそっ」と思った。せっかくここまで足を濡らさずにきたのに、最後に濡らすことになるなんて。
我々は“ジャブジャブ”と川を進んだ。3、4歩だけだったが、靴下に水が浸みてきた。
川を越え、右に曲がり、VABを目指すと、VABのほうから第1小隊の兵士が折り畳みの強固な担架を持って、駆けてくるのが見えた。その姿は頼もしかった。
彼は、我々と合流する前に立ち止まり、担架を広げ、地面に置いた。担架の準備ができると同時くらいに我々はたどり着き、フォックストロット担架ごと、負傷者を強固な担架の上に降ろした。
担架は第1小隊の隊員2人が運ぶ。頑丈な棒が左右に2本通っているので、前後に1人ずつの2人で運べる。アンビュバッグは引きつづき、私が操作する。
2人の歩く速度は遅かった。私のアンビュバッグ操作を考慮に入れているのだ。
「もっと速く行っていい!」
私が言うと、小走りになった。
VABまでの距離が30mほどに詰まった。本部中隊の医療小隊に属するVABが、開いた後部扉をこちらに向けて待っている。扉のそばに連隊の軍医長を務めている大佐が立っており、なかには看護官の上級曹長と、衛生隊員の上級伍長がいる。
「VABに載せろ!」
大佐が言った。
「VABのなかだ!VABのなか!」
私は大佐の指示を、搬送している2人が確実に理解するように言った。
我々はVABに到達し、後部扉から後部スペースの床に担架を50㎝ほど滑り込ませた。
なかの上級伍長がアンビュバッグを受け継ごうと、手を伸ばす。私は、プルキエ少佐が指示した速くて浅い空気の送り方を示し、言った。
「こうやるんだ!少佐がそう言った !」
「よし、わかった!」
私はアンビュバッグを放し、彼に託すと、担架から数歩さがった。担架は中の上級曹長に引かれ、外からは搬送してきた兵士や大佐によって押され、VABに完全に収納された。
大佐は観音開きの後部扉の片方を閉めると後部スペース内に飛び乗った。私はもう片方の扉を閉めた。担架を運んできた兵士が重い扉を押し、手伝う。
VABはすぐさま発車し土埃をたてながら、COP51のほうへ走っていった。
私は発車せずに残っているもう1台のVABに向かう。我々医療班のVABだ。車両整備班の操縦士が運転してきてくれた。7.62mm機関銃の銃座には同班の上級軍曹がいる。
「負傷したのは誰だ?」
上級軍曹が私に尋ねる。
「わかりません。顔が変形していたので・・・。」
プルキエ少佐をはじめ、負傷者搬送に携わった兵士たちがVABの近くに到着した。少佐のそばには通信兵がおり、そのバックパックの中の無線機から伸びる受話器を片手に、もう片方の手にある紙を見ながら、少佐は無線で通話している。
負傷者の情報を伝えているのだ。
「名前はハブリック・・・。」
この瞬間、私はやっと負傷者が誰かを知ることができた。
少佐が情報を伝え終わったとき、ようやく我々第3中隊の救命活動は終了した。ハブリック一等兵を運んだ兵士たちは、切らした息を整えようとしている。私はVABの屋根にあがり、保管スペースから水のボトルを皆に投げて渡した。
ハブリックの担架搬送の距離は500m弱だったと思う。2008年11月にアフリカ・ガボン共和国のジャングルで参加したコマンド訓練の最終想定で、4kmの距離を小隊の皆で代わるがわる大きな隊員を担架搬送したことがある。当時は、「こんな長距離を運ばせやがって」と皆で文句をつぶやいたが、今回の実戦での搬送において、その経験が精神的に支えとなった。あのときよりはマシだったからだ。
数時間後、夕方になり、薄暗いなか、村に入った全員がCOP51に帰還し、それぞれのVABに戻った。我々医療班がVABに戻ると、本部中隊・衛生小隊の看護官が現れて言った。
「ヘリコプターのなかで彼は死んだよ。」
VABでCOP51に運ばれたあと、フランス軍のヘリコプターに載せられ、カブールの国際部隊病院に搬送される途中だった。
「くそぉ・・・。」
ミッサニが静かに落胆の声を漏らす。
その後、しばらく医療班は沈黙に包まれていた。責任感や道徳心の強いミッサニは見るからに落ち込んでいた。私は心配になったが、何も言わなかった。へたなことを言って、余計に落ち込ませることになるかもしれない。誰もが黙っていた。
私自身は、「救えない命もある。ハブリックはそれだったんだ」と考えていた。そのため、心は痛くなかった。頭を撃たれたのだから、ふつう助からない。救命活動を放棄したとしても非難されることがなかったかもしれないほどの重傷だ。
それでも少佐は救命活動を実施するみちを選んだ。本当の理由はわからないが、私が思うのは、周りの兵士たちの士気を維持するためだったのではないか。
もし我々がハブリックの救命をやらなかったとしたら、周りの兵士たちは自分たちが負傷した場合も見放されると考え、医療班に不信感を抱くようになり、不安感が高まり、士気が落ちるだろう。
しかし、今回の救命活動を見たり聞いたりした場合、「もし自分が負傷したら、周りの皆が必死になってくれる」と思い、士気もあがるだろう。そこに今回の救命活動の意義があったと私は思う。我々の行為は決して無駄ではなかった。
ハブリック一等兵はスロバキア出身で、23歳だった。フランス軍の戦死者として、遺体の入った棺は、フランス国旗に覆われてアフガニスタンを発った。
タスクフォース・アルトーで最初の戦死者が発生したことで、私は自分たちが本物の戦争に来ていることを強く実感した。
一旦終了
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今まで、約1年半のあいだ、ありがとうございました。連載は一旦終了ですが、今後もちょっとした記事や写真をアップすることがあるかもしれません。
それから、Vショーやブラックホールなどにお邪魔したり、個人出店することもありますので、今後ともよろしくお願いします。
さようなら。Au Revoir.
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2013年08月19日
戦傷者Part5
頭を7.62mm弾で貫かれ、まぶたをパンパンに腫らし、鼻孔・口・喉の気管カニューレのところから小さな血の泡を立てて苦しむ本物の戦傷者が自分のすぐ目の前に横たわっているにも関わらず、演習をやっているような感じがする。
むしろ、演習のときより落ち着いている。演習のときは、我々が上手いこと対処できるかどうかを点検する係官が存在するが、実戦の場には存在しない。だいぶ気が楽だ。
点滴を設置した上級軍曹とミッサニは、近くにいた戦闘員に点滴剤のパックを高く保持するよう指示すると、負傷者の衣服を救急救命のハサミでジョキジョキと切りはじめた。
戦闘員が立った姿勢で、だらんと垂らした手に点滴パックを持って見守るなか、上級軍曹が上着を、ミッサニがズボンを切る。上着の袖は両方ともミッサニが点滴をするために早い段階で切っていた。戦闘服も下着もどんどん切られていき、負傷者は裸にされていく。頭部以外に負傷はないか確認するためだ。
「サバイバル・ブランケットはあるか?」
負傷者を包むのだ。
「持ってます。」
私が答える。
「ブリザード・サバイバル・ブランケット」という、日本のモンベル社と英国のマウンテン・イクイップメント社が共同開発した保温効果の高いサバイバル・ブランケットが、私のバックパックに入っている。
「しまった」と思った。バックパックが1.5mほど離れたところに置いてあり、手が届かない。この現場に合流し、気管切開キットを取り出したあと、そこに置いてそのままなのだ。アンビュバッグを止めたくないので取りにいけない。
すぐさま私は、そのバックパックの2mほど先から我々の活動を見ている戦闘員に言った。
「おいコワルスキー、そのバックパックをここに持ってきてくれ!」
コワルスキー一等兵は即座に対応してくれた。私は左手でアンビュバッグを操作しながら、右手でサバイバル・ブランケットを取り出した。ブランケットが圧縮密封され、硬く、レンガのような形になっている。20×10×5㎝くらいのサイズで、色は軍仕様の深緑だ。
「これを開けてくれ。」
そう言って私はレンガ状に圧縮されたブランケットをコワルスキーに手渡し、開けるのを見守った。
厚いビニールの密封袋の隅には開けやすいように切れ目が入っているが、それでも開けにくかったため、コワルスキーはズボンの右ポケットから折り畳みナイフを引き抜き、親指で刃を出し、もともとあった切れ目よりも深い切れ目を入れ、緑色のレンガのような本体を取り出した。
「広げてくれ。」
コワルスキーはいっさい返事をしないまま、ナイフをポケットにしまうと、“レンガ”をほぐし、どんどん広げていく。外側が深緑で内側が銀色の素材が“チャリチャリ”と音を立てる。圧縮されていたシートは広がるとともに、2層構造になっているため空気を含み、膨らんだ。
コワルスキー一等兵がブランケットを広げているいっぽう、オアロ上級軍曹が負傷者の手首の動脈部分を押さえ、言った。
「橈骨動脈(とうこつどうみゃく)、確認。」
上級軍曹は点滴チューブのクランプを閉め、点滴投与を止めた。橈骨動脈に脈があれば、とりあえず血圧はじゅうぶんな値になっている。必要以上に点滴を施すと、出血を促進してしまう可能性がある。
上級軍曹はそばに立つ戦闘員から点滴パックを受けとり、チューブをまとめると、負傷者の腹に置いた。
ブランケットの準備ができた。負傷者はすでに裸にされ、前面をハサミで切って脱がされた服の上に寝た状態になっている。服が敷物のようだ。
「よし、負傷者を持ち上げる。2人来てくれ。」
プルキエ少佐の呼びかけで、戦闘員2人が手伝うことになった。
少佐と上級軍曹は負傷者をまたぎ、中腰姿勢をとる。少佐は負傷者の膝のあたりに手を差し入れる。上級軍曹は腰だ。2人の戦闘員は負傷者の左右にしゃがみ、下敷きとなっている切れた上着の肩や胸あたりをつかむ。
ミッサニ伍長は負傷者の頭側にひざまずき、両手で頭部を左右から挟んだ。コワルスキーは負傷者の足側に立ち、ブランケットをつかんでいる。
「ノダ、合図を頼む。」
少佐が言った。私がいっせいに持ち上げるタイミングを決める。喉の気管カニューレからアンビュバッグが外れやすいからだ。私は言った。
「持ち上げ準備・・・、持ち上げ!」
負傷者の体が30~40㎝ほど持ち上がる。私はその動きに合わせて、アンビュバッグを持ち上げた。
コワルスキーがすかさずブランケットを少佐の股のあいだから、負傷者の下へと送りこむ。銀色の面が上向きで緑色の面が地面に接する。他の戦闘員が1人現れて、負傷者の右側からブランケットを引いたり押したりして手伝い、ブランケットは負傷者の足から頭までをカバーする位置についた。
「降ろす準備・・・、降ろせ!」
私の合図で負傷者がブランケットに降ろされた。
今度は担架を下に通す。ミッサニが携行してきたロール式の携帯担架がある。米国タクティカル・メディカル・ソリューションズ社製の「フォックストロット」という担架で、スリーピングマットのような形状の、薄い柔軟なプラスチック製の素材に、キャリング・ハンドルを左右あわせて6つ、前後に2つ付けたような製品だ。
ミッサニは1人の戦闘員と頭部の担当を代わり、自分のバックパックの下にストラップで固定してあった担架を取り出し、広げた。
先ほどと同じ要領で我々は負傷者を持ち上げると、ミッサニはコワルスキーとともに担架を負傷者の下に通し、我々は負傷者を降ろした。
ミッサニと上級軍曹はブランケットの左右の端を負傷者の体の前で重ね合わせ、肩から下を包んだ。多量に出血すると体温が低下するので体温が逃げないようにする必要がある。たとえ暑い地域でもそうなる。
ブランケットを負傷者の上からかぶせるのではなく下から包むのは、救急ヘリコプターに載せる時、ローターの起こす風でブランケットがはがされて飛んでいかないようにするためだ。
ミッサニと上級軍曹はブランケットの重ね合わせた部分をテープでとめ、勝手に開かないようにした。ついに担架搬送を始められる。
つづく
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むしろ、演習のときより落ち着いている。演習のときは、我々が上手いこと対処できるかどうかを点検する係官が存在するが、実戦の場には存在しない。だいぶ気が楽だ。
点滴を設置した上級軍曹とミッサニは、近くにいた戦闘員に点滴剤のパックを高く保持するよう指示すると、負傷者の衣服を救急救命のハサミでジョキジョキと切りはじめた。
戦闘員が立った姿勢で、だらんと垂らした手に点滴パックを持って見守るなか、上級軍曹が上着を、ミッサニがズボンを切る。上着の袖は両方ともミッサニが点滴をするために早い段階で切っていた。戦闘服も下着もどんどん切られていき、負傷者は裸にされていく。頭部以外に負傷はないか確認するためだ。
「サバイバル・ブランケットはあるか?」
負傷者を包むのだ。
「持ってます。」
私が答える。
「ブリザード・サバイバル・ブランケット」という、日本のモンベル社と英国のマウンテン・イクイップメント社が共同開発した保温効果の高いサバイバル・ブランケットが、私のバックパックに入っている。
「しまった」と思った。バックパックが1.5mほど離れたところに置いてあり、手が届かない。この現場に合流し、気管切開キットを取り出したあと、そこに置いてそのままなのだ。アンビュバッグを止めたくないので取りにいけない。
すぐさま私は、そのバックパックの2mほど先から我々の活動を見ている戦闘員に言った。
「おいコワルスキー、そのバックパックをここに持ってきてくれ!」
コワルスキー一等兵は即座に対応してくれた。私は左手でアンビュバッグを操作しながら、右手でサバイバル・ブランケットを取り出した。ブランケットが圧縮密封され、硬く、レンガのような形になっている。20×10×5㎝くらいのサイズで、色は軍仕様の深緑だ。
「これを開けてくれ。」
そう言って私はレンガ状に圧縮されたブランケットをコワルスキーに手渡し、開けるのを見守った。
厚いビニールの密封袋の隅には開けやすいように切れ目が入っているが、それでも開けにくかったため、コワルスキーはズボンの右ポケットから折り畳みナイフを引き抜き、親指で刃を出し、もともとあった切れ目よりも深い切れ目を入れ、緑色のレンガのような本体を取り出した。
「広げてくれ。」
コワルスキーはいっさい返事をしないまま、ナイフをポケットにしまうと、“レンガ”をほぐし、どんどん広げていく。外側が深緑で内側が銀色の素材が“チャリチャリ”と音を立てる。圧縮されていたシートは広がるとともに、2層構造になっているため空気を含み、膨らんだ。
コワルスキー一等兵がブランケットを広げているいっぽう、オアロ上級軍曹が負傷者の手首の動脈部分を押さえ、言った。
「橈骨動脈(とうこつどうみゃく)、確認。」
上級軍曹は点滴チューブのクランプを閉め、点滴投与を止めた。橈骨動脈に脈があれば、とりあえず血圧はじゅうぶんな値になっている。必要以上に点滴を施すと、出血を促進してしまう可能性がある。
上級軍曹はそばに立つ戦闘員から点滴パックを受けとり、チューブをまとめると、負傷者の腹に置いた。
ブランケットの準備ができた。負傷者はすでに裸にされ、前面をハサミで切って脱がされた服の上に寝た状態になっている。服が敷物のようだ。
「よし、負傷者を持ち上げる。2人来てくれ。」
プルキエ少佐の呼びかけで、戦闘員2人が手伝うことになった。
少佐と上級軍曹は負傷者をまたぎ、中腰姿勢をとる。少佐は負傷者の膝のあたりに手を差し入れる。上級軍曹は腰だ。2人の戦闘員は負傷者の左右にしゃがみ、下敷きとなっている切れた上着の肩や胸あたりをつかむ。
ミッサニ伍長は負傷者の頭側にひざまずき、両手で頭部を左右から挟んだ。コワルスキーは負傷者の足側に立ち、ブランケットをつかんでいる。
「ノダ、合図を頼む。」
少佐が言った。私がいっせいに持ち上げるタイミングを決める。喉の気管カニューレからアンビュバッグが外れやすいからだ。私は言った。
「持ち上げ準備・・・、持ち上げ!」
負傷者の体が30~40㎝ほど持ち上がる。私はその動きに合わせて、アンビュバッグを持ち上げた。
コワルスキーがすかさずブランケットを少佐の股のあいだから、負傷者の下へと送りこむ。銀色の面が上向きで緑色の面が地面に接する。他の戦闘員が1人現れて、負傷者の右側からブランケットを引いたり押したりして手伝い、ブランケットは負傷者の足から頭までをカバーする位置についた。
「降ろす準備・・・、降ろせ!」
私の合図で負傷者がブランケットに降ろされた。
今度は担架を下に通す。ミッサニが携行してきたロール式の携帯担架がある。米国タクティカル・メディカル・ソリューションズ社製の「フォックストロット」という担架で、スリーピングマットのような形状の、薄い柔軟なプラスチック製の素材に、キャリング・ハンドルを左右あわせて6つ、前後に2つ付けたような製品だ。
ミッサニは1人の戦闘員と頭部の担当を代わり、自分のバックパックの下にストラップで固定してあった担架を取り出し、広げた。
先ほどと同じ要領で我々は負傷者を持ち上げると、ミッサニはコワルスキーとともに担架を負傷者の下に通し、我々は負傷者を降ろした。
ミッサニと上級軍曹はブランケットの左右の端を負傷者の体の前で重ね合わせ、肩から下を包んだ。多量に出血すると体温が低下するので体温が逃げないようにする必要がある。たとえ暑い地域でもそうなる。
ブランケットを負傷者の上からかぶせるのではなく下から包むのは、救急ヘリコプターに載せる時、ローターの起こす風でブランケットがはがされて飛んでいかないようにするためだ。
ミッサニと上級軍曹はブランケットの重ね合わせた部分をテープでとめ、勝手に開かないようにした。ついに担架搬送を始められる。
つづく
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2013年08月12日
戦傷者Part4
プルキエ少佐やミッサニ伍長たちは少し畑を進み、土塀を越え、20mほど離れた通路に負傷者を寝かした。通路は塀に挟まれ弾丸は届かないと思われる。
少佐とミッサニは負傷者を見て愕然とした。そんなに粗い搬出をしたつもりはなかったが、頭部の圧迫包帯も、喉のチューブも、点滴も外れて無くなっていた。いちからやり直しだ。
負傷者は声を出さずに、モゾモゾと苦痛にもがいている。鼻孔や口、そして喉の切込み穴からは、血が出てきて泡を立てたり、また内部に戻ったりしている。血に少々邪魔されながら呼吸しているということだ。
少佐はミッサニに再度点滴を施すよう指示すると、医療バックパックから縫合キットをとりだし、後頭部の射出口を縫い始めた。搬出のために来た戦闘員の1人が頭部を支える。
ミッサニが新たな点滴を施し、カテーテルやチューブをテープや包帯で固定しているあいだに、少佐は射出口の縫合を終えた。3針縫った。あとは射入口だ。
そんなとき、再び銃撃音が響いた。段々畑のほうだ。ここは壁があるので大丈夫だろう。
“ビシッ”
大丈夫ではない。土壁の上部に弾丸が撃ち込まれた。少佐はもう少し遠ざかるべきだと判断し、4人で負傷者を運び、さらに5mほど進み、角を曲がり、10mくらい進んだ。
負傷者を降ろし、少佐とミッサニは再び愕然とした。また点滴が外れていた。平らな通路を15mほど進んだだけなのに・・・。もしかしたら、誰かの銃やポーチがチューブに引っ掛かって外れたのかもしれない。
ミッサニが3個めの点滴の準備を始めようとすると、少佐は言った。
「点滴チューブを切って、15㎝くらいのチューブを何本か作ってくれ。」
ミッサニは不思議に思いながらも、チューブの切り出し作業を始めた。いっぽうの少佐は射入口の縫合を始める。2針縫った。これで「圧迫包帯が外れる」などの心配はいらなくなった。
ミッサニが15㎝ほどのチューブができたことを伝えると、少佐はチューブを1本とり、負傷者の喉の切込みに刺し込み、最後部と喉の皮膚を安全ピンで刺して留めた。チューブが気管内に入りこむことを防ぐためだ。しかも抜けることもないだろう。
ミッサニは少佐のこのアイデアに驚愕したという。2人の医療装備に1個しかなかった気管切開キットを紛失し、どうしようもないと諦めるのではなく、別のもので即製する少佐を彼も私も尊敬せずにはいられない。
少佐が2本めのチューブをとる。1本では、直径が小さく、通る空気の量はわずかだろうが、何本か差し込めば、より多くの空気が通る。注射針を何本か刺して助かった例もあるくらいだ。
そんなとき、少佐とミッサニは20mほど離れたところから私の大声を聞いた。
「少佐殿、今行きます!」
こうして私が応援のため、合流し、2つ目の気管切開キットが少佐に手渡された。
少佐は点滴用チューブを切って作った気道用の管を負傷者の喉から取りはずし、気管切開キットに入っている気管カニューレというチューブを差し込んだ。
そして、2つ目のチューブは絶対に脱落させまいと、縫合用の針と糸でチューブのストッパーのヒレの部分を、首の皮膚に縫い付けはじめた。
その作業をやりながら、少佐は私とミッサニに指示を出す。私は合流したばかりで、状況がはっきりと把握できていないため、指示が欲しい。
「HyperHES(イペレス)を点滴しろ!」
HyperHESとは我々が持っている点滴剤のなかで最も塩分が高い。深刻な出血多量のときに用いる。これが今必要なのだが、私はこの点滴剤をバックパックに携行していなかった。
出血の度合いや負傷の種類によって、用いる点滴剤が変わってくるため、我々医療班は3種類の点滴剤を使用するのだが、私はHyperHES以外の2種類を携行していた。
オアロ上級軍曹とバディーを組んだとき、彼がHyperHESを携行することになったのだ。我々2人に1つだけしか支給されなかった。フランス軍はHyperHESをあまり保有していないのだろう。
私は言った。
「上級軍曹がHyperHESを持っています。」
「上級軍曹! HyperHESをくれ!」
オアロ上級軍曹がこの場にいないことを知らないらしく、プルキエ少佐は声を張り上げた。
「了解!」
なんと私の後ろからオアロ上級軍曹の声が聞こえ、合流したばかりの上級軍曹が私の横に現れた。私は気づかなかったが、少佐には彼が駆けつけてくるのが見えていたのだ。
フォリエッジ・グリーンのキャメルバックBMFを背中から地面におろし、HyperHESの液体の入ったパックと点滴チューブを取り出し、準備にとりかかった。
負傷者の左前腕の内側においては、ミッサニがすでに誘導針付きカテーテルを静脈に刺しているところだ。右腕にはすでに2度刺しているので、今度は左腕だ。
カテーテルはスムーズに入っていく。カテーテルより少し上の静脈を指で押さえ、血流を抑えながら、誘導針を抜く。
上級軍曹が準備したばかりの点滴チューブの先端をミッサニに差し出す。先端までHyperHESが行き届いている。ミッサニは右手で受け取ると、親指でチューブ先端のキャップを外した。そして、そこを左腕のカテーテルに接続し、フィルムやテープで固定した。
そのあいだ、私にもちゃんと仕事はあった。
負傷者の喉に気管カニューレを縫い付けた少佐は、「アンビュバッグ」というラグビーボール型の風船のような、揉んで空気を送りこむ医療器具を取り出し、気管カニューレに接続した。
「ノダ、アンビュバッグを頼む。」
「はい、少佐殿。」
私は負傷者の左肩のそばにひざまずき、アンビュバッグを右手で揉み始めた。
私は衛生兵課程のときに習ったとおりの方法で、アンビュバッグを“シュー、シュー”と、親指先端と人差し指や中指が触れるくらいまで揉みきった。
「そうじゃない。こうするんだ。」
少佐が落ち着いた口調で言い、アンビュバッグに手を伸ばしてきたので、私は手を引いた。
アンビュバッグをつかんだ少佐は、“シュッ、シュッ、シュッ、シュッ”と、素早く小刻みに揉んだ。
「わかりました。」
私は少佐に告げると、再びアンビュバッグを受け持ち、少佐の教えてくれた方法で揉み始めた。“シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ・・・・・”。
この瞬間から後方の医療班に負傷者を引き渡すまでの、私のノンストップな単純作業が始まった。単純だが、同僚1人の命が関わる重要な作業だ。責任を感じた。
少佐がこの揉み方について解説をする。私は揉みながら聴いた。
「肺に血が入り込んでいて、空気の入るスペースが小さくなっている可能性がある。空気をたくさん送りこむと、入りきらない空気が胃にまわり、嘔吐してしまうかもしれないから、こうするんだ。」
なるほど!軍医はすごい。私は負傷者の状態を考えず、教科書通りのやりかたでアンビュバッグを揉むくらいの頭脳しか持ち合わせていなかったが、少佐はしっかりと対応し、しかも、戦場で落ち着いて私にそうする理由を説明し、納得させた。
私がアンビュバッグを受け持ってからは、少佐はもっぱら、負傷者の状態を記す「フィールド・メディカル・カード」の記入と、我々に指示を出すほうに徹し、医療行為は我々3人で行なう形となった。演習で何回かやった状況だ。
つづく
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少佐とミッサニは負傷者を見て愕然とした。そんなに粗い搬出をしたつもりはなかったが、頭部の圧迫包帯も、喉のチューブも、点滴も外れて無くなっていた。いちからやり直しだ。
負傷者は声を出さずに、モゾモゾと苦痛にもがいている。鼻孔や口、そして喉の切込み穴からは、血が出てきて泡を立てたり、また内部に戻ったりしている。血に少々邪魔されながら呼吸しているということだ。
少佐はミッサニに再度点滴を施すよう指示すると、医療バックパックから縫合キットをとりだし、後頭部の射出口を縫い始めた。搬出のために来た戦闘員の1人が頭部を支える。
ミッサニが新たな点滴を施し、カテーテルやチューブをテープや包帯で固定しているあいだに、少佐は射出口の縫合を終えた。3針縫った。あとは射入口だ。
そんなとき、再び銃撃音が響いた。段々畑のほうだ。ここは壁があるので大丈夫だろう。
“ビシッ”
大丈夫ではない。土壁の上部に弾丸が撃ち込まれた。少佐はもう少し遠ざかるべきだと判断し、4人で負傷者を運び、さらに5mほど進み、角を曲がり、10mくらい進んだ。
負傷者を降ろし、少佐とミッサニは再び愕然とした。また点滴が外れていた。平らな通路を15mほど進んだだけなのに・・・。もしかしたら、誰かの銃やポーチがチューブに引っ掛かって外れたのかもしれない。
ミッサニが3個めの点滴の準備を始めようとすると、少佐は言った。
「点滴チューブを切って、15㎝くらいのチューブを何本か作ってくれ。」
ミッサニは不思議に思いながらも、チューブの切り出し作業を始めた。いっぽうの少佐は射入口の縫合を始める。2針縫った。これで「圧迫包帯が外れる」などの心配はいらなくなった。
ミッサニが15㎝ほどのチューブができたことを伝えると、少佐はチューブを1本とり、負傷者の喉の切込みに刺し込み、最後部と喉の皮膚を安全ピンで刺して留めた。チューブが気管内に入りこむことを防ぐためだ。しかも抜けることもないだろう。
ミッサニは少佐のこのアイデアに驚愕したという。2人の医療装備に1個しかなかった気管切開キットを紛失し、どうしようもないと諦めるのではなく、別のもので即製する少佐を彼も私も尊敬せずにはいられない。
少佐が2本めのチューブをとる。1本では、直径が小さく、通る空気の量はわずかだろうが、何本か差し込めば、より多くの空気が通る。注射針を何本か刺して助かった例もあるくらいだ。
そんなとき、少佐とミッサニは20mほど離れたところから私の大声を聞いた。
「少佐殿、今行きます!」
こうして私が応援のため、合流し、2つ目の気管切開キットが少佐に手渡された。
少佐は点滴用チューブを切って作った気道用の管を負傷者の喉から取りはずし、気管切開キットに入っている気管カニューレというチューブを差し込んだ。
そして、2つ目のチューブは絶対に脱落させまいと、縫合用の針と糸でチューブのストッパーのヒレの部分を、首の皮膚に縫い付けはじめた。
その作業をやりながら、少佐は私とミッサニに指示を出す。私は合流したばかりで、状況がはっきりと把握できていないため、指示が欲しい。
「HyperHES(イペレス)を点滴しろ!」
HyperHESとは我々が持っている点滴剤のなかで最も塩分が高い。深刻な出血多量のときに用いる。これが今必要なのだが、私はこの点滴剤をバックパックに携行していなかった。
出血の度合いや負傷の種類によって、用いる点滴剤が変わってくるため、我々医療班は3種類の点滴剤を使用するのだが、私はHyperHES以外の2種類を携行していた。
オアロ上級軍曹とバディーを組んだとき、彼がHyperHESを携行することになったのだ。我々2人に1つだけしか支給されなかった。フランス軍はHyperHESをあまり保有していないのだろう。
私は言った。
「上級軍曹がHyperHESを持っています。」
「上級軍曹! HyperHESをくれ!」
オアロ上級軍曹がこの場にいないことを知らないらしく、プルキエ少佐は声を張り上げた。
「了解!」
なんと私の後ろからオアロ上級軍曹の声が聞こえ、合流したばかりの上級軍曹が私の横に現れた。私は気づかなかったが、少佐には彼が駆けつけてくるのが見えていたのだ。
フォリエッジ・グリーンのキャメルバックBMFを背中から地面におろし、HyperHESの液体の入ったパックと点滴チューブを取り出し、準備にとりかかった。
負傷者の左前腕の内側においては、ミッサニがすでに誘導針付きカテーテルを静脈に刺しているところだ。右腕にはすでに2度刺しているので、今度は左腕だ。
カテーテルはスムーズに入っていく。カテーテルより少し上の静脈を指で押さえ、血流を抑えながら、誘導針を抜く。
上級軍曹が準備したばかりの点滴チューブの先端をミッサニに差し出す。先端までHyperHESが行き届いている。ミッサニは右手で受け取ると、親指でチューブ先端のキャップを外した。そして、そこを左腕のカテーテルに接続し、フィルムやテープで固定した。
そのあいだ、私にもちゃんと仕事はあった。
負傷者の喉に気管カニューレを縫い付けた少佐は、「アンビュバッグ」というラグビーボール型の風船のような、揉んで空気を送りこむ医療器具を取り出し、気管カニューレに接続した。
「ノダ、アンビュバッグを頼む。」
「はい、少佐殿。」
私は負傷者の左肩のそばにひざまずき、アンビュバッグを右手で揉み始めた。
私は衛生兵課程のときに習ったとおりの方法で、アンビュバッグを“シュー、シュー”と、親指先端と人差し指や中指が触れるくらいまで揉みきった。
「そうじゃない。こうするんだ。」
少佐が落ち着いた口調で言い、アンビュバッグに手を伸ばしてきたので、私は手を引いた。
アンビュバッグをつかんだ少佐は、“シュッ、シュッ、シュッ、シュッ”と、素早く小刻みに揉んだ。
「わかりました。」
私は少佐に告げると、再びアンビュバッグを受け持ち、少佐の教えてくれた方法で揉み始めた。“シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ・・・・・”。
この瞬間から後方の医療班に負傷者を引き渡すまでの、私のノンストップな単純作業が始まった。単純だが、同僚1人の命が関わる重要な作業だ。責任を感じた。
少佐がこの揉み方について解説をする。私は揉みながら聴いた。
「肺に血が入り込んでいて、空気の入るスペースが小さくなっている可能性がある。空気をたくさん送りこむと、入りきらない空気が胃にまわり、嘔吐してしまうかもしれないから、こうするんだ。」
なるほど!軍医はすごい。私は負傷者の状態を考えず、教科書通りのやりかたでアンビュバッグを揉むくらいの頭脳しか持ち合わせていなかったが、少佐はしっかりと対応し、しかも、戦場で落ち着いて私にそうする理由を説明し、納得させた。
私がアンビュバッグを受け持ってからは、少佐はもっぱら、負傷者の状態を記す「フィールド・メディカル・カード」の記入と、我々に指示を出すほうに徹し、医療行為は我々3人で行なう形となった。演習で何回かやった状況だ。
つづく
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2013年08月05日
戦傷者Part3
プルキエ少佐とミッサニ伍長は低い体勢で負傷者のもとまで走ってきて伏せた。いつまた銃撃が始まるかわからない。必要以上に高い姿勢はとらないほうがいい。
2人が負傷者にたどり着いたとき、ブルガリア人のナコフ伍長が負傷者を畑の段差の陰に引きずり込み、仰向けに寝かしていた。すぐそばでブラジル人のダ・シルバ一等兵が、伏せてFAMASを構え、援護している。
「どこを撃たれた?!」
少佐がナコフに尋ねる。
「頭です!」
少佐とミッサニは負傷者の額に小さな射入口を見つけた。血は垂れ出しているが、吹き出すほどの勢いではない。しかし、負傷者の咳により、口からは血が吹き上がっていた。
2人が治療を始めるのと同時に、ナコフは負傷者のもとを離れ、ダ・シルバの2~3mとなりに伏せ、援護に加わった。
銃撃戦が再び始まった。
弾丸の飛び交う下で、少佐とミッサニは伏せたまま負傷者に対処した。まずは頭部のケガだ。額に射入口があるということは、射出口が後頭部にあるだろう。
少佐が負傷者のヘルメットを外すと、左後頭部に500円玉くらいの大きさの射出口があった。ミッサニは負傷者のアーマーにある、赤十字マークのついた小型ポーチからイスラエル製圧迫包帯を取り出した。原則として、負傷者本人の医療キットを使用する。
圧迫包帯には出血部位に当てるためのパッドの部分がある。ミッサニはパッドを後頭部の射出口に当てると、バンドを巻き始めた。伏せたまま巻くのは難しい。少佐が頭を支えたりして、ミッサニの作業を手伝う。
圧迫包帯は、射入口もふさぐように巻かれ、撃たれた穴から流れ出る血は止められた。内出血があるが、ここではどうしようもない。
内出血により、まぶたが腫れ、鼻孔や口から血が出ている。はやく弾丸の届かないところまで負傷者を運び、やりやすい姿勢で治療をしたいが、銃撃戦のさいちゅうなので、伏せたまま治療をつづけるしかない。
少佐は気管切開キットをバックパックから取り出した。喉に血が入っており、気道を確保する必要がある。少佐は専用のメスで負傷者の喉に小さな切込みを入れ、そこから気管のなかに直径5mm、長さ10㎝くらいのチューブを差し込む。
チューブの最後部には、小さなヒレのようなストッパーがついており、チューブ全体が気管に入ってしまわないようにしてある。さらに最後部は、「アンビュバッグ」と呼ばれるラグビーボール状の風船のような、揉むことで空気を送りこむ器具が接続できるアダプターにもなっている。
いっぽうミッサニは負傷者のアーマーを脱がす作業に取りかかっていた。搬出するのに防弾装備や銃は負担となる。装備類は、搬出する人員以外の者が担当する。
我々の着用しているパラクリート社製のアーマーは、右胸の端にふっくらした四角いパーツがあり、それをひっぱるとパーツに連結している細いケーブル3本が引き出される。ケーブルがアーマーから引き抜かれると、アーマーは前面と後面の2つに分解され、簡単に脱がすことができる。
ミッサニはケーブルをひっぱった。アーマーは分解されない。ケーブルが完全に抜けていないのだ。しかし、ミッサニはケーブルを少し引くだけでアーマーが分解されると思い込んでいた。
ケーブルの分解システムが不良品だと思ったミッサニは、分解をあきらめて、普通にアーマーを脱がせる方法をとることにした。マジックテープによる結合をはがし、アーマーの両脇の連結は解けたが、両肩部分の連結はケーブルにより固定されているので解けなかった。
ミッサニは、気管にチューブを差し込み終えた少佐と協力し、アーマー前面を持ち上げ、戦車の上部ハッチを開けるような動作で、頭部側に開いた。そうして頭部をアーマーから抜き、やっと負傷者からアーマーを脱がすことができた。
少佐は、畑の隅の土塀にいる第4小隊の副小隊長オラチオ上級軍曹に、負傷者搬出のために2人の戦闘員を回すように要請した。ここから数十メートル移動すれば、弾丸の飛んでこない通路に入れる。
2人の人員を待つ時間を無駄にしないため、少佐は点滴を実施することを決めた。負傷者は多量に吐血したため、失った血を補う必要がある。
ミッサニが負傷者の右袖をハサミで切りはじめ、少佐が近くに転がっていた負傷者のバックパックから点滴キットを取り出し、生理食塩水の入った輸液バッグにチューブを取りつけ、準備をする。
ミッサニが負傷者の右上腕にゴム製の駆血帯を締めると、静脈がくっきりと浮きでてきた。前腕の静脈に狙いを定め、カテーテルを刺す。カテーテルは外れることなく静脈内に刺し込まれた。
ミッサニは、刺した部分より数センチ上の静脈を指で圧迫し、カテーテル内の誘導針を抜いた。圧迫しなければ、誘導針を抜いたところから血が垂れだす。
少佐は輸液チューブの先端をミッサニに差し出す。ミッサニはあいている右手で受けとり、カテーテルに接続し、駆血帯を外した。そして、少佐がクランプ(輸液チューブを圧迫し、液体が流れるのを止める部分)をゆるめると、点滴筒(チューブ上部にある直径2㎝くらいの筒)のなかを生理食塩水がポタポタと流れはじめた。ちゃんと静脈内に注入されている。
ミッサニと軍医はカテーテルが前腕から外れないように、テープを貼ったうえに包帯を巻き、しっかりと固定した。そして、2人の戦闘員が到着すると、医療バックパックを背負い、4人で負傷者を運びはじめた。どのように運んだか聞いていないが、ほとんど引きずる感じになっていただろう。
つづく
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2人が負傷者にたどり着いたとき、ブルガリア人のナコフ伍長が負傷者を畑の段差の陰に引きずり込み、仰向けに寝かしていた。すぐそばでブラジル人のダ・シルバ一等兵が、伏せてFAMASを構え、援護している。
「どこを撃たれた?!」
少佐がナコフに尋ねる。
「頭です!」
少佐とミッサニは負傷者の額に小さな射入口を見つけた。血は垂れ出しているが、吹き出すほどの勢いではない。しかし、負傷者の咳により、口からは血が吹き上がっていた。
2人が治療を始めるのと同時に、ナコフは負傷者のもとを離れ、ダ・シルバの2~3mとなりに伏せ、援護に加わった。
銃撃戦が再び始まった。
弾丸の飛び交う下で、少佐とミッサニは伏せたまま負傷者に対処した。まずは頭部のケガだ。額に射入口があるということは、射出口が後頭部にあるだろう。
少佐が負傷者のヘルメットを外すと、左後頭部に500円玉くらいの大きさの射出口があった。ミッサニは負傷者のアーマーにある、赤十字マークのついた小型ポーチからイスラエル製圧迫包帯を取り出した。原則として、負傷者本人の医療キットを使用する。
圧迫包帯には出血部位に当てるためのパッドの部分がある。ミッサニはパッドを後頭部の射出口に当てると、バンドを巻き始めた。伏せたまま巻くのは難しい。少佐が頭を支えたりして、ミッサニの作業を手伝う。
圧迫包帯は、射入口もふさぐように巻かれ、撃たれた穴から流れ出る血は止められた。内出血があるが、ここではどうしようもない。
内出血により、まぶたが腫れ、鼻孔や口から血が出ている。はやく弾丸の届かないところまで負傷者を運び、やりやすい姿勢で治療をしたいが、銃撃戦のさいちゅうなので、伏せたまま治療をつづけるしかない。
少佐は気管切開キットをバックパックから取り出した。喉に血が入っており、気道を確保する必要がある。少佐は専用のメスで負傷者の喉に小さな切込みを入れ、そこから気管のなかに直径5mm、長さ10㎝くらいのチューブを差し込む。
チューブの最後部には、小さなヒレのようなストッパーがついており、チューブ全体が気管に入ってしまわないようにしてある。さらに最後部は、「アンビュバッグ」と呼ばれるラグビーボール状の風船のような、揉むことで空気を送りこむ器具が接続できるアダプターにもなっている。
いっぽうミッサニは負傷者のアーマーを脱がす作業に取りかかっていた。搬出するのに防弾装備や銃は負担となる。装備類は、搬出する人員以外の者が担当する。
我々の着用しているパラクリート社製のアーマーは、右胸の端にふっくらした四角いパーツがあり、それをひっぱるとパーツに連結している細いケーブル3本が引き出される。ケーブルがアーマーから引き抜かれると、アーマーは前面と後面の2つに分解され、簡単に脱がすことができる。
ミッサニはケーブルをひっぱった。アーマーは分解されない。ケーブルが完全に抜けていないのだ。しかし、ミッサニはケーブルを少し引くだけでアーマーが分解されると思い込んでいた。
ケーブルの分解システムが不良品だと思ったミッサニは、分解をあきらめて、普通にアーマーを脱がせる方法をとることにした。マジックテープによる結合をはがし、アーマーの両脇の連結は解けたが、両肩部分の連結はケーブルにより固定されているので解けなかった。
ミッサニは、気管にチューブを差し込み終えた少佐と協力し、アーマー前面を持ち上げ、戦車の上部ハッチを開けるような動作で、頭部側に開いた。そうして頭部をアーマーから抜き、やっと負傷者からアーマーを脱がすことができた。
少佐は、畑の隅の土塀にいる第4小隊の副小隊長オラチオ上級軍曹に、負傷者搬出のために2人の戦闘員を回すように要請した。ここから数十メートル移動すれば、弾丸の飛んでこない通路に入れる。
2人の人員を待つ時間を無駄にしないため、少佐は点滴を実施することを決めた。負傷者は多量に吐血したため、失った血を補う必要がある。
ミッサニが負傷者の右袖をハサミで切りはじめ、少佐が近くに転がっていた負傷者のバックパックから点滴キットを取り出し、生理食塩水の入った輸液バッグにチューブを取りつけ、準備をする。
ミッサニが負傷者の右上腕にゴム製の駆血帯を締めると、静脈がくっきりと浮きでてきた。前腕の静脈に狙いを定め、カテーテルを刺す。カテーテルは外れることなく静脈内に刺し込まれた。
ミッサニは、刺した部分より数センチ上の静脈を指で圧迫し、カテーテル内の誘導針を抜いた。圧迫しなければ、誘導針を抜いたところから血が垂れだす。
少佐は輸液チューブの先端をミッサニに差し出す。ミッサニはあいている右手で受けとり、カテーテルに接続し、駆血帯を外した。そして、少佐がクランプ(輸液チューブを圧迫し、液体が流れるのを止める部分)をゆるめると、点滴筒(チューブ上部にある直径2㎝くらいの筒)のなかを生理食塩水がポタポタと流れはじめた。ちゃんと静脈内に注入されている。
ミッサニと軍医はカテーテルが前腕から外れないように、テープを貼ったうえに包帯を巻き、しっかりと固定した。そして、2人の戦闘員が到着すると、医療バックパックを背負い、4人で負傷者を運びはじめた。どのように運んだか聞いていないが、ほとんど引きずる感じになっていただろう。
つづく
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2013年07月29日
戦傷者Part2
私が合流するまでに起きた出来事は次のようなことだった。
第1小隊、第4小隊がいっせいに北上を始めたあと、第4小隊も村のなかを進んでいた。やがてGCPが敵に発砲した少し後、いったん前進を止めた。このとき、2個分隊ほどが畑にいた。
一辺が70mくらいの作物の育っていない畑で、北から南に向けて下がる3段の段々畑になっていた。そのもっとも低くなっている南端の段を遮蔽物にする形で、2個分隊の兵士たちは伏せ、北に面して横一列の隊形をつくっていた。
畑の北側には大きなコンパウンドがあり、3つの出入り口が見えていた。3つとも扉がついておらず、中が見える。
コンパウンドと畑の西側はザクロか何かの森になっていて、東側は通路になっている。通路を挟んだ先は別のコンパウンドがあった。
畑の南側には、ところどころ崩れた、1.5mくらいの土塀があり、その南側に通路があり、その南側にまた別のコンパウンドがあった。
このとき、少佐とミッサニは、第4小隊の副小隊長オラチオ上級軍曹と3人で畑の南側にある土塀とコンパウンドのあいだにいた。上級軍曹はまっすぐ立ち、畑の分隊を見わたし、ミッサニは土塀から分隊と同じ方角へFAMASを構え、少佐は壁の陰に座っていた。
座っているだけの少佐を「臆病者」だとか「怠け者」だと思ってはいけない。彼は射撃訓練は受けているが、戦闘訓練はほとんど受けていない。彼がそこにいるのは、負傷者が発生したときのためだ。戦闘が起きて、彼が最初にやられてしまっては本末転倒なので、隠れていてくれるほうが都合がいい。
そもそも軍医がこんな最前線まで来るというフランス軍のシステムは圧倒的だ。
いっぽう、ミッサニや私のような衛生兵は戦闘中隊に所属し、戦闘訓練も受けていたので、戦う気も持っていた。負傷者が発生しないかぎり、我々は戦闘要員だ。
そういうわけで、ミッサニは畑の北側にあるコンパウンドの一番右の出入り口を見張っていた。そのとき、出入り口の内側を、右から左に向かって、サッと黒服にAKを持った敵が横切った。
“パン!パン!”
ミッサニは即座に撃った。当たらなかった。
「コンタクト!コンタクト!(コンタクト=接敵)」
ミッサニだけでなく、分隊の兵士の多くが大声を出しあう。
「コンパウンドの中にいる!出入り口に注意しろ!」
ミッサニが叫んで皆に知らせる。
この接敵にとき、敵の姿はミッサニにしか見えなかった。畑には2個分隊の兵士14名がいたのだが、段々畑の段差のせいで、敵を視認するには低すぎたのだ。ミッサニは土塀の後ろから立射に近い姿勢でいたので視認できた。
コンパウンドに敵がいると判明した今、ほとんどの者が真ん中の出入り口に注目していた。予想通り、黒い影が素早く横ぎる。
“バババババン!パンパンパン!”
皆、いっせいFAMASやMINIMIを発砲する。はずした。敵が現れて消えるまで一瞬なので、皆が反応して撃ち始めるときには、敵はもう見えない。再び静かになり、皆が一番左の出入り口に注目している。
このとき、ミッサニの位置から1人の敵が、コンパウンド左側の壁を乗り越え、森のなかへ消えていくのが見えた。敵は知らないうちに3つ目の出入り口を通り越していた。
「森のなかに1人逃げたぞ!」
ミッサニが叫んだ。
その情報が皆に届くが速いか、森のなかから7.62mm弾の連射が響いた。
“パパパパパパパパ・・・”
兵士たちも応戦する。
“ババババババン!パンパンパンパン!”
森のなかへと5.56mm弾が何発も撃ち込まれる。
敵もどんどん撃ってくる。ある兵士が弾倉交換のために、畑の段差に隠れたとき、自分の体に土の粉が降ってくるのに気づいた。どこから来るのか探すと、畑の南側にある土塀に敵弾が撃ち込まれ、固められた土を粉砕していたという。
やがて静かになった。
このとき、1人の兵士が3~4mとなりで伏射姿勢をとる兵士が、銃を構えたまま、顔面を地面にふせていることに気づいた。
「おい!起きろ!」
反応はない。
「おい、起きろと言うのに!」
やはり無反応だ。状況がやっと読めた兵士は叫んだ。
「ブレッセ!ブレッセ!(負傷者!負傷者!)」
となりの兵士は寝ているのではなく、被弾したのだ。
負傷者を知らせる大声を聞いた少佐とミッサニは「どこだ?!」と叫んだが、銃声で耳がキーンとなっている分隊の兵士たちには聞こえなかった。
撃たれた兵士のそばに、近くの兵士2人が転がりこんだ。そのことで、少佐とミッサニは自分たちが行くべき場所を悟り、土塀が崩れて低くなったところを乗り越え、走りだした。
つづく
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第1小隊、第4小隊がいっせいに北上を始めたあと、第4小隊も村のなかを進んでいた。やがてGCPが敵に発砲した少し後、いったん前進を止めた。このとき、2個分隊ほどが畑にいた。
一辺が70mくらいの作物の育っていない畑で、北から南に向けて下がる3段の段々畑になっていた。そのもっとも低くなっている南端の段を遮蔽物にする形で、2個分隊の兵士たちは伏せ、北に面して横一列の隊形をつくっていた。
畑の北側には大きなコンパウンドがあり、3つの出入り口が見えていた。3つとも扉がついておらず、中が見える。
コンパウンドと畑の西側はザクロか何かの森になっていて、東側は通路になっている。通路を挟んだ先は別のコンパウンドがあった。
畑の南側には、ところどころ崩れた、1.5mくらいの土塀があり、その南側に通路があり、その南側にまた別のコンパウンドがあった。
このとき、少佐とミッサニは、第4小隊の副小隊長オラチオ上級軍曹と3人で畑の南側にある土塀とコンパウンドのあいだにいた。上級軍曹はまっすぐ立ち、畑の分隊を見わたし、ミッサニは土塀から分隊と同じ方角へFAMASを構え、少佐は壁の陰に座っていた。
座っているだけの少佐を「臆病者」だとか「怠け者」だと思ってはいけない。彼は射撃訓練は受けているが、戦闘訓練はほとんど受けていない。彼がそこにいるのは、負傷者が発生したときのためだ。戦闘が起きて、彼が最初にやられてしまっては本末転倒なので、隠れていてくれるほうが都合がいい。
そもそも軍医がこんな最前線まで来るというフランス軍のシステムは圧倒的だ。
いっぽう、ミッサニや私のような衛生兵は戦闘中隊に所属し、戦闘訓練も受けていたので、戦う気も持っていた。負傷者が発生しないかぎり、我々は戦闘要員だ。
そういうわけで、ミッサニは畑の北側にあるコンパウンドの一番右の出入り口を見張っていた。そのとき、出入り口の内側を、右から左に向かって、サッと黒服にAKを持った敵が横切った。
“パン!パン!”
ミッサニは即座に撃った。当たらなかった。
「コンタクト!コンタクト!(コンタクト=接敵)」
ミッサニだけでなく、分隊の兵士の多くが大声を出しあう。
「コンパウンドの中にいる!出入り口に注意しろ!」
ミッサニが叫んで皆に知らせる。
この接敵にとき、敵の姿はミッサニにしか見えなかった。畑には2個分隊の兵士14名がいたのだが、段々畑の段差のせいで、敵を視認するには低すぎたのだ。ミッサニは土塀の後ろから立射に近い姿勢でいたので視認できた。
コンパウンドに敵がいると判明した今、ほとんどの者が真ん中の出入り口に注目していた。予想通り、黒い影が素早く横ぎる。
“バババババン!パンパンパン!”
皆、いっせいFAMASやMINIMIを発砲する。はずした。敵が現れて消えるまで一瞬なので、皆が反応して撃ち始めるときには、敵はもう見えない。再び静かになり、皆が一番左の出入り口に注目している。
このとき、ミッサニの位置から1人の敵が、コンパウンド左側の壁を乗り越え、森のなかへ消えていくのが見えた。敵は知らないうちに3つ目の出入り口を通り越していた。
「森のなかに1人逃げたぞ!」
ミッサニが叫んだ。
その情報が皆に届くが速いか、森のなかから7.62mm弾の連射が響いた。
“パパパパパパパパ・・・”
兵士たちも応戦する。
“ババババババン!パンパンパンパン!”
森のなかへと5.56mm弾が何発も撃ち込まれる。
敵もどんどん撃ってくる。ある兵士が弾倉交換のために、畑の段差に隠れたとき、自分の体に土の粉が降ってくるのに気づいた。どこから来るのか探すと、畑の南側にある土塀に敵弾が撃ち込まれ、固められた土を粉砕していたという。
やがて静かになった。
このとき、1人の兵士が3~4mとなりで伏射姿勢をとる兵士が、銃を構えたまま、顔面を地面にふせていることに気づいた。
「おい!起きろ!」
反応はない。
「おい、起きろと言うのに!」
やはり無反応だ。状況がやっと読めた兵士は叫んだ。
「ブレッセ!ブレッセ!(負傷者!負傷者!)」
となりの兵士は寝ているのではなく、被弾したのだ。
負傷者を知らせる大声を聞いた少佐とミッサニは「どこだ?!」と叫んだが、銃声で耳がキーンとなっている分隊の兵士たちには聞こえなかった。
撃たれた兵士のそばに、近くの兵士2人が転がりこんだ。そのことで、少佐とミッサニは自分たちが行くべき場所を悟り、土塀が崩れて低くなったところを乗り越え、走りだした。
つづく
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2013年07月22日
戦傷者Part1
デルトロ軍曹は、ヘッドセットに何か連絡が入ると、私に言った。
「第4小隊のほうで負傷者が出た。衛生班の増援が要請されてる。ノダ、出番だ。行くぞ。」
「どんなケガですか?」
「わからん。とにかく行くぞ。」
無線の連絡内容と地図から、2つの小隊の位置関係を把握している軍曹は6名の戦闘員と私を率いて走りだした。
どんな負傷だろうか?腕か脚を撃たれたのだろうか?第4小隊には軍医プルキエ少佐と衛生兵ミッサニ伍長が派遣され、一緒に行動している。すでに何か処置を始めているだろう。しかし、その2人では人手が足りないなんて、重傷に違いない。
そう考えながら、もと来た道を走って少し戻った後、深緑の麦畑をガサガサと抜け、幅2mほどの通路に、土塀が崩れた部分を通り、真横から入った。入るとすぐ左手に、第4小隊の副小隊長であるチリ人のオラチオ上級軍曹がいた。
「ノダ、軍医を手伝え。」
上級軍曹は落ち着いた声で言うと、上半身をひねり、20mくらい後方を指さした。
曹長の口調があまりに静かだったので、軽傷なのかと思ったが、曹長の指の先には、ひざまずいて両手を忙しく動かしているプルキエ少佐とミッサニ伍長の姿があった。不思議なことに、想定演習をしているような感覚を私は感じた。
2人の間には、1人の白人兵士が頭部をこっちに向けた状態で、仰向けに横たわっていた。すでにヘルメットもアーマーも脱がされ、仏軍迷彩服だけを着ていた。どんな傷なんだろう?近づかないと見えない。誰なのかすら、ここからはわからない。
デルトロ軍曹は、新たな命令を受けたらしく、負傷者がいるのとは逆の方向に通路を走り出した。私はここに残らないといけない。
「軍曹!軍曹!」
私はダッシュして軍曹に追いついた。そして伝える。
「私はここに残って軍医を補佐します。いいですね、軍曹!」
「もちろんだ。行け。」
班から私が離脱することを確認した軍曹は、そのまま6人の戦闘員を率いて駆けだした。
私は少佐たちのところへ急いだ。着ているアーマーやバックパックの重さは気にならなかった。負傷者の苦しみに比べれば大したことはない。彼を助けなければ・・・。
「少佐殿、今行きます!!」
私に気付いたプルキエ少佐が叫び返した。
「気管切開キットをくれ!」
私は20mほど先にいるプルキエ少佐とミッサニ伍長、そして負傷者のもとへ走りながら、A3メディカルパックの右肩側のショルダーストラップを、右腕をくぐらせ、はずした。それにつづいて、首から掛けているFAMASのストラップに右腕をくぐらせ、FAMASを背中側に回した。
仰向けの負傷者の左側にプルキエ少佐が、右側にミッサニ伍長がひざまずいている。負傷者の足の方向3~4mのところには、第4小隊の戦闘要員が2人立っていて、不安そうな顔で治療を見守っている。ここまで負傷者を運ぶのに携わったのだろう。
ミッサニが立ちあがり、私に向かって走りはじめる。私は走るのをやめ、地面にメディカルパックを置き、ひざまずいて、ジッパーを開けた。ミッサニが私のところに到達するのと同時くらいに気管切開キットを取り出し、ミッサニに手渡した。ミッサニは負傷者のもとへ戻り、少佐にキットを手渡した。
私はメディカルパックのジッパーを閉めることはせず、ただ中身がこぼれないように持ち、治療現場に近づいた。
「何が起きたんですか?」
私が聞くと、気管切開キットを軍医に渡したばかりのミッサニが答えた。
「頭を撃たれました。」
負傷者の顔を見る。
両方のまぶたが大きくはれあがり、紫色に変色している。最終ラウンドのボクサーのようだ。首をゆっくりと左右にふり、肘をゆっくりと曲げたり伸ばしたりしている。さらに、息を吐くのに合わせ、鼻の穴、口、喉に開けられた小さな穴から、ブクブクと血が小さく泡立っている。彼の本能が苦しみから逃れたいと感じているように思えた。
左まゆ毛中央の1㎝ほど上に、2針縫合されたばかりの長さ1㎝くらいの傷がある。敵の7.62mm弾がここに撃ち込まれたのだ。額に射入口があるということは、後頭部に射出口があるだろう。だが、わざわざ確認する余裕はない。気管切開キットを少佐にわたさなければならない。
しかし、なぜ私の気管切開キットが必要なのか?ミッサニか少佐のどちらかが1つ携行していたはずだ。いったい何があったのか?
つづく
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「第4小隊のほうで負傷者が出た。衛生班の増援が要請されてる。ノダ、出番だ。行くぞ。」
「どんなケガですか?」
「わからん。とにかく行くぞ。」
無線の連絡内容と地図から、2つの小隊の位置関係を把握している軍曹は6名の戦闘員と私を率いて走りだした。
どんな負傷だろうか?腕か脚を撃たれたのだろうか?第4小隊には軍医プルキエ少佐と衛生兵ミッサニ伍長が派遣され、一緒に行動している。すでに何か処置を始めているだろう。しかし、その2人では人手が足りないなんて、重傷に違いない。
そう考えながら、もと来た道を走って少し戻った後、深緑の麦畑をガサガサと抜け、幅2mほどの通路に、土塀が崩れた部分を通り、真横から入った。入るとすぐ左手に、第4小隊の副小隊長であるチリ人のオラチオ上級軍曹がいた。
「ノダ、軍医を手伝え。」
上級軍曹は落ち着いた声で言うと、上半身をひねり、20mくらい後方を指さした。
曹長の口調があまりに静かだったので、軽傷なのかと思ったが、曹長の指の先には、ひざまずいて両手を忙しく動かしているプルキエ少佐とミッサニ伍長の姿があった。不思議なことに、想定演習をしているような感覚を私は感じた。
2人の間には、1人の白人兵士が頭部をこっちに向けた状態で、仰向けに横たわっていた。すでにヘルメットもアーマーも脱がされ、仏軍迷彩服だけを着ていた。どんな傷なんだろう?近づかないと見えない。誰なのかすら、ここからはわからない。
デルトロ軍曹は、新たな命令を受けたらしく、負傷者がいるのとは逆の方向に通路を走り出した。私はここに残らないといけない。
「軍曹!軍曹!」
私はダッシュして軍曹に追いついた。そして伝える。
「私はここに残って軍医を補佐します。いいですね、軍曹!」
「もちろんだ。行け。」
班から私が離脱することを確認した軍曹は、そのまま6人の戦闘員を率いて駆けだした。
私は少佐たちのところへ急いだ。着ているアーマーやバックパックの重さは気にならなかった。負傷者の苦しみに比べれば大したことはない。彼を助けなければ・・・。
「少佐殿、今行きます!!」
私に気付いたプルキエ少佐が叫び返した。
「気管切開キットをくれ!」
私は20mほど先にいるプルキエ少佐とミッサニ伍長、そして負傷者のもとへ走りながら、A3メディカルパックの右肩側のショルダーストラップを、右腕をくぐらせ、はずした。それにつづいて、首から掛けているFAMASのストラップに右腕をくぐらせ、FAMASを背中側に回した。
仰向けの負傷者の左側にプルキエ少佐が、右側にミッサニ伍長がひざまずいている。負傷者の足の方向3~4mのところには、第4小隊の戦闘要員が2人立っていて、不安そうな顔で治療を見守っている。ここまで負傷者を運ぶのに携わったのだろう。
ミッサニが立ちあがり、私に向かって走りはじめる。私は走るのをやめ、地面にメディカルパックを置き、ひざまずいて、ジッパーを開けた。ミッサニが私のところに到達するのと同時くらいに気管切開キットを取り出し、ミッサニに手渡した。ミッサニは負傷者のもとへ戻り、少佐にキットを手渡した。
私はメディカルパックのジッパーを閉めることはせず、ただ中身がこぼれないように持ち、治療現場に近づいた。
「何が起きたんですか?」
私が聞くと、気管切開キットを軍医に渡したばかりのミッサニが答えた。
「頭を撃たれました。」
負傷者の顔を見る。
両方のまぶたが大きくはれあがり、紫色に変色している。最終ラウンドのボクサーのようだ。首をゆっくりと左右にふり、肘をゆっくりと曲げたり伸ばしたりしている。さらに、息を吐くのに合わせ、鼻の穴、口、喉に開けられた小さな穴から、ブクブクと血が小さく泡立っている。彼の本能が苦しみから逃れたいと感じているように思えた。
左まゆ毛中央の1㎝ほど上に、2針縫合されたばかりの長さ1㎝くらいの傷がある。敵の7.62mm弾がここに撃ち込まれたのだ。額に射入口があるということは、後頭部に射出口があるだろう。だが、わざわざ確認する余裕はない。気管切開キットを少佐にわたさなければならない。
しかし、なぜ私の気管切開キットが必要なのか?ミッサニか少佐のどちらかが1つ携行していたはずだ。いったい何があったのか?
つづく
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2013年05月27日
徒歩パトロールPart5
私がデルトロ軍曹の班に、そして、オアロ上級軍曹が別の班に組み込まれると、徒歩パトロールは再開された。
つい先ほど、GCPが村の東端で敵に発砲したが、取り逃がしたところなので、敵が少なくとも1人、そのあたりにいる。油断をしてしまわないように、複数いると仮定したほうがいい。
お互いに3mくらいの間隔を保ちながら、我々は通路を進んだ。私は班の最後尾で、シグという痩せているオーストリア人一等兵が私の前を行く。私はときどき後ろを振り向き、最後の班がついてきているかを確認する。大丈夫だ。ちゃんとついてきている。
何度か通路の角を曲がると、左側が土壁、右側が林という幅5~6mの通路に出た。林との境には別の戦闘班の兵士たちが配置についており、しゃがんだ姿勢で林の方向に目を光らせている。
ふと、我々の足元を1羽の鶏がひよこをたくさん率いて横ぎった。「コケコケ、ピヨピヨ」とにぎやかだ。ほんの一瞬だけ和やかな気分にひたったあと、すぐ「戦闘」に気持ちを戻した。
通路を引きつづき進むと、“バン!バン!”と2発の銃声が響いた。我々第1小隊の区域での発砲ではない。東側の第4小隊のほうからだ。セミオートの2連射なので、仏軍の誰かがFAMASを撃ったに違いない。敵はフルオートの連射が大好きだ。
私は「あ、始まった」と思った。我々はその銃声を聞いて、特に歩みを止めることなく、北に向かって通路を進む。ほどなくして縦横50mほどの広場につきあたった。
広場の手前に高さ1.5mほどの土塀があり、我々は横一列となり、土塀越しにFAMASやMINIMIを北側や北西側に向け、かまえた。今の私は衛生兵ではなく、完全に歩兵のモードとなっている。もし敵が視界に入り、それが射程範囲なら、撃つ。
広場の東側にも土塀があり、そこには別の戦闘班が配置されている。そして、広場の北側と東側にはコンパウンドがいくつか立ち並び、それらのあいだが通路を形成している。
“ババババババン!バンバン!バババババン!”
いくつもの銃が同時に発砲した。第4小隊のほうだ。我々からそんなに離れていない。広場の東側のコンパウンドのすぐ向こうだろう。そのコンパウンドのほうに目をやると、アフガン国軍の兵士たちが、コンパウンドの壁沿いに一列で歩いているのが見えた。
ディジタル模様の最新アフガン迷彩を着用し、M16A2小銃やPKM機関銃、RPG-7ロケットを携行している。最新アフガン迷彩は米海兵隊の森林ディジタル迷彩よりも緑色の配分を多くし、茶色を濃くしたような感じだ。
「おい、ANA(アナ=Afghan National Army=アフガン国軍)は俺たちを追い越しちゃいけないんだぞ。」
デルトロ軍曹がつぶやく。そして、ヘッドセットのマイクに向かって、アフガン国軍が第1小隊を追い越そうとしていることをボーボニス曹長に報告した。
すみやかに連絡が届いたらしく、コンパウンドの壁沿いにいる15名くらいのアフガン兵たちは前進をやめ、しゃがんだ。デルトロ軍曹の報告はボーボニス曹長、中隊長、連隊指揮通信部を経由して、アフガン国軍に届いたのだろう。
“ババババババン!バンバン!バババババン!”
再びいくつもの銃声が重なり合った。さきほどと同じ、第4小隊の方角かだ。その銃撃に関して、我々は何もすることはない。我々の担当する区域や方向を警戒することが今やるべきことだ。
銃声がやむと、しゃがんでいたアフガン兵たちが、何の遮蔽物もない広場を、いっせいに我々の方向へと走りだした。
“ババババババババン!”
銃声が激しくなる。“ヒュン”とか“ピュン”という、弾丸が空気を切り裂く音が聞こえないし、地面などに弾丸が撃ち込まれたりしていないので、我々のほうに銃弾は飛んできていないらしい。それでも、こんな近くで銃撃音を聞き、少し興奮した。
アフガン兵たちの装備の金具やPKM機関銃のベルト式弾薬が“カチャンカチャン”と金属音をたてる。「急げ!速く逃げてこい」と、私は心の中でアフガン兵たちに叫んだ。
最初に走り出したアフガン兵が私の前を横切る。私はFAMASを上に向け、銃口がアフガン兵に向かないようにする。銃口の安全管理は大切だし、撃たないとわかっていても銃口が向いているのは気分がいいものではないだろう。
1人、また1人と、次々にアフガン兵たちが広場を駆け抜け、我々のいる土塀の裏に滑りこんでくる。私は気づかなかったのだが、シグ一等兵とイタリア人のディオニシ一等兵は、RPG-7で1発ロケットを撃ちこんでから悠然と避難してきたアフガン兵を目撃した。どこを狙って撃ったのか不明だが、爆発音は聞こえなかった。
アフガン兵たち約15名全員が土塀に隠れる頃には銃声はやみ、アフガン国軍部隊の司令官が、地面に置いた無線機から伸びた受話器を横顔に押し付け、交信していた。落ち着いた口調だが、ダリ語なので何を言っているのか全然わからない。
つづく
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つい先ほど、GCPが村の東端で敵に発砲したが、取り逃がしたところなので、敵が少なくとも1人、そのあたりにいる。油断をしてしまわないように、複数いると仮定したほうがいい。
お互いに3mくらいの間隔を保ちながら、我々は通路を進んだ。私は班の最後尾で、シグという痩せているオーストリア人一等兵が私の前を行く。私はときどき後ろを振り向き、最後の班がついてきているかを確認する。大丈夫だ。ちゃんとついてきている。
何度か通路の角を曲がると、左側が土壁、右側が林という幅5~6mの通路に出た。林との境には別の戦闘班の兵士たちが配置についており、しゃがんだ姿勢で林の方向に目を光らせている。
ふと、我々の足元を1羽の鶏がひよこをたくさん率いて横ぎった。「コケコケ、ピヨピヨ」とにぎやかだ。ほんの一瞬だけ和やかな気分にひたったあと、すぐ「戦闘」に気持ちを戻した。
通路を引きつづき進むと、“バン!バン!”と2発の銃声が響いた。我々第1小隊の区域での発砲ではない。東側の第4小隊のほうからだ。セミオートの2連射なので、仏軍の誰かがFAMASを撃ったに違いない。敵はフルオートの連射が大好きだ。
私は「あ、始まった」と思った。我々はその銃声を聞いて、特に歩みを止めることなく、北に向かって通路を進む。ほどなくして縦横50mほどの広場につきあたった。
広場の手前に高さ1.5mほどの土塀があり、我々は横一列となり、土塀越しにFAMASやMINIMIを北側や北西側に向け、かまえた。今の私は衛生兵ではなく、完全に歩兵のモードとなっている。もし敵が視界に入り、それが射程範囲なら、撃つ。
広場の東側にも土塀があり、そこには別の戦闘班が配置されている。そして、広場の北側と東側にはコンパウンドがいくつか立ち並び、それらのあいだが通路を形成している。
“ババババババン!バンバン!バババババン!”
いくつもの銃が同時に発砲した。第4小隊のほうだ。我々からそんなに離れていない。広場の東側のコンパウンドのすぐ向こうだろう。そのコンパウンドのほうに目をやると、アフガン国軍の兵士たちが、コンパウンドの壁沿いに一列で歩いているのが見えた。
ディジタル模様の最新アフガン迷彩を着用し、M16A2小銃やPKM機関銃、RPG-7ロケットを携行している。最新アフガン迷彩は米海兵隊の森林ディジタル迷彩よりも緑色の配分を多くし、茶色を濃くしたような感じだ。
「おい、ANA(アナ=Afghan National Army=アフガン国軍)は俺たちを追い越しちゃいけないんだぞ。」
デルトロ軍曹がつぶやく。そして、ヘッドセットのマイクに向かって、アフガン国軍が第1小隊を追い越そうとしていることをボーボニス曹長に報告した。
すみやかに連絡が届いたらしく、コンパウンドの壁沿いにいる15名くらいのアフガン兵たちは前進をやめ、しゃがんだ。デルトロ軍曹の報告はボーボニス曹長、中隊長、連隊指揮通信部を経由して、アフガン国軍に届いたのだろう。
“ババババババン!バンバン!バババババン!”
再びいくつもの銃声が重なり合った。さきほどと同じ、第4小隊の方角かだ。その銃撃に関して、我々は何もすることはない。我々の担当する区域や方向を警戒することが今やるべきことだ。
銃声がやむと、しゃがんでいたアフガン兵たちが、何の遮蔽物もない広場を、いっせいに我々の方向へと走りだした。
“ババババババババン!”
銃声が激しくなる。“ヒュン”とか“ピュン”という、弾丸が空気を切り裂く音が聞こえないし、地面などに弾丸が撃ち込まれたりしていないので、我々のほうに銃弾は飛んできていないらしい。それでも、こんな近くで銃撃音を聞き、少し興奮した。
アフガン兵たちの装備の金具やPKM機関銃のベルト式弾薬が“カチャンカチャン”と金属音をたてる。「急げ!速く逃げてこい」と、私は心の中でアフガン兵たちに叫んだ。
最初に走り出したアフガン兵が私の前を横切る。私はFAMASを上に向け、銃口がアフガン兵に向かないようにする。銃口の安全管理は大切だし、撃たないとわかっていても銃口が向いているのは気分がいいものではないだろう。
1人、また1人と、次々にアフガン兵たちが広場を駆け抜け、我々のいる土塀の裏に滑りこんでくる。私は気づかなかったのだが、シグ一等兵とイタリア人のディオニシ一等兵は、RPG-7で1発ロケットを撃ちこんでから悠然と避難してきたアフガン兵を目撃した。どこを狙って撃ったのか不明だが、爆発音は聞こえなかった。
アフガン兵たち約15名全員が土塀に隠れる頃には銃声はやみ、アフガン国軍部隊の司令官が、地面に置いた無線機から伸びた受話器を横顔に押し付け、交信していた。落ち着いた口調だが、ダリ語なので何を言っているのか全然わからない。
つづく
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2013年05月20日
徒歩パトロールPart4
我々が歩きつづけていると、ふと通路両側の土塀が途切れ、大きな麦畑が現れた。その麦畑はコンパウンドの土壁や土塀に囲まれている。
「休憩だ。」
ボーボニス曹長が言う。第1小隊と第4小隊の進み具合を調節するために我々の前進を中断するのだろう。我々は北に向いて麦畑を眺める感じで、コンパウンドの壁沿いに作られたあぜ道に座り、壁にもたれた。
バックパックやアーマーの肩への負担がやわらぐ。私は深呼吸をし、バックパックから伸びるハイドレーション・リザーバーのチューブから水を飲む。目のまえの麦畑の向こうには、また土塀があり、樹木が塀より遥かに高く突き出ている。その上には澄みきった青空が広がっている。
そのとき青空に“ババババン!”と、短い連射音が響いた。
条件反射が働き、私は飛びこむように麦畑に伏せる。ボーボニス曹長や通信兵、バラシュやオアロ上級軍曹も全く同じことを、ほぼ同時にやった。伏せるさいに、彼らがきれいに同じ動きをしたのを目にし、滑稽だったので、不謹慎だが私は微笑んだ。
銃声はそれだけだったが、どこで誰が発砲したのかわからなかった。私の耳には村の東側、つまり我々第1小隊の担当区域で起きたように聞こえた。確実に言えるのは、私のいるところに向かって発砲されてはいないということだ。
我々が立ちあがると、通信兵の背負う無線機に連絡が入り、その内容をボーボニス曹長が我々に説明をした。
「村の東端でGCPが敵に向け発砲した。敵は逃げたから我々のほうに来るかもしれない。」
GCP(Groupement des Commandos Parachutistes)とは連隊の優秀な隊員で構成されるコマンド小隊だ。私はGCPが我々より東で活動しているとは知らなかった。曹長は知っていたようだ。
曹長が言う。
「なあ、指揮班に衛生要員が3人いるのは無駄じゃないか?オアロとノダは戦闘班と一緒に行動したほうがいい。そうしたほうが、どこで負傷者が発生しても、なるべく速く対処できるだろう。」
オアロ上級軍曹が答える。
「賛成です。私が前の戦闘班に行き、ノダが後ろの戦闘班に行くということでどうでしょう?」
「ああ、それでいい。」
曹長はそう答えると、ヘルメットの下に被っているヘッドセットから伸びるマイクに言った。
「2班、3班、そっちに衛生要員を1名ずつ送る。」
そのヘッドセットのコードは曹長のアーマーのポーチに入った小型無線機ER328につながっていて、この無線は小隊の分隊長のあいだでの交信に使われる。いっぽう、通信兵の背負う大型無線機ER314は中隊長、副中隊長と小隊長らのあいだでの交信に使われる。
オアロ上級軍曹は前から2つ目の第2班に向かい、私は最後尾から2つ目の第3班に合流した。そこの班長でアルゼンチン人のデルトロ軍曹に私は言った。
「一緒に行動します。」
「よし、班の最後尾を務めてくれ。」
鋭い目つきの軍曹が笑顔を見せながら、ドスの効いた声で言った。私は、よく知っている第3班の伍長たちや一等兵たちに「元気か?」と声をかけながら、班の最後尾についた。
やがて小隊は前進を再開した。デルトロ軍曹が班の先頭を歩き、6名の伍長・一等兵がつづき、そのあとを私が歩く。接敵はあるのだろうか?負傷者は発生してしまうのか?
(休憩写真)
つづく
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「休憩だ。」
ボーボニス曹長が言う。第1小隊と第4小隊の進み具合を調節するために我々の前進を中断するのだろう。我々は北に向いて麦畑を眺める感じで、コンパウンドの壁沿いに作られたあぜ道に座り、壁にもたれた。
バックパックやアーマーの肩への負担がやわらぐ。私は深呼吸をし、バックパックから伸びるハイドレーション・リザーバーのチューブから水を飲む。目のまえの麦畑の向こうには、また土塀があり、樹木が塀より遥かに高く突き出ている。その上には澄みきった青空が広がっている。
そのとき青空に“ババババン!”と、短い連射音が響いた。
条件反射が働き、私は飛びこむように麦畑に伏せる。ボーボニス曹長や通信兵、バラシュやオアロ上級軍曹も全く同じことを、ほぼ同時にやった。伏せるさいに、彼らがきれいに同じ動きをしたのを目にし、滑稽だったので、不謹慎だが私は微笑んだ。
銃声はそれだけだったが、どこで誰が発砲したのかわからなかった。私の耳には村の東側、つまり我々第1小隊の担当区域で起きたように聞こえた。確実に言えるのは、私のいるところに向かって発砲されてはいないということだ。
我々が立ちあがると、通信兵の背負う無線機に連絡が入り、その内容をボーボニス曹長が我々に説明をした。
「村の東端でGCPが敵に向け発砲した。敵は逃げたから我々のほうに来るかもしれない。」
GCP(Groupement des Commandos Parachutistes)とは連隊の優秀な隊員で構成されるコマンド小隊だ。私はGCPが我々より東で活動しているとは知らなかった。曹長は知っていたようだ。
曹長が言う。
「なあ、指揮班に衛生要員が3人いるのは無駄じゃないか?オアロとノダは戦闘班と一緒に行動したほうがいい。そうしたほうが、どこで負傷者が発生しても、なるべく速く対処できるだろう。」
オアロ上級軍曹が答える。
「賛成です。私が前の戦闘班に行き、ノダが後ろの戦闘班に行くということでどうでしょう?」
「ああ、それでいい。」
曹長はそう答えると、ヘルメットの下に被っているヘッドセットから伸びるマイクに言った。
「2班、3班、そっちに衛生要員を1名ずつ送る。」
そのヘッドセットのコードは曹長のアーマーのポーチに入った小型無線機ER328につながっていて、この無線は小隊の分隊長のあいだでの交信に使われる。いっぽう、通信兵の背負う大型無線機ER314は中隊長、副中隊長と小隊長らのあいだでの交信に使われる。
オアロ上級軍曹は前から2つ目の第2班に向かい、私は最後尾から2つ目の第3班に合流した。そこの班長でアルゼンチン人のデルトロ軍曹に私は言った。
「一緒に行動します。」
「よし、班の最後尾を務めてくれ。」
鋭い目つきの軍曹が笑顔を見せながら、ドスの効いた声で言った。私は、よく知っている第3班の伍長たちや一等兵たちに「元気か?」と声をかけながら、班の最後尾についた。
やがて小隊は前進を再開した。デルトロ軍曹が班の先頭を歩き、6名の伍長・一等兵がつづき、そのあとを私が歩く。接敵はあるのだろうか?負傷者は発生してしまうのか?
(休憩写真)
つづく
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2013年05月13日
徒歩パトロールPart3
IEDの発見されたコンパウンドを出た我々は、村と荒野の境にある深緑の麦畑やケシ畑のあぜ道を通り、第1小隊の戦闘班につづいて村を目指した。
なお、我々が活動していた地域では、ヘロインやアヘンになるケシが多く栽培されており、行く先々で目にした。アフガニスタンの法律でもケシ栽培は違法らしいが、我々フランス軍がケシを取り締まることは一切ない。
ケシにより生計を立てている村人たちもいるので、もし我々がケシの伐採などしたら現地住民を敵にまわしてしまう。村人に混ざって潜伏する敵の情報を得るには村人の協力が必要だ。だから、村人を敵にまわすような取締りはできない。
我々の標準規定で言われているのだが、アフガン国軍やアフガン警察がケシ畑の伐採や焼却を始めた場合、我々フランス軍部隊は早急に撤収し、村人から姿を隠す。そうすることで、ケシ取締りとフランス軍部隊は関係がないと村人に思い込ませ、敵視されないようにするのだ。
ケシについては、敵が麻薬ビジネスで儲けた金で武器を買ったりしているうえに、そのケシからできたヘロインなどが世界中に流出しているので、フランス軍も取り締まるべきではあるが、話はそう単純ではない。村人との関係のほうが優先だ。
やがて畑を通り過ぎ、我々は1.5mほどの高さの、横に長い土塀につきあたった。土塀の向こう側には、また麦畑が広がっているが、高い土壁に囲まれたコンパウンドがところどころにある。コンパウンドのひとつひとつが村人たちの“家”なのだが、まるで砦のように見える。
土塀越しに麦畑を眺める。ここを通って第4小隊は村の西側へ向かったのだろう。私から見て麦畑の右側、つまり麦畑以北からコンパウンドの数が増えており、我々が今、この村のほぼ南端にいることがわかる。
コンパウンドの内側は必ずしも住居とは限らない。内側がザクロなどの果樹園になっているコンパウンドもある。住居のコンパウンドは土塀が3m~5mくらいあり、果樹園や植林の場合は1.5m~2mなど、低めのことが多い。
第4小隊は配置についているだろうから、我々第1小隊も急いで配置につきたい。我々は土塀に沿って少し進んだあと、両側が土塀に挟まれた幅約2m通路へと入って行った。通路沿いに連なる高さ2~3mの土塀は、コンパウンドの土塀であり、我々はコンパウンドとコンパウンドの間を歩いていることになる。まるで屋根のない土の廊下みたいだ。
道はまっすぐな箇所もあるが、グネグネしたり、直角に曲がったり、交差点があったり、さまざまな形になっていた。幅が2mくらいある深い用水路までもが村のなかに来ており、村人の文明に感動したが、敵がこの地形をおおいに利用し攻撃してくるかもしれないと思い、気を引き締めた。
塀の向こう側から手榴弾を投げ込まれるかもしれないし、塀より上にAK47小銃だけ出して乱射してくるかもしれない。先頭の隊員は敵と鉢合わせするかもしれない。先頭を行く隊員は、役割なので仕方ないとは言え、すごく勇敢だと私は思う。
通路に第1小隊が入ったとき、ボーボニス曹長率いる我々指揮班は、戦闘班を2つ追い越して、最後尾ではなくなった。原則として指揮班は前後を戦闘班に守られる形で村のなかに展開する。
ここから第1小隊は村の西側半分の区域内にある通路をグネグネとパトロールし、第4小隊は同じように東側半分を行く。中隊長班は第4小隊とともに行動し、アフガン軍小隊は第1小隊のあとにつづく。工兵小隊がどこにいるのか私にはわからないが、ついに敵捜索が本格的に始まった。
2個戦闘班につづく指揮班における歩く順番は、まずボーボニス曹長とブラジル人通信兵がくっついて歩き、そのあと、第1小隊付き衛生兵のバラシュ一等兵、オアロ上級軍曹、そして私がつづく。班のなかでは間隔をだいたい2~3m開ける。
後ろを振り向くと、6~8mの間隔をあけて、後方の戦闘班のセルビア人隊員がMINIMIを持って歩いている。そいつは長身なのでMINIMIがサブマシンガンのように見える。
前後を戦闘班に固められているが、指揮班が安全であるわけでは全くない。敵はどこから攻撃してくるのか明確ではない。私は足元や土塀の上部などに警戒しながら進んだ。土塀を越える高さの樹木があれば、茂る枝や葉に隠れた敵がいないかなども注意する。少しは起こりうることだ。
恐怖感はない。「さあ、仕事をやってしまおう。敵が視界に入れば撃てばいい。負傷者が出たら処置すればいい。ただそれだけのことだ」と自分の心に言い聞かせていた。そういう気持ちが恐怖感を排除していたのかもしれないし、負傷や戦死の可能性が実感できないくらい鈍感だったのかもしれない。
つづく
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なお、我々が活動していた地域では、ヘロインやアヘンになるケシが多く栽培されており、行く先々で目にした。アフガニスタンの法律でもケシ栽培は違法らしいが、我々フランス軍がケシを取り締まることは一切ない。
ケシにより生計を立てている村人たちもいるので、もし我々がケシの伐採などしたら現地住民を敵にまわしてしまう。村人に混ざって潜伏する敵の情報を得るには村人の協力が必要だ。だから、村人を敵にまわすような取締りはできない。
我々の標準規定で言われているのだが、アフガン国軍やアフガン警察がケシ畑の伐採や焼却を始めた場合、我々フランス軍部隊は早急に撤収し、村人から姿を隠す。そうすることで、ケシ取締りとフランス軍部隊は関係がないと村人に思い込ませ、敵視されないようにするのだ。
ケシについては、敵が麻薬ビジネスで儲けた金で武器を買ったりしているうえに、そのケシからできたヘロインなどが世界中に流出しているので、フランス軍も取り締まるべきではあるが、話はそう単純ではない。村人との関係のほうが優先だ。
やがて畑を通り過ぎ、我々は1.5mほどの高さの、横に長い土塀につきあたった。土塀の向こう側には、また麦畑が広がっているが、高い土壁に囲まれたコンパウンドがところどころにある。コンパウンドのひとつひとつが村人たちの“家”なのだが、まるで砦のように見える。
土塀越しに麦畑を眺める。ここを通って第4小隊は村の西側へ向かったのだろう。私から見て麦畑の右側、つまり麦畑以北からコンパウンドの数が増えており、我々が今、この村のほぼ南端にいることがわかる。
コンパウンドの内側は必ずしも住居とは限らない。内側がザクロなどの果樹園になっているコンパウンドもある。住居のコンパウンドは土塀が3m~5mくらいあり、果樹園や植林の場合は1.5m~2mなど、低めのことが多い。
第4小隊は配置についているだろうから、我々第1小隊も急いで配置につきたい。我々は土塀に沿って少し進んだあと、両側が土塀に挟まれた幅約2m通路へと入って行った。通路沿いに連なる高さ2~3mの土塀は、コンパウンドの土塀であり、我々はコンパウンドとコンパウンドの間を歩いていることになる。まるで屋根のない土の廊下みたいだ。
道はまっすぐな箇所もあるが、グネグネしたり、直角に曲がったり、交差点があったり、さまざまな形になっていた。幅が2mくらいある深い用水路までもが村のなかに来ており、村人の文明に感動したが、敵がこの地形をおおいに利用し攻撃してくるかもしれないと思い、気を引き締めた。
塀の向こう側から手榴弾を投げ込まれるかもしれないし、塀より上にAK47小銃だけ出して乱射してくるかもしれない。先頭の隊員は敵と鉢合わせするかもしれない。先頭を行く隊員は、役割なので仕方ないとは言え、すごく勇敢だと私は思う。
通路に第1小隊が入ったとき、ボーボニス曹長率いる我々指揮班は、戦闘班を2つ追い越して、最後尾ではなくなった。原則として指揮班は前後を戦闘班に守られる形で村のなかに展開する。
ここから第1小隊は村の西側半分の区域内にある通路をグネグネとパトロールし、第4小隊は同じように東側半分を行く。中隊長班は第4小隊とともに行動し、アフガン軍小隊は第1小隊のあとにつづく。工兵小隊がどこにいるのか私にはわからないが、ついに敵捜索が本格的に始まった。
2個戦闘班につづく指揮班における歩く順番は、まずボーボニス曹長とブラジル人通信兵がくっついて歩き、そのあと、第1小隊付き衛生兵のバラシュ一等兵、オアロ上級軍曹、そして私がつづく。班のなかでは間隔をだいたい2~3m開ける。
後ろを振り向くと、6~8mの間隔をあけて、後方の戦闘班のセルビア人隊員がMINIMIを持って歩いている。そいつは長身なのでMINIMIがサブマシンガンのように見える。
前後を戦闘班に固められているが、指揮班が安全であるわけでは全くない。敵はどこから攻撃してくるのか明確ではない。私は足元や土塀の上部などに警戒しながら進んだ。土塀を越える高さの樹木があれば、茂る枝や葉に隠れた敵がいないかなども注意する。少しは起こりうることだ。
恐怖感はない。「さあ、仕事をやってしまおう。敵が視界に入れば撃てばいい。負傷者が出たら処置すればいい。ただそれだけのことだ」と自分の心に言い聞かせていた。そういう気持ちが恐怖感を排除していたのかもしれないし、負傷や戦死の可能性が実感できないくらい鈍感だったのかもしれない。
つづく
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2013年05月06日
徒歩パトロールPart2
まずは、第1小隊の援護のもと、第4小隊が村へ入って行った。そして、第1小隊が出発するときが来た。まずは戦闘班が入っていく。
村の手前に大きな遺跡のような大きなコンパウンド(現地の建物をこう呼ぶ)があった。上から見れば四角形に見えるように土塀が建てられており、一辺が100mくらいありそうだ。部分的に崩れている廃墟だが、エジプト文明の遺跡のようで美しい。
←そのコンパウンド
第4小隊はこのコンパウンドからやや遠くの道をたどって村に入ったが、我々第1小隊はこのコンパウンドを調べることにした。3つの戦闘班のうち、1班が塀が崩れたところから中へ入り、別の2つの班がそれぞれ左右の塀の外側に沿って歩いた。
彼らが異常を発見することなくコンパウンドを通り過ぎたので、我々指揮班はコンパウンドの中へ入った。中は雑草が少し生えた広場になっており、はるか昔に見放された廃墟のようだった。戦闘班が中をチェックしたので、ほぼ確実に敵は潜んでいないと思われるが、我々は慎重に広場の中央を進んでいく。我々が入った入口の真向かいに出口はあった。
そこも塀が崩れたところだ。かつてはここに扉があったが、古くなって扉が外れ、隙間ができたため、強度が低くなり、この部分が崩れたのだろう。遺跡と呼ぶより廃墟と呼ぶほうが正しいが、塀の色がエジプトのピラミッドのような色をしているので、映画「スターゲイト」の米兵になった気分がした。
すると突然、ボーボニス曹長がつぶやいた。
「なんだこれは?」
曹長のほうを向くと、曹長と通信兵が足元の地面を見つめている。もっとよく見えるように曹長がしゃがんだ。そこから5mほど離れた私の位置からは、地面から5㎝ほど伸びた白い細いコードが見える。電気コードっぽく見える。IEDでなければいいが。
曹長が静かに言った。
「全員、離れろ。電気コードの切れ端が地面から出ている。念のために工兵を呼ぶ。」
我々は歩いて遠ざかる。曹長は無線で中隊長に報告するとともに、工兵を要請した。
我々はコンパウンドの内壁に寄り掛かり座る。
←コンパウンド内のすみに座るオアロ上級軍曹とバラシュ一等兵
白いコードからは50mくらい離れている。少しすると工兵小隊の2名がコンパウンドに入ってきた。2人とも40歳くらいに見えるので、ベテラン工兵と思われる。実際の爆発物処理経験もあるかもしれない。
曹長は彼らに歩み寄り、コードの位置に案内したあと、我々の座っているところに戻ってきた。工兵2人の手元は見えなかったが、スコップで地面を少し掘ったりするのを眺めていると、1人が我々のほうへ歩いてきた。
「爆薬が見つかった。爆薬の量が多いから、もっと離れないとダメだ。このコンパウンドから出たほうがいい。」
工兵はニヤニヤした顔でそう言った。こんなときにニヤつくのは異常に思われるかもしれないが、私はなんとなく理解できる。自分の本領を発揮できる喜びかもしれないし、実はストレスを緩和するための自然な心理的反応かもしれない。
ボーボニス曹長が工兵に後の処理を頼むと、我々はコンパウンドの外へと歩いていった。曹長が言う。
「地面からヒモが出ていて、よく見たら電気コードだったから変だと思ったんだ、ハッハッハ。」
危機を回避すると人間は笑ってしまうものだ。
後になって聞いたのだが、そこには25㎏もの爆薬があり、携帯電話の遠隔操作で起爆する仕組みのIEDだった。もし爆発していれば、我々はあの世行きだったはずだが、なぜ爆破されなかったのか?工兵がいくつかの仮説を話してくれた。
最初の仮説としては、爆破の失敗が挙げられる。IEDの製造に不備があったり、携帯電話の遠隔操作に不備があったのかもしれない。つまり、不良品だったという説だ。
次の仮説は、起爆装置である携帯電話を持つ敵が、爆破するタイミングが来るまえに逃げたというもの。コンパウンドに近づくことなく、まず第4小隊が村に入って行ったので、村からコンパウンドを見張っていた敵は起爆することなく逃げるしかなかった。
村に入る前にコンパウンドに入っていたら、危なかったかもしれない。
次の仮説はIEDの放棄だ。敵はこの日より前の別の日に、待ち伏せのためにIEDを仕掛けたが、全然フランス軍がコンパウンドに入らないので諦めてしまった。
他にも仮説はあるだろうが、私が聞いたのは以上だ。とにかく自分たちが無事でよかった。このIEDは回収され、FOBトラ近くの荒野で爆破処理されたらしい。
コンパウンドを出た我々は村を目指した。
←コンパウンドを出たところ
←地雷やIEDを探す工兵(今回の記事とは別の日)
←別の任務で回収された爆発物の爆破処理
←その爆発物
つづく
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村の手前に大きな遺跡のような大きなコンパウンド(現地の建物をこう呼ぶ)があった。上から見れば四角形に見えるように土塀が建てられており、一辺が100mくらいありそうだ。部分的に崩れている廃墟だが、エジプト文明の遺跡のようで美しい。
←そのコンパウンド
第4小隊はこのコンパウンドからやや遠くの道をたどって村に入ったが、我々第1小隊はこのコンパウンドを調べることにした。3つの戦闘班のうち、1班が塀が崩れたところから中へ入り、別の2つの班がそれぞれ左右の塀の外側に沿って歩いた。
彼らが異常を発見することなくコンパウンドを通り過ぎたので、我々指揮班はコンパウンドの中へ入った。中は雑草が少し生えた広場になっており、はるか昔に見放された廃墟のようだった。戦闘班が中をチェックしたので、ほぼ確実に敵は潜んでいないと思われるが、我々は慎重に広場の中央を進んでいく。我々が入った入口の真向かいに出口はあった。
そこも塀が崩れたところだ。かつてはここに扉があったが、古くなって扉が外れ、隙間ができたため、強度が低くなり、この部分が崩れたのだろう。遺跡と呼ぶより廃墟と呼ぶほうが正しいが、塀の色がエジプトのピラミッドのような色をしているので、映画「スターゲイト」の米兵になった気分がした。
すると突然、ボーボニス曹長がつぶやいた。
「なんだこれは?」
曹長のほうを向くと、曹長と通信兵が足元の地面を見つめている。もっとよく見えるように曹長がしゃがんだ。そこから5mほど離れた私の位置からは、地面から5㎝ほど伸びた白い細いコードが見える。電気コードっぽく見える。IEDでなければいいが。
曹長が静かに言った。
「全員、離れろ。電気コードの切れ端が地面から出ている。念のために工兵を呼ぶ。」
我々は歩いて遠ざかる。曹長は無線で中隊長に報告するとともに、工兵を要請した。
我々はコンパウンドの内壁に寄り掛かり座る。
←コンパウンド内のすみに座るオアロ上級軍曹とバラシュ一等兵
白いコードからは50mくらい離れている。少しすると工兵小隊の2名がコンパウンドに入ってきた。2人とも40歳くらいに見えるので、ベテラン工兵と思われる。実際の爆発物処理経験もあるかもしれない。
曹長は彼らに歩み寄り、コードの位置に案内したあと、我々の座っているところに戻ってきた。工兵2人の手元は見えなかったが、スコップで地面を少し掘ったりするのを眺めていると、1人が我々のほうへ歩いてきた。
「爆薬が見つかった。爆薬の量が多いから、もっと離れないとダメだ。このコンパウンドから出たほうがいい。」
工兵はニヤニヤした顔でそう言った。こんなときにニヤつくのは異常に思われるかもしれないが、私はなんとなく理解できる。自分の本領を発揮できる喜びかもしれないし、実はストレスを緩和するための自然な心理的反応かもしれない。
ボーボニス曹長が工兵に後の処理を頼むと、我々はコンパウンドの外へと歩いていった。曹長が言う。
「地面からヒモが出ていて、よく見たら電気コードだったから変だと思ったんだ、ハッハッハ。」
危機を回避すると人間は笑ってしまうものだ。
後になって聞いたのだが、そこには25㎏もの爆薬があり、携帯電話の遠隔操作で起爆する仕組みのIEDだった。もし爆発していれば、我々はあの世行きだったはずだが、なぜ爆破されなかったのか?工兵がいくつかの仮説を話してくれた。
最初の仮説としては、爆破の失敗が挙げられる。IEDの製造に不備があったり、携帯電話の遠隔操作に不備があったのかもしれない。つまり、不良品だったという説だ。
次の仮説は、起爆装置である携帯電話を持つ敵が、爆破するタイミングが来るまえに逃げたというもの。コンパウンドに近づくことなく、まず第4小隊が村に入って行ったので、村からコンパウンドを見張っていた敵は起爆することなく逃げるしかなかった。
村に入る前にコンパウンドに入っていたら、危なかったかもしれない。
次の仮説はIEDの放棄だ。敵はこの日より前の別の日に、待ち伏せのためにIEDを仕掛けたが、全然フランス軍がコンパウンドに入らないので諦めてしまった。
他にも仮説はあるだろうが、私が聞いたのは以上だ。とにかく自分たちが無事でよかった。このIEDは回収され、FOBトラ近くの荒野で爆破処理されたらしい。
コンパウンドを出た我々は村を目指した。
←コンパウンドを出たところ
←地雷やIEDを探す工兵(今回の記事とは別の日)
←別の任務で回収された爆発物の爆破処理
←その爆発物
つづく
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2013年04月29日
徒歩パトロール
2010年4月8日、朝。
2日前に第2中隊の一等兵がヘルメットに被弾するという事態があったが、我々の士気は落ちてはいなかった。第3中隊のほとんどの兵士が、その一等兵を知らなかったからかもしれない。知り合いである同僚が被弾した場合、どうなるだろう。
我々は車列を成して、COP46からCOP51まで北上した。COP51の外側に駐車し、徒歩で村に入る準備にかかる。COP46を出る前にバックパックの中身などはすべて用意していたので、VABから降りて、ともに行動する予定の小隊のところに行けばいいだけだ。
私は運転席から降り、FAMASのスリングを首にかけた。VABの後部にまわると、観音開きの後部扉が開いており、オアロ上級軍曹とミッサニ伍長は出発準備を完了していた。
私のイーグル社製A3メディカルパックと、プルキエ少佐のキャメルバック社製BMFバックパックが、車両の奥から後部扉のそばまで引き出されていた。後部にいた2人がやってくれたのだ。少佐と私はバックパックを背負った。
「ノダ、行くぞ。少佐殿、ミッサニ、またあとで!」
オアロ上級軍曹が笑顔で言い、私は上級軍曹とともに第1小隊へと歩きだした。
今回の任務は、タガブ谷のある村に入り、敵がいないかパトロールをするという「テロリスト捜索」だ。しかし、我々フランス軍には住居に入って敵を捜す権限はなかった。
そこでアフガン国軍の出番だ。彼らにはその権限があるので、もし疑わしい住居があれば彼らが家宅捜索をする。我々はあくまでアフガン国軍とアフガン国家警察に軍事支援をするためにいるという建前だ。現地人のプライバシーに踏み込んだ活動はアフガン当局がやる。我々が他の国々の部隊と構成する国際部隊「ISAF」の「A」は「ASSISTANCE=支援」を意味する。
そういうわけで今回の任務は、アフガン国軍と我々第3中隊の合同作戦だ。参加するアフガン国軍の規模はわからないが、我々の近くで見かけたアフガン兵の人数を見るかぎり、一個小隊だ。
いっぽう第3中隊からは2個戦闘小隊と中隊長班、そして我々医療班が参加する。医療班は2人ずつのバディシステムに分けられ、それぞれの戦闘小隊に編入される。プルキエ少佐とミッサニの2人は第4小隊に、オアロ上級軍曹と私は第1小隊に配置される。
さらに、IED(即席爆発性装置)や地雷に対処する必要が生じた場合のために、工兵小隊が一個、我々のあとにつづく。第17工兵パラシュート連隊の小隊で、アフガン派遣前の演習をともに積んできた仲間だ。
なお、VABの運転手は通常では車内待機になるのだが、今回私は例外とされた。衛生要員の必要が認められたうえ、村の中の道は狭いので車両は入れない。村の端までなら来ることができるが、もしその必要が生じた場合、車両整備班の運転手と車長が医療班のVABに乗りこんで来てくれることになっている。
上級軍曹と私は第1小隊の小隊長でリトアニア人のボーボニス曹長に合流した。彼は筋肉の塊で、身体が太短く見える。FOBトラの鉄棒で、彼がアーマーを着たまま懸垂を軽くこなすのを見たことがある。腰を痛めてしまいそうなので、私にはできない。
「きみら2人は我々指揮班に同行してくれ。」
ボーボニス曹長が言った。指揮班とは小隊長の班だ。我々はその班について行き、どこかで負傷者が発生したら、急行すればいい。
指揮班には小隊長、通信兵、衛生兵、副小隊長、2名の狙撃兵がいるが、副小隊長と狙撃兵たちは、同じ第1小隊の4つある戦闘班のどれかと行動する。そのため、この日の指揮班は小隊長、通信兵、衛生兵、オアロ上級軍曹、私の5名だった。
第1小隊の衛生兵はハンガリー人のバラシュという一等兵だ。衛生兵としては新人だが、ハンガリーでは陸軍士官学校にいたエリートなので、なにも心配はいらない。
「ブラック1、出発せよ。」
無線から中隊長の命令が聞こえた。
「ブラック1、了解。」
ボーボニス曹長が答える。
私はFAMASの装弾レバーを少し引き、排莢口のボルトが少し後退した隙間に弾薬の一部が見えることを確認し、レバーを放した。弾は入っている。いつでも撃てる。
第1小隊はCOP51と村のあいだの荒野を縦一列で歩き始めた。しかし、村へは直行せず、村の端から200~300mくらいのところで、村に面して横一列隊形になったところで止まり、銃を構えた。
我々を追い越して、第4小隊が縦列を成して村へと向かっていくのが見えた。ひとりひとり5mくらいの間隔をあけている。班と班の間はもっとあいている。プルキエ少佐とミッサニ伍長の姿も見える。
計画では、まず第4小隊が村へ入り、その後、第1小隊が入ることになっている。第4小隊が村の西側半分を、第1小隊が東側半分をパトロールしながら北上する。中隊長班は2つの小隊のあいだを行き来し、状況に合わせて指揮をする。そして、第3中隊のバックに工兵小隊とアフガン国軍部隊がつく。
つづく
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
2日前に第2中隊の一等兵がヘルメットに被弾するという事態があったが、我々の士気は落ちてはいなかった。第3中隊のほとんどの兵士が、その一等兵を知らなかったからかもしれない。知り合いである同僚が被弾した場合、どうなるだろう。
我々は車列を成して、COP46からCOP51まで北上した。COP51の外側に駐車し、徒歩で村に入る準備にかかる。COP46を出る前にバックパックの中身などはすべて用意していたので、VABから降りて、ともに行動する予定の小隊のところに行けばいいだけだ。
私は運転席から降り、FAMASのスリングを首にかけた。VABの後部にまわると、観音開きの後部扉が開いており、オアロ上級軍曹とミッサニ伍長は出発準備を完了していた。
私のイーグル社製A3メディカルパックと、プルキエ少佐のキャメルバック社製BMFバックパックが、車両の奥から後部扉のそばまで引き出されていた。後部にいた2人がやってくれたのだ。少佐と私はバックパックを背負った。
「ノダ、行くぞ。少佐殿、ミッサニ、またあとで!」
オアロ上級軍曹が笑顔で言い、私は上級軍曹とともに第1小隊へと歩きだした。
今回の任務は、タガブ谷のある村に入り、敵がいないかパトロールをするという「テロリスト捜索」だ。しかし、我々フランス軍には住居に入って敵を捜す権限はなかった。
そこでアフガン国軍の出番だ。彼らにはその権限があるので、もし疑わしい住居があれば彼らが家宅捜索をする。我々はあくまでアフガン国軍とアフガン国家警察に軍事支援をするためにいるという建前だ。現地人のプライバシーに踏み込んだ活動はアフガン当局がやる。我々が他の国々の部隊と構成する国際部隊「ISAF」の「A」は「ASSISTANCE=支援」を意味する。
そういうわけで今回の任務は、アフガン国軍と我々第3中隊の合同作戦だ。参加するアフガン国軍の規模はわからないが、我々の近くで見かけたアフガン兵の人数を見るかぎり、一個小隊だ。
いっぽう第3中隊からは2個戦闘小隊と中隊長班、そして我々医療班が参加する。医療班は2人ずつのバディシステムに分けられ、それぞれの戦闘小隊に編入される。プルキエ少佐とミッサニの2人は第4小隊に、オアロ上級軍曹と私は第1小隊に配置される。
さらに、IED(即席爆発性装置)や地雷に対処する必要が生じた場合のために、工兵小隊が一個、我々のあとにつづく。第17工兵パラシュート連隊の小隊で、アフガン派遣前の演習をともに積んできた仲間だ。
なお、VABの運転手は通常では車内待機になるのだが、今回私は例外とされた。衛生要員の必要が認められたうえ、村の中の道は狭いので車両は入れない。村の端までなら来ることができるが、もしその必要が生じた場合、車両整備班の運転手と車長が医療班のVABに乗りこんで来てくれることになっている。
上級軍曹と私は第1小隊の小隊長でリトアニア人のボーボニス曹長に合流した。彼は筋肉の塊で、身体が太短く見える。FOBトラの鉄棒で、彼がアーマーを着たまま懸垂を軽くこなすのを見たことがある。腰を痛めてしまいそうなので、私にはできない。
「きみら2人は我々指揮班に同行してくれ。」
ボーボニス曹長が言った。指揮班とは小隊長の班だ。我々はその班について行き、どこかで負傷者が発生したら、急行すればいい。
指揮班には小隊長、通信兵、衛生兵、副小隊長、2名の狙撃兵がいるが、副小隊長と狙撃兵たちは、同じ第1小隊の4つある戦闘班のどれかと行動する。そのため、この日の指揮班は小隊長、通信兵、衛生兵、オアロ上級軍曹、私の5名だった。
第1小隊の衛生兵はハンガリー人のバラシュという一等兵だ。衛生兵としては新人だが、ハンガリーでは陸軍士官学校にいたエリートなので、なにも心配はいらない。
「ブラック1、出発せよ。」
無線から中隊長の命令が聞こえた。
「ブラック1、了解。」
ボーボニス曹長が答える。
私はFAMASの装弾レバーを少し引き、排莢口のボルトが少し後退した隙間に弾薬の一部が見えることを確認し、レバーを放した。弾は入っている。いつでも撃てる。
第1小隊はCOP51と村のあいだの荒野を縦一列で歩き始めた。しかし、村へは直行せず、村の端から200~300mくらいのところで、村に面して横一列隊形になったところで止まり、銃を構えた。
我々を追い越して、第4小隊が縦列を成して村へと向かっていくのが見えた。ひとりひとり5mくらいの間隔をあけている。班と班の間はもっとあいている。プルキエ少佐とミッサニ伍長の姿も見える。
計画では、まず第4小隊が村へ入り、その後、第1小隊が入ることになっている。第4小隊が村の西側半分を、第1小隊が東側半分をパトロールしながら北上する。中隊長班は2つの小隊のあいだを行き来し、状況に合わせて指揮をする。そして、第3中隊のバックに工兵小隊とアフガン国軍部隊がつく。
つづく
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
2013年04月22日
狙撃Part2
翌日もCOPから出ていったが、まる一日何も起きなかった。夕方前、まだ明るいうちに帰投を始めたのだが、COP46には戻らなかった。土埃を立てながら荒野を走行し、COP46よりも5kmほど北に建設されたCOP51に向かった。
COP51は、村の端から数百メートル離れたところに孤立した、100m弱の丘の麓にあった。COP46よりも村に近いが、村とは逆の側の麓にあるので、丘が頼もしい遮蔽物となっているうえ、見通しのよい見張り台の役目を果たしている。
COP51もバスチョン・ウォールに囲まれており、中にはテントやコンテナが並び、アフガン国軍が駐屯している。丘の上までT55 戦車が登っており、村の方向を向いている。
我々の車列はCOP51に入らず、COP横に駐車したものの、しばらくすると、COP51から村の方向とは逆の山地の方向へと進み、荒野から山地に入った。大きなタガブ谷から山地のほうに細く短く伸びる小さな谷を進むと、山地の中に盆地のような地形が広がった。
我々はVABを盆地に駐車した。盆地にはすでに第2中隊のVABが何台かいた。その中に、第2中隊医療班のVABもあった。我々がVABを駐車した位置から近い。ヘルメットを撃たれた兵士について聞くことができるだろう。
我々医療班4人は第2中隊の医療班のもとへ、あいさつに行った。彼らから10mくらい離れた地面には戦闘ズボンにTシャツ姿のリトアニア人一等兵が座っていて、ぼんやり遠くを眺めている。額の右上部分に大きな絆創膏を貼っているので、ヘルメットを撃たれたのはこいつだと確信した。
第2中隊の看護官がそのヘルメットを見せてくれた。前面のやや右下寄りにポツンと弾痕があった。弾痕や弾痕の周りは緑の塗装がはがれ、白くなっている。あと数センチ下に着弾していたら死んでいただろう。
ヘルメットの被弾した部分の内壁は少し隆起し、破れた表面からスペクトラ素材の白色が見える。その周りに少し血がついていた。3針縫う傷を負ったという。その程度で済んで良かったと言うべきだろうか。
第2中隊の医療班へのあいさつが済むと、私はミッサニ伍長とその一等兵のもとへ歩み寄った。プルキエ少佐やオアロ上級軍曹は、第2中隊の軍医や看護官と話し続けている。
私とミッサニは一等兵のそばにしゃがみ、あいさつした。
「どんな具合だ?」
私が尋ねると彼は答えた。
「まだ痛いです。吐き気はないですが、めまいがします。」
「撃たれたときの状況を話してくれないか?もし嫌だったら別にいいんだけど・・・。」
撃たれた体験を話すのは本人にとって苦しいことかもしれないと思ったが、私は尋ねた。
彼が言うには、荒野の小高くなった場所から周辺を見張っていたところ、下のほうに多くのヤギとヤギ使いの男性が現れた。その男性を見張っていると、突然男性は踵を返し、もと来た方向へ走り出した。
「どうしたんだ?」と彼は思ったが、再び視線を前方に戻した。そのとき、ガツンと頭に強い衝撃を感じ、地面に倒れこみ、周りの同僚たちが「大丈夫か ?!大丈夫か?!」と駆け寄ってきたという。
ヘルメットのアゴひもは締めていたが、アゴひもを固定するマジックテープが一瞬ではがれ、ヘルメットは飛んでいった。アゴひもの固定がバックル式だったら首を痛めていたかもしれない。
発砲は1発だけだったというので、狙撃らしかった。この一等兵から話を聞いたときは、どこから撃たれたのかわからなかったが、後で「600m離れた場所から」だと聞いた。けっきょく敵は見つけられなかった。
興味深いのはヤギ使いの行動だ。狙撃直前に踵を返し、走り去っている。この男性が狙撃したのではないだろうが、走り去るタイミングからして、彼には敵の狙撃手の存在がわかったのだろう。目がよかったのか、我々にはわからない合図があったのか?
とにかく、幸いなことに一等兵は、内側に割れ込んだヘルメット内壁で額を少し切っただけで済んだ。ヘルメット着用の大切さを痛感した私とミッサニは、話してくれたことに感謝し、VABに戻った。
2時間ほどその盆地に留まったあと、我々第3中隊は車列を成して、COP46へと帰った。そして、夜の医療班のブリーフィングで、「明日、徒歩で村のなかへ入ることが決まった」とプルキエ少佐が言った。
←ヘルメットから摘出された弾丸。撃たれたリトアニア人が後に首かざりにした。
つづく
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COP51は、村の端から数百メートル離れたところに孤立した、100m弱の丘の麓にあった。COP46よりも村に近いが、村とは逆の側の麓にあるので、丘が頼もしい遮蔽物となっているうえ、見通しのよい見張り台の役目を果たしている。
COP51もバスチョン・ウォールに囲まれており、中にはテントやコンテナが並び、アフガン国軍が駐屯している。丘の上までT55 戦車が登っており、村の方向を向いている。
我々の車列はCOP51に入らず、COP横に駐車したものの、しばらくすると、COP51から村の方向とは逆の山地の方向へと進み、荒野から山地に入った。大きなタガブ谷から山地のほうに細く短く伸びる小さな谷を進むと、山地の中に盆地のような地形が広がった。
我々はVABを盆地に駐車した。盆地にはすでに第2中隊のVABが何台かいた。その中に、第2中隊医療班のVABもあった。我々がVABを駐車した位置から近い。ヘルメットを撃たれた兵士について聞くことができるだろう。
我々医療班4人は第2中隊の医療班のもとへ、あいさつに行った。彼らから10mくらい離れた地面には戦闘ズボンにTシャツ姿のリトアニア人一等兵が座っていて、ぼんやり遠くを眺めている。額の右上部分に大きな絆創膏を貼っているので、ヘルメットを撃たれたのはこいつだと確信した。
第2中隊の看護官がそのヘルメットを見せてくれた。前面のやや右下寄りにポツンと弾痕があった。弾痕や弾痕の周りは緑の塗装がはがれ、白くなっている。あと数センチ下に着弾していたら死んでいただろう。
ヘルメットの被弾した部分の内壁は少し隆起し、破れた表面からスペクトラ素材の白色が見える。その周りに少し血がついていた。3針縫う傷を負ったという。その程度で済んで良かったと言うべきだろうか。
第2中隊の医療班へのあいさつが済むと、私はミッサニ伍長とその一等兵のもとへ歩み寄った。プルキエ少佐やオアロ上級軍曹は、第2中隊の軍医や看護官と話し続けている。
私とミッサニは一等兵のそばにしゃがみ、あいさつした。
「どんな具合だ?」
私が尋ねると彼は答えた。
「まだ痛いです。吐き気はないですが、めまいがします。」
「撃たれたときの状況を話してくれないか?もし嫌だったら別にいいんだけど・・・。」
撃たれた体験を話すのは本人にとって苦しいことかもしれないと思ったが、私は尋ねた。
彼が言うには、荒野の小高くなった場所から周辺を見張っていたところ、下のほうに多くのヤギとヤギ使いの男性が現れた。その男性を見張っていると、突然男性は踵を返し、もと来た方向へ走り出した。
「どうしたんだ?」と彼は思ったが、再び視線を前方に戻した。そのとき、ガツンと頭に強い衝撃を感じ、地面に倒れこみ、周りの同僚たちが「大丈夫か ?!大丈夫か?!」と駆け寄ってきたという。
ヘルメットのアゴひもは締めていたが、アゴひもを固定するマジックテープが一瞬ではがれ、ヘルメットは飛んでいった。アゴひもの固定がバックル式だったら首を痛めていたかもしれない。
発砲は1発だけだったというので、狙撃らしかった。この一等兵から話を聞いたときは、どこから撃たれたのかわからなかったが、後で「600m離れた場所から」だと聞いた。けっきょく敵は見つけられなかった。
興味深いのはヤギ使いの行動だ。狙撃直前に踵を返し、走り去っている。この男性が狙撃したのではないだろうが、走り去るタイミングからして、彼には敵の狙撃手の存在がわかったのだろう。目がよかったのか、我々にはわからない合図があったのか?
とにかく、幸いなことに一等兵は、内側に割れ込んだヘルメット内壁で額を少し切っただけで済んだ。ヘルメット着用の大切さを痛感した私とミッサニは、話してくれたことに感謝し、VABに戻った。
2時間ほどその盆地に留まったあと、我々第3中隊は車列を成して、COP46へと帰った。そして、夜の医療班のブリーフィングで、「明日、徒歩で村のなかへ入ることが決まった」とプルキエ少佐が言った。
←ヘルメットから摘出された弾丸。撃たれたリトアニア人が後に首かざりにした。
つづく
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2013年04月15日
狙撃
はじめに
実は4月1日から13日まで、所用で英仏へ行っていました。なかなか日本語が打てるパソコンにありつけず、いただいたコメントへの返信が遅れてしましました。コメントをくださった皆さま、週末に返信を書きましたので、ご覧ください。
それでは、連載のつづきにまいりましょう。
――――――――――
アフガン兵が手首に被弾し、米陸軍のブラックホークに搬出された翌日、我々の車列はCOP46を出た。第1小隊4台、第4小隊4台、指揮小隊5台だ。
第1、第4小隊は戦闘班で構成されているが、指揮小隊は中隊長班、副中隊長班、ADU(中隊の最先任下士官)班、車両整備班、そして私の所属する医療班で構成されている。
第1、第4小隊のVABが列を成してCOP46を後にした。中隊長班や副中隊長班のVABはその列のどこかに混ざる。最後にADU班、医療班、車両整備班のVABがつづく。これら3つの班はいつも一組となって動く。
タガブ谷東側にひろがる荒野に、第3中隊の車両群が散らばった。しかし、どんな配置になっているのかは私にはわからない。我々の位置は谷の西側にある村の端から1kmくらい離れている。一番接近しているVABでも500~600mくらいではないかと思う。
第1小隊所属の狙撃班やミラン(対戦車ミサイル)班は小高くなった地形のところに陣取っているだろう。我々の荒野への展開に対する敵の反応を観測するのだ。
エンジンを切り、ヘルメットをハンドルの上に置いた。退屈な時間が始まった。何時間たっても、敵の反応はない。戦場の時間の多くはこのように暇だ。日光の暑さがVABの車体を通して体に伝わる。
脱水症状にならないように、運転席のわきに置いてある500mlのペットボトルからミネラルウォーターを飲んだ。そして再び、遠くに見える村に目をやる。
目では村を見ているが、心はもの思いにふけっていた。「1年後除隊したら何をしよう」とか、「日本の親友たちは今どうしているのだろう」とか、「アフガン派遣後の長期休暇はどこに行くか」など考えていた。
すると、中隊長から無線が入った。
「全コールサイン、レッドのほうで1人、ヘルメットを撃たれた。緊急搬送の必要はない。」
「レッド」とは第2中隊のコールサインだ。つまり、第2中隊の誰かがヘルメットに被弾したのだ。被弾すること自体は不運だが、ヘルメットに救われるのは好運と言えるだろう。
しかし、7.62mm弾をヘルメットに被弾すると、衝撃で首の骨を折ってしまうと聞いたことがある。無線で「搬出の必要はない」と言っていたので、折れてはいないのだろう。
ヘルメットに撃ち込まれた弾丸は遠距離から放たれたものだったかもしれないし、アゴひもを外していたから、ヘルメットだけが飛んでいき助かったのかもしれない。さまざまな条件で負傷の程度も変わる。
第2中隊がどこで何をしているのかについては、私は全然知るよしもなかった。ヘルメットに被弾したのは、激しい戦闘のときなのか、狙撃を受けたからなのか、それすらわからない。まあ、私の立場では、知る必要性がないから情報が届かないのだ。どのみち後で、現場にいた奴らから聞く。
←どこから狙撃されるかわからない。
我々第3中隊のほうでは何もなかった。朝から夕方まで荒野に停まったVABのなかで、丸一日太陽に蒸されたあと、暗くなると、車列を成してCOP46に戻った。
COP46に常駐している衛生兵が我々のVABのところにやってきた。外人部隊ではないフランス正規軍の、第1機甲パラシュート連隊に所属するフォエという名の黒人兵だ。40歳過ぎで中年太りをしている。
フォエは1990年に陸軍に入隊した古参兵で、初陣はなんと湾岸戦争だった。その後、アフリカ諸国や旧ユーゴスラビアの紛争など、いろいろな地域へ派遣され、アフガニスタンは2回目の派遣だという。
フォエとは、アフガニスタンに派遣される4ヶ月前の演習で一緒に行動し、知り合った。私より10歳以上年上だが、階級は私と同じ上級伍長なので仲良く話すことができた。
そんなフォエが、VABの後ろにいる我々のもとへやってきて、「村から敵がロケットを撃ってくるとしたら18時から22時のあいだだ」と言った。毎晩ではないが、毎週1回は必ず飛んでくるという。しかし、1発もCOP敷地内に落ちたことはない。
←これがよく飛んでくるロケット、中国製の「シコム」。のちに何度かCOP46の中心部に着弾し、車両やトイレを破損し、1名の死者と数名の負傷者を出すこととなる。
フォエは我々とともに缶ジュースを飲み、少し雑談をした後、自分の寝泊りする天幕へ戻って行った。天幕の半分が診療所で、残り半分が生活スペースとなっている。折り畳みベッドに寝る生活だ。
←COP46の診療所
←診察室/治療室。垂れ幕の向こう側が生活スペース
つづく
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実は4月1日から13日まで、所用で英仏へ行っていました。なかなか日本語が打てるパソコンにありつけず、いただいたコメントへの返信が遅れてしましました。コメントをくださった皆さま、週末に返信を書きましたので、ご覧ください。
それでは、連載のつづきにまいりましょう。
――――――――――
アフガン兵が手首に被弾し、米陸軍のブラックホークに搬出された翌日、我々の車列はCOP46を出た。第1小隊4台、第4小隊4台、指揮小隊5台だ。
第1、第4小隊は戦闘班で構成されているが、指揮小隊は中隊長班、副中隊長班、ADU(中隊の最先任下士官)班、車両整備班、そして私の所属する医療班で構成されている。
第1、第4小隊のVABが列を成してCOP46を後にした。中隊長班や副中隊長班のVABはその列のどこかに混ざる。最後にADU班、医療班、車両整備班のVABがつづく。これら3つの班はいつも一組となって動く。
タガブ谷東側にひろがる荒野に、第3中隊の車両群が散らばった。しかし、どんな配置になっているのかは私にはわからない。我々の位置は谷の西側にある村の端から1kmくらい離れている。一番接近しているVABでも500~600mくらいではないかと思う。
第1小隊所属の狙撃班やミラン(対戦車ミサイル)班は小高くなった地形のところに陣取っているだろう。我々の荒野への展開に対する敵の反応を観測するのだ。
エンジンを切り、ヘルメットをハンドルの上に置いた。退屈な時間が始まった。何時間たっても、敵の反応はない。戦場の時間の多くはこのように暇だ。日光の暑さがVABの車体を通して体に伝わる。
脱水症状にならないように、運転席のわきに置いてある500mlのペットボトルからミネラルウォーターを飲んだ。そして再び、遠くに見える村に目をやる。
目では村を見ているが、心はもの思いにふけっていた。「1年後除隊したら何をしよう」とか、「日本の親友たちは今どうしているのだろう」とか、「アフガン派遣後の長期休暇はどこに行くか」など考えていた。
すると、中隊長から無線が入った。
「全コールサイン、レッドのほうで1人、ヘルメットを撃たれた。緊急搬送の必要はない。」
「レッド」とは第2中隊のコールサインだ。つまり、第2中隊の誰かがヘルメットに被弾したのだ。被弾すること自体は不運だが、ヘルメットに救われるのは好運と言えるだろう。
しかし、7.62mm弾をヘルメットに被弾すると、衝撃で首の骨を折ってしまうと聞いたことがある。無線で「搬出の必要はない」と言っていたので、折れてはいないのだろう。
ヘルメットに撃ち込まれた弾丸は遠距離から放たれたものだったかもしれないし、アゴひもを外していたから、ヘルメットだけが飛んでいき助かったのかもしれない。さまざまな条件で負傷の程度も変わる。
第2中隊がどこで何をしているのかについては、私は全然知るよしもなかった。ヘルメットに被弾したのは、激しい戦闘のときなのか、狙撃を受けたからなのか、それすらわからない。まあ、私の立場では、知る必要性がないから情報が届かないのだ。どのみち後で、現場にいた奴らから聞く。
←どこから狙撃されるかわからない。
我々第3中隊のほうでは何もなかった。朝から夕方まで荒野に停まったVABのなかで、丸一日太陽に蒸されたあと、暗くなると、車列を成してCOP46に戻った。
COP46に常駐している衛生兵が我々のVABのところにやってきた。外人部隊ではないフランス正規軍の、第1機甲パラシュート連隊に所属するフォエという名の黒人兵だ。40歳過ぎで中年太りをしている。
フォエは1990年に陸軍に入隊した古参兵で、初陣はなんと湾岸戦争だった。その後、アフリカ諸国や旧ユーゴスラビアの紛争など、いろいろな地域へ派遣され、アフガニスタンは2回目の派遣だという。
フォエとは、アフガニスタンに派遣される4ヶ月前の演習で一緒に行動し、知り合った。私より10歳以上年上だが、階級は私と同じ上級伍長なので仲良く話すことができた。
そんなフォエが、VABの後ろにいる我々のもとへやってきて、「村から敵がロケットを撃ってくるとしたら18時から22時のあいだだ」と言った。毎晩ではないが、毎週1回は必ず飛んでくるという。しかし、1発もCOP敷地内に落ちたことはない。
←これがよく飛んでくるロケット、中国製の「シコム」。のちに何度かCOP46の中心部に着弾し、車両やトイレを破損し、1名の死者と数名の負傷者を出すこととなる。
フォエは我々とともに缶ジュースを飲み、少し雑談をした後、自分の寝泊りする天幕へ戻って行った。天幕の半分が診療所で、残り半分が生活スペースとなっている。折り畳みベッドに寝る生活だ。
←COP46の診療所
←診察室/治療室。垂れ幕の向こう側が生活スペース
つづく
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2013年04月08日
アフガン国軍兵士
再び、タガブ谷へと新たな任務に出た。我々第3中隊の指揮小隊、第1小隊、第3小隊が参加する。他にも第2中隊やアフガン国軍も参加する大掛かりな任務だ。
夕方、VABでCOP46に行った。バスチョンウォールに囲まれた敷地内には天幕が立ち並び、多くの兵士が駐屯していることを実感させる。我々はVABを駐車し、そこで一夜を明かした。基地は駐屯部隊により警備されているので、我々が歩哨に立つ必要はなく、途中で起きなくていい。
春が来たとはいえ、夜は冷える。真昼は灼熱なのに、夜はダウンジャケットを着て眠る。私はVABの屋根の上で眠るのが好きだった。スリーピングマットを敷いて、アーマーを枕にし、ポンチョライナー(化学繊維の毛布のようなもの)にくるまって眠る。
プルキエ少佐とミッサニ伍長はVABの真横に担架を置いて、それをベッドのようにして寝る。少佐がVABの右側、ミッサニが左側に寝る。オアロ上級軍曹はVAB後部内に設置された担架に寝る。医療用VABなので担架がいくつもあり、ほんの少し、他の班より快眠できたかもしれない。
翌日は出動せず、COP46にずっといた。第2中隊やアフガン国軍、第1機甲パラシュート連隊の1個小隊が何らかの任務を遂行しているようだった。昼ごろには遠くから銃撃音や爆発音が聞こえたりした。
どこで、どの部隊が、どんな状況になっているのか、よくわからなかったが、しばらくするとCOP46上空にアメリカ陸軍のブラックホークヘリが2機現れた。そのうち1機のサイドドアには赤十字マークがペイントされている。
どうやら負傷者が出たらしい。ケガしたのは知り合いか?
いつのまにか負傷者は車両でCOP46 に搬入され、米軍ブラックホークが病院へ搬送するために飛んできたのだ。赤十字のついたブラックホークだけが、COP46のすぐ外にある広場に着陸し、もう1機は上空を旋回し、周囲を警戒した。
私はVABの屋根に立ち、様子をうかがった。ここからなら広場が見える。キャノンのデジカメのスイッチも入れた。周りを見渡すと、ほんの5、6名しか見物していない。100人近くいるのに、それだけだ。将校や下士官は作戦会議などで忙しく、下っ端の多くは昼寝で忙しい。
屋根に立つことで気づいたのだが、広場の隅に、担架に乗せられた負傷者と搬送するフランス兵4名が見えた。他にも3名のフランス兵が見える。赤十字付きのブラックホークから1人の米軍クルーが降りてきて、フランス兵たちのもとへ歩いて行った。
少し話をするとすぐに、米兵が仏兵たちを先導する形で、全員ブラックホークに向け歩きだした。私はデジカメのシャッターを切った。戦場救護装備の企業が宣伝写真に使いそうな光景だった。
担架を運ぶ4名のフランス兵の周りを3名のフランス兵がうろちょろしながら写真を撮ったり、映像を撮ったりしている。写真映像の部隊から派遣されている要員だ。戦闘職ではないが、彼らも最前線まで行くことがある。いわば軍所属の戦場カメラマンだ。
やがて負傷者はブラックホークに載せられ、治療は米陸軍にゆだねられた。フランス兵たちが広場の隅へ小走りしていくと、ブラックホークは離陸し、2機そろって飛んでいった。
後で、負傷者の治療に携わった衛生兵に聞いたところ、負傷したのはアフガン兵だった。銃撃戦で手首を撃たれたが、弾丸は骨も動脈も損傷しておらず、AK47の7.62mm弾が貫通したらしいが、射入口も射出口も小さかった。
以前、書籍で「7.62mm弾が当たると肉が大きく吹き飛ぶ」というようなことを読んだことがあるが、そのアフガン兵の銃創は小さな穴が開いただけで、原型をしっかりと留めていた。本に書いてあることがいつも正しいとは限らないと実感した。
ただし、内部はどうなっていたのかわからない。神経が損傷されていたかもしれない。しかし、少なくともそのアフガン兵は生き残った。「メダルをもらうには最適な負傷の仕方だ」と同僚の衛生兵が言った。私はメダルは一切いらないので、軽傷すらなく無事に生き残りたいと思う。
ブラックホークが去ると、再び暇になった。ちょうど、アフガン国軍の車両(ハンヴィーやM113)がCOPにやってきて、我々のVABの近くに駐車したので、私は携帯糧食のビスケットやキャンディなどをかき集めて、ミッサニとともにアフガン兵たちのもとへと遊びに行った。
以前、一緒に食事をしたアフガン兵ラゼックはおらず、英語を話す者が1人もいなかった。しかも、ミッサニの母国語であるアラビア語も通じなかった。そのため、あまり話ができなかったが、身振り手振りで交流した結果、ビスケットなどは受け入れてもらうことができ、そのお礼にビニール袋に入ったナン(平たいパン)をもらった。
彼らはカッコをつけるのが好きで、ロケットが先端に装着されたRPG-7ロケットランチャーや、ベルト式弾薬の垂れ下がったPKM機関銃をどんどん見せてきた。私がデジカメをジャケットの胸ポケットから取り出すと、RPGやPKMをかまえてポーズをとった。撮影してやった。
彼らはとても友好的で、言葉も通じないながらも異文化交流が成立していることが私は嬉しかった。一緒に戦う同盟軍どうしなんだから、仲良くしたほうが得だ。こちらが敬意を持てば、向こうも敬意を持って接してくれる。
それに、私が日本人だということは理解してくれた。それもそのはずで、英語で自分のことを「ジャパニーズ」と伝えたのだが、彼らの言語で「日本人」は「ジャパニー」という。以降、私は彼らから「ジャパニー」と呼ばれるようになった。
この日、COP46でアフガン兵と和気あいあいと過ごしていたが、やがて我々の中隊に試練が訪れ、戦場というものを痛感することになる。
つづく
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
夕方、VABでCOP46に行った。バスチョンウォールに囲まれた敷地内には天幕が立ち並び、多くの兵士が駐屯していることを実感させる。我々はVABを駐車し、そこで一夜を明かした。基地は駐屯部隊により警備されているので、我々が歩哨に立つ必要はなく、途中で起きなくていい。
春が来たとはいえ、夜は冷える。真昼は灼熱なのに、夜はダウンジャケットを着て眠る。私はVABの屋根の上で眠るのが好きだった。スリーピングマットを敷いて、アーマーを枕にし、ポンチョライナー(化学繊維の毛布のようなもの)にくるまって眠る。
プルキエ少佐とミッサニ伍長はVABの真横に担架を置いて、それをベッドのようにして寝る。少佐がVABの右側、ミッサニが左側に寝る。オアロ上級軍曹はVAB後部内に設置された担架に寝る。医療用VABなので担架がいくつもあり、ほんの少し、他の班より快眠できたかもしれない。
翌日は出動せず、COP46にずっといた。第2中隊やアフガン国軍、第1機甲パラシュート連隊の1個小隊が何らかの任務を遂行しているようだった。昼ごろには遠くから銃撃音や爆発音が聞こえたりした。
どこで、どの部隊が、どんな状況になっているのか、よくわからなかったが、しばらくするとCOP46上空にアメリカ陸軍のブラックホークヘリが2機現れた。そのうち1機のサイドドアには赤十字マークがペイントされている。
どうやら負傷者が出たらしい。ケガしたのは知り合いか?
いつのまにか負傷者は車両でCOP46 に搬入され、米軍ブラックホークが病院へ搬送するために飛んできたのだ。赤十字のついたブラックホークだけが、COP46のすぐ外にある広場に着陸し、もう1機は上空を旋回し、周囲を警戒した。
私はVABの屋根に立ち、様子をうかがった。ここからなら広場が見える。キャノンのデジカメのスイッチも入れた。周りを見渡すと、ほんの5、6名しか見物していない。100人近くいるのに、それだけだ。将校や下士官は作戦会議などで忙しく、下っ端の多くは昼寝で忙しい。
屋根に立つことで気づいたのだが、広場の隅に、担架に乗せられた負傷者と搬送するフランス兵4名が見えた。他にも3名のフランス兵が見える。赤十字付きのブラックホークから1人の米軍クルーが降りてきて、フランス兵たちのもとへ歩いて行った。
少し話をするとすぐに、米兵が仏兵たちを先導する形で、全員ブラックホークに向け歩きだした。私はデジカメのシャッターを切った。戦場救護装備の企業が宣伝写真に使いそうな光景だった。
担架を運ぶ4名のフランス兵の周りを3名のフランス兵がうろちょろしながら写真を撮ったり、映像を撮ったりしている。写真映像の部隊から派遣されている要員だ。戦闘職ではないが、彼らも最前線まで行くことがある。いわば軍所属の戦場カメラマンだ。
やがて負傷者はブラックホークに載せられ、治療は米陸軍にゆだねられた。フランス兵たちが広場の隅へ小走りしていくと、ブラックホークは離陸し、2機そろって飛んでいった。
後で、負傷者の治療に携わった衛生兵に聞いたところ、負傷したのはアフガン兵だった。銃撃戦で手首を撃たれたが、弾丸は骨も動脈も損傷しておらず、AK47の7.62mm弾が貫通したらしいが、射入口も射出口も小さかった。
以前、書籍で「7.62mm弾が当たると肉が大きく吹き飛ぶ」というようなことを読んだことがあるが、そのアフガン兵の銃創は小さな穴が開いただけで、原型をしっかりと留めていた。本に書いてあることがいつも正しいとは限らないと実感した。
ただし、内部はどうなっていたのかわからない。神経が損傷されていたかもしれない。しかし、少なくともそのアフガン兵は生き残った。「メダルをもらうには最適な負傷の仕方だ」と同僚の衛生兵が言った。私はメダルは一切いらないので、軽傷すらなく無事に生き残りたいと思う。
ブラックホークが去ると、再び暇になった。ちょうど、アフガン国軍の車両(ハンヴィーやM113)がCOPにやってきて、我々のVABの近くに駐車したので、私は携帯糧食のビスケットやキャンディなどをかき集めて、ミッサニとともにアフガン兵たちのもとへと遊びに行った。
以前、一緒に食事をしたアフガン兵ラゼックはおらず、英語を話す者が1人もいなかった。しかも、ミッサニの母国語であるアラビア語も通じなかった。そのため、あまり話ができなかったが、身振り手振りで交流した結果、ビスケットなどは受け入れてもらうことができ、そのお礼にビニール袋に入ったナン(平たいパン)をもらった。
彼らはカッコをつけるのが好きで、ロケットが先端に装着されたRPG-7ロケットランチャーや、ベルト式弾薬の垂れ下がったPKM機関銃をどんどん見せてきた。私がデジカメをジャケットの胸ポケットから取り出すと、RPGやPKMをかまえてポーズをとった。撮影してやった。
彼らはとても友好的で、言葉も通じないながらも異文化交流が成立していることが私は嬉しかった。一緒に戦う同盟軍どうしなんだから、仲良くしたほうが得だ。こちらが敬意を持てば、向こうも敬意を持って接してくれる。
それに、私が日本人だということは理解してくれた。それもそのはずで、英語で自分のことを「ジャパニーズ」と伝えたのだが、彼らの言語で「日本人」は「ジャパニー」という。以降、私は彼らから「ジャパニー」と呼ばれるようになった。
この日、COP46でアフガン兵と和気あいあいと過ごしていたが、やがて我々の中隊に試練が訪れ、戦場というものを痛感することになる。
つづく
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
2013年04月01日
アフガンの春
タガブ谷の東に前哨砦「COP46」の原型ができたのが2010年3月初めだった。それから一か月が経ち、COP46は拡張工事で広くなり、FOBトラから一部の部隊が派遣され、100人を超えるフランス兵が駐屯するようになった。
COP46に駐屯する部隊のメインは第1機甲パラシュート連隊の部隊で、AMX10RCという装輪戦車も配備された。他にも、第35砲兵パラシュート連隊の迫撃砲も配備され、我々第2外人パラシュート連隊からもいくつかの分隊が派遣された。
←COP46
私はFOBトラに駐屯したままだ。COPの食事は美味しくないので、それでよかった。それにFOBトラにいれば、米軍特殊部隊に会える。
私が非常に驚いたのは、COP46が建設されて1ヶ月しか経っていないのに、私の知らないうちに、COP46よりも何キロか北にCOP51が建設されていたことだ。ここはアフガン国軍の駐屯地だった。仏軍の部隊は常駐していないと思う。
この1ヶ月のあいだに、我々はいくつかの任務に出たが、あまり大きな出来事はなかった。あるとき、夜中に山を登り、朝、敵の訓練キャンプではないかという疑惑のある村を監視したが、怪しい動きはなかった。
車両でタガブ谷の村に再度近づいたりもした。敵の大きな抵抗はなく、中隊長の班と第3小隊が徒歩で村に入っていった。軍医プルキエ少佐と衛生兵ミッサニ伍長も同行したが、私と看護官オアロ上級軍曹は装甲車VABで留守番だった。
私も村のなかが見たかったが、VABの出動が必要になったとき、運転手がいなければ本末転倒なので、我慢するしかなかった。そもそも命令なのだから、どうしようもない。私がここにいる理由は観光ではなく仕事なのだ。
村のなかを徒歩で行けば、敵が攻撃してくる可能性は高いのではないかと思ったが、なんの動きもなく、全員無事にVABへ帰ってきた。1ヶ月前までは、侵入すると必ず銃撃を受ける地域だったが・・・。
ミッサニが言うには、「村のなかは緑が豊かで美しかった。住民もたくさんいて、我々を見てくるが、笑顔は見せなかった。我々はきっと敵視されている」という。
4月に入り、荒野のそこらじゅうで雑草が芽を出し、茶色と砂色に支配されていた荒野に緑色が加わった。全体として乾燥した大地には変わりなく、雑草が茂っているのは一部で、砂色や茶色の部分のほうが多い。
しかしタガブ谷の川沿い一帯は草木が生い茂り、畑一面が緑色になっている。アフガニスタンに派遣されている軍隊の多くが砂漠迷彩を着用しているが、ここでは森林迷彩のほうが効果的だ。フランス軍がアフガニスタンで森林迷彩を採用しているわけが理解できた。
フランス軍は迷彩パターンの更新を計画していたが、アフガニスタンで現用迷彩パターンが意外と効果的だったので、更新しないことにしたという噂を聞いたことがある。その噂に納得がいくくらい、現用迷彩はいい色合いだった。
春の到来は兵士の健康面にも変化をもたらした。暖かくなり、下痢の症状を訴える兵士が激増した。気温の上昇で細菌が活発になったのだろう。私は手洗いに注意していたおかげか、下痢にならなかった。
さらに暖かくなれば、マラリア対策の錠剤を毎日一回飲むことが義務付けられる。ほんとうに意外なのだが、暑い夏が来ればアフガニスタンにもマラリアが発生する。ただし、それは一部の地域であり、我々のいる地域もその可能性があるだけで、必ずしもマラリア原虫を運ぶ蚊が発生するとは限らない。ただ念のために錠剤を飲む。
つづく
COP46に駐屯する部隊のメインは第1機甲パラシュート連隊の部隊で、AMX10RCという装輪戦車も配備された。他にも、第35砲兵パラシュート連隊の迫撃砲も配備され、我々第2外人パラシュート連隊からもいくつかの分隊が派遣された。
←COP46
私はFOBトラに駐屯したままだ。COPの食事は美味しくないので、それでよかった。それにFOBトラにいれば、米軍特殊部隊に会える。
私が非常に驚いたのは、COP46が建設されて1ヶ月しか経っていないのに、私の知らないうちに、COP46よりも何キロか北にCOP51が建設されていたことだ。ここはアフガン国軍の駐屯地だった。仏軍の部隊は常駐していないと思う。
この1ヶ月のあいだに、我々はいくつかの任務に出たが、あまり大きな出来事はなかった。あるとき、夜中に山を登り、朝、敵の訓練キャンプではないかという疑惑のある村を監視したが、怪しい動きはなかった。
車両でタガブ谷の村に再度近づいたりもした。敵の大きな抵抗はなく、中隊長の班と第3小隊が徒歩で村に入っていった。軍医プルキエ少佐と衛生兵ミッサニ伍長も同行したが、私と看護官オアロ上級軍曹は装甲車VABで留守番だった。
私も村のなかが見たかったが、VABの出動が必要になったとき、運転手がいなければ本末転倒なので、我慢するしかなかった。そもそも命令なのだから、どうしようもない。私がここにいる理由は観光ではなく仕事なのだ。
村のなかを徒歩で行けば、敵が攻撃してくる可能性は高いのではないかと思ったが、なんの動きもなく、全員無事にVABへ帰ってきた。1ヶ月前までは、侵入すると必ず銃撃を受ける地域だったが・・・。
ミッサニが言うには、「村のなかは緑が豊かで美しかった。住民もたくさんいて、我々を見てくるが、笑顔は見せなかった。我々はきっと敵視されている」という。
4月に入り、荒野のそこらじゅうで雑草が芽を出し、茶色と砂色に支配されていた荒野に緑色が加わった。全体として乾燥した大地には変わりなく、雑草が茂っているのは一部で、砂色や茶色の部分のほうが多い。
しかしタガブ谷の川沿い一帯は草木が生い茂り、畑一面が緑色になっている。アフガニスタンに派遣されている軍隊の多くが砂漠迷彩を着用しているが、ここでは森林迷彩のほうが効果的だ。フランス軍がアフガニスタンで森林迷彩を採用しているわけが理解できた。
フランス軍は迷彩パターンの更新を計画していたが、アフガニスタンで現用迷彩パターンが意外と効果的だったので、更新しないことにしたという噂を聞いたことがある。その噂に納得がいくくらい、現用迷彩はいい色合いだった。
春の到来は兵士の健康面にも変化をもたらした。暖かくなり、下痢の症状を訴える兵士が激増した。気温の上昇で細菌が活発になったのだろう。私は手洗いに注意していたおかげか、下痢にならなかった。
さらに暖かくなれば、マラリア対策の錠剤を毎日一回飲むことが義務付けられる。ほんとうに意外なのだが、暑い夏が来ればアフガニスタンにもマラリアが発生する。ただし、それは一部の地域であり、我々のいる地域もその可能性があるだけで、必ずしもマラリア原虫を運ぶ蚊が発生するとは限らない。ただ念のために錠剤を飲む。
つづく
2013年03月11日
新COP建設Part5
夜中になり、交替で見張りをし、3日目の朝がきた。3日目は特に何もなく、4日目になった。第3中隊と第2中隊の援護のもと建設が始まった新COP(前哨砦)に第3中隊のVABすべてが一時的に集結することになった。
我が中隊のVABは列を成して、COPが建設された地点をめざし、荒野を進んだ。遠くを眺めると、防御のために土が盛られているのが見えた。上空から見て正方形状に盛り土の防壁ができているとわかる。一辺が100mくらいだろう。一角に隙間があいており、そこが出入り口だ。
敵の攻撃の脅威があるなか、たった数日間で、よくこんな立派な陣地を作ったものだ。工兵隊や輸送隊の兵士たちに尊敬の念を抱いた。そして、工兵、輸送、戦闘などの異種部隊の協力の成果に感動した。
COPの前に列を成して駐車した。私はVABの屋根に立ち、COPを眺めた。COPのなかにはブルドーザーやショベルカー、トラックなどが駐車してある。防壁の土は2m~3mほど盛られ、簡易的かつ一時的な防御を担っている。やがてはバスチョンウォールを設置し、COPを拡張する。
新COPのそばで数時間の休息をとり、昼過ぎには再び村と向かい合う元の配置に戻った。何も起きないまま、4日目の朝が来て、平和なまま、4日目の夜になった。
この夜、疲れが溜まっていて、車内で狭い思いをして眠りたくなかった。私とミッサニ伍長はADU(中隊の最先任下士官)の許可を得て、VABの真横の地面に担架を置き、そのうえで眠ることにした。
担架の上にスリーピングマットを敷き、脱いだアーマーを枕にする。上着は脱ぎダウンジャケットを着て、横になった。ブーツは靴ヒモを少しゆるめるだけで脱がない。そして、暖かい寝袋のサイドジッパーを完全に開け、布団のように寝袋を体にかけた。ブーツのまま、両足を寝袋の中に入れる。泥などが付着していないから問題ない。ヘルメットは車内だが、FAMASは“枕元”にある。今夜はたくさん疲れが落とせそうだ。
看護官のオアロ上級軍曹はVABの後部内側の担架で眠り、プルキエ少佐は狭い助手席で眠る。少佐が最も階級が高いので、一番安全で一番快適な車内の担架で眠る優先権があるのだが、少佐は助手席を希望した。
23時00分、私はアーマーを装着し、FAMASを手に、夜中の見張りに就いた。少し眠いが、1時間交替なのでそんなに負担ではない。守るものはADU(中隊の最先任下士官)のVAB、車両整備班のVAB、そして医療班のVABの3台だ。その3台が成している円陣の外側をグルグル周りながら、敵が近づいてこないかなどを警戒する。周るべき円は直径30~40mくらいなので大したことない。
23時15分頃、1kmほど離れた村の中から、“バババババン・・・バババババン・・・バババババン・・・”と、3回にわかれた短い連射音が聞こえてきた。眠気は吹き飛び、私は自分のVABの運転席の扉を開け、助手席に座って眠るプルキエ少佐を起こした。
「少佐殿、村で発砲です。」
その後、ADUと車両整備班の両VABへと走り、運転席側の扉を開け、運転手らを起こして発砲のことを知らせた。各車両の誰か1人を起こせば、そいつが他の乗員を起こすだろう。
私は自分のVABに戻り、運転席側の扉を開けた。少佐が言った。
「ノダ、乗れ。中隊長が『全員、VABに入れ』と無線で言ったところだ。」
「はい、少佐殿。」
“バババババン・・・バババババン・・・。”また発砲が始まった。
「あっ、見ろ。」
少佐が車内から前方斜め上空を指さした。私がその方向に首を向けると、淡い赤色に光る1発の曳光弾が40~50m上空を走り、我々の真上に到達する直前に消えた。線香花火のような、はかない美しさを感じた。
次の瞬間、我々のVABから左へ5m、つまり私の立ち位置から5mくらいの地面で、“プチューン”と音がした。敵の放った弾丸がすぐ近くに着弾したのだ。私は急いで運転席に飛びこみ、いつでも発車できるようにエンジンをかけた。命のほうが惜しいので、担架や寝袋はそのままだ。発車しても、後で回収するチャンスはある。
1時間半くらい車内に留まった。中隊長が「必要に応じ、VABから出てもよい」と無線で伝えた。私とミッサニ伍長はVABを出て、再び担架で眠った。確かに少しは危険だが、被弾する可能性は低いいっぽう、疲れを落とす重要性は高い。それらを天秤にかけた結果、少し危険を冒し、外で眠ることを選んだ。そのまま朝まで発砲はなく、私はよく眠れた。
その後は任務終了まで何も起きなかった。最終日である6日目も無事、夜中を迎え、未明に離脱し、FOBトラに帰還した。携帯糧食を食べつづけた6日間のあとに、FOBトラの食堂で食べたスクランブルエッグとカリカリに焼いたベーコンは格別だった。
ミランミサイルの落下など、いくつかハプニングはあったが、目的であった新COP建設は達成された。それが一番大切なことだと思う。タガブ谷から敵を追い出すという目標に向けての大きな一歩となった。敵は新COPを村から眺め、あせっているのではないだろうか。
新COPの名は「COP46」に決まった。
つづく
我が中隊のVABは列を成して、COPが建設された地点をめざし、荒野を進んだ。遠くを眺めると、防御のために土が盛られているのが見えた。上空から見て正方形状に盛り土の防壁ができているとわかる。一辺が100mくらいだろう。一角に隙間があいており、そこが出入り口だ。
敵の攻撃の脅威があるなか、たった数日間で、よくこんな立派な陣地を作ったものだ。工兵隊や輸送隊の兵士たちに尊敬の念を抱いた。そして、工兵、輸送、戦闘などの異種部隊の協力の成果に感動した。
COPの前に列を成して駐車した。私はVABの屋根に立ち、COPを眺めた。COPのなかにはブルドーザーやショベルカー、トラックなどが駐車してある。防壁の土は2m~3mほど盛られ、簡易的かつ一時的な防御を担っている。やがてはバスチョンウォールを設置し、COPを拡張する。
新COPのそばで数時間の休息をとり、昼過ぎには再び村と向かい合う元の配置に戻った。何も起きないまま、4日目の朝が来て、平和なまま、4日目の夜になった。
この夜、疲れが溜まっていて、車内で狭い思いをして眠りたくなかった。私とミッサニ伍長はADU(中隊の最先任下士官)の許可を得て、VABの真横の地面に担架を置き、そのうえで眠ることにした。
担架の上にスリーピングマットを敷き、脱いだアーマーを枕にする。上着は脱ぎダウンジャケットを着て、横になった。ブーツは靴ヒモを少しゆるめるだけで脱がない。そして、暖かい寝袋のサイドジッパーを完全に開け、布団のように寝袋を体にかけた。ブーツのまま、両足を寝袋の中に入れる。泥などが付着していないから問題ない。ヘルメットは車内だが、FAMASは“枕元”にある。今夜はたくさん疲れが落とせそうだ。
看護官のオアロ上級軍曹はVABの後部内側の担架で眠り、プルキエ少佐は狭い助手席で眠る。少佐が最も階級が高いので、一番安全で一番快適な車内の担架で眠る優先権があるのだが、少佐は助手席を希望した。
23時00分、私はアーマーを装着し、FAMASを手に、夜中の見張りに就いた。少し眠いが、1時間交替なのでそんなに負担ではない。守るものはADU(中隊の最先任下士官)のVAB、車両整備班のVAB、そして医療班のVABの3台だ。その3台が成している円陣の外側をグルグル周りながら、敵が近づいてこないかなどを警戒する。周るべき円は直径30~40mくらいなので大したことない。
23時15分頃、1kmほど離れた村の中から、“バババババン・・・バババババン・・・バババババン・・・”と、3回にわかれた短い連射音が聞こえてきた。眠気は吹き飛び、私は自分のVABの運転席の扉を開け、助手席に座って眠るプルキエ少佐を起こした。
「少佐殿、村で発砲です。」
その後、ADUと車両整備班の両VABへと走り、運転席側の扉を開け、運転手らを起こして発砲のことを知らせた。各車両の誰か1人を起こせば、そいつが他の乗員を起こすだろう。
私は自分のVABに戻り、運転席側の扉を開けた。少佐が言った。
「ノダ、乗れ。中隊長が『全員、VABに入れ』と無線で言ったところだ。」
「はい、少佐殿。」
“バババババン・・・バババババン・・・。”また発砲が始まった。
「あっ、見ろ。」
少佐が車内から前方斜め上空を指さした。私がその方向に首を向けると、淡い赤色に光る1発の曳光弾が40~50m上空を走り、我々の真上に到達する直前に消えた。線香花火のような、はかない美しさを感じた。
次の瞬間、我々のVABから左へ5m、つまり私の立ち位置から5mくらいの地面で、“プチューン”と音がした。敵の放った弾丸がすぐ近くに着弾したのだ。私は急いで運転席に飛びこみ、いつでも発車できるようにエンジンをかけた。命のほうが惜しいので、担架や寝袋はそのままだ。発車しても、後で回収するチャンスはある。
1時間半くらい車内に留まった。中隊長が「必要に応じ、VABから出てもよい」と無線で伝えた。私とミッサニ伍長はVABを出て、再び担架で眠った。確かに少しは危険だが、被弾する可能性は低いいっぽう、疲れを落とす重要性は高い。それらを天秤にかけた結果、少し危険を冒し、外で眠ることを選んだ。そのまま朝まで発砲はなく、私はよく眠れた。
その後は任務終了まで何も起きなかった。最終日である6日目も無事、夜中を迎え、未明に離脱し、FOBトラに帰還した。携帯糧食を食べつづけた6日間のあとに、FOBトラの食堂で食べたスクランブルエッグとカリカリに焼いたベーコンは格別だった。
ミランミサイルの落下など、いくつかハプニングはあったが、目的であった新COP建設は達成された。それが一番大切なことだと思う。タガブ谷から敵を追い出すという目標に向けての大きな一歩となった。敵は新COPを村から眺め、あせっているのではないだろうか。
新COPの名は「COP46」に決まった。
つづく
2013年03月04日
新COP建設Part4
翌朝、珍しく雨が降りだした。灼熱の太陽は隠れ、気温が下がっているが、まだまだ暑い。雨あしは強くはないが、VABから外に出ればすぐに全身ずぶ濡れになるだろう。
助手席に座る軍医のプルキエ少佐の太ももあたりに水滴がしたたりだした。雨もりだ。上部のハッチは閉めてあるが、車両が古いので隙間ができているのだ。
プルキエ少佐はできるだけ股を開いて水滴を避けたが、座席のキャンバス生地が濡れ、雨水がしみはじめた。やがては尻が濡れる。少佐はモゾモゾし、よい対策がないようだったので、私は「どうぞ」と、小さく畳んであるポンチョを運転席の隅から取り出し手わたした。
少佐はポンチョを広げ、両脚全体にかけた。水滴はポンチョを伝って、助手席の床に流れていくようになった。床には排水口があるので、水が溜まることはない。
「これはとても効果的だ。ありがとう。」
少佐は嬉しそうに言った。
やがて無線から中隊長の声が流れた。
「レッドの隊員1名が山を徒歩で移動中に転落し、脚を骨折。ヘリで搬出される。」
“レッド”とは第2中隊のコールサインだ。
我々はVABの中にいるので雨の影響は受けないが、山にいる第2中隊の一部にとっては、濡れて滑りやすくなった岩や石が大きな障害となる。少し滑っただけでも、アーマーや武器などの重装備により、バランスを取りもどすことが困難だ。
第2中隊にも専属の医療班がいるので、我々が急行する必要はない。骨折した兵士はフランスに戻ることになるだろう。アフガニスタンに着いてから2ヶ月も経っていないのに、気の毒だ。
昨日からずっと、第3中隊のVAB10台が横1列となり、村に面している。COP建設現場へ敵が向かうことを防ぐためだ。村の端からの距離は1kmもなく、敵が攻撃してきてもおかしくない距離だ。
12時が過ぎた。村は静かだ。もしかしたら、雨に濡れるのが嫌で敵は屋内で休んでいるのかもしれない。そうだとしたら、のどかな連中だが、そうとも限らない。油断はできない。
午後に入ると雨がやんで曇り空となった。それと同時に私は大きいほうの便意を催しはじめた。小便なら、運転席から出てすぐ、ズボンのジッパーを下げ、“チューブ”を出して、タイヤのあたりに放尿すればいいだけだ。
大便となると、ズボンも下着もおろし、しゃがまなければならない。しかも、私の場合、アーマーのサイズがやや大きくて、しゃがむにはアーマーを脱がざるをえない。あまりにも無防備な態勢となる。
それ以上に嫌なのは、まわりの同僚に大便の最中を見られることだ。写真を撮られ、後でひやかしの対象とされることがある。排便は誰もがする行為だが、それをおもしろがって白昼堂々と撮影する輩が少なからずいる。あとで写真を掲示板に張られたくない。
私は夜の闇がくるまで我慢することにした。
何も起きない退屈な時間が続いたが、16時頃、私の位置から1kmほど離れた村の端に小さな火の玉が一瞬見えた。実際の大きさは直径5mくらいだろう。土埃が舞う。「もしかしてロケット弾の爆発?」と思うやいなや、“ドーン”という爆発音が耳に届いた。
「ブラック3、敵をコンパウンドに確認。攻撃許可をお願いします。」
第3小隊の小隊長が無線連絡を入れ、そのコンパウンド(土壁でできた現地の家屋)の地点の地理座標を伝えた。中隊長が応答する。
「敵が今も視認できるか?」
「はい。」
平坦な荒野にいる第3小隊から見えるということは、敵は土壁の上部か、壁にある窓や穴や開いた扉から姿を現しているのだろう。中隊長が交信をつづける。
「武器を持っているのが視認できるか?」
「いいえ。」
「撃つな。」
ああ、またこれだ。うっとうしい。私は感情的にそう思った。しかし、理性的には「誤爆・誤射を防ぐには慎重にならざるをえない」と考えた。これがフランス軍のやりかただ。民間人を巻き添えにしてでも多くの敵をやっつけたいとは思わない。私はこのやりかたに賛成する。
結局、攻撃はされず、敵もそれ以上の動きを見せないまま、夜がきて暗くなった。私はプルキエ少佐に「VABの後方30mくらいのところでウンコしてきます」と言い残し、FAMASとスコップを手に、荒野を駆けて行った。
ヘルメットに装着された暗視装置を眼の前に下げ、スコップで荒野を掘りはじめた。大きな石がゴロゴロ埋まっており、なかなか掘り進まない。スコップの先端が石とぶつかり合い、“カンカン・・・”と音をたてた。戦術上、こんな音をたてるのはマズい。
なんとか1個の石を掘りだし、そこにできた穴に排便することにした。私はまずFAMASとヘルメットを地面に置き、アーマーも脱いで地面に置いた。フランス軍の携帯糧食に付いているチリ紙をズボンのポケットから取り出したあと、下半身を露出し、しゃがんだ。
今まで、フランスやアフリカで何度も同じような野糞をした経験があるので、穴を外す心配はなかったが、敵の攻撃が心配だった。ほとんどないとは思うが、敵が気づかれないようにほふく前進をして近づいてくるかもしれないと不安になった。
心配しても仕方がない。ビクビクすることは、敵の来る来ないに何ら影響を及ぼすことはない。私は不安感を無視し、落ち着いて排便を始めた。長いこと我慢していたので、屁がたくさん出るし、便も固めだ。
やがて、暗闇に乗じた戦術的野糞は終わった。少量だができるかぎりの土をかぶせ、石をのせたあと、装備を装着し、FAMASとスコップをとり、VABに戻った。これが我々の戦場における用の足しかただ。敵地深くで活動する特殊部隊なんかは、存在がバレないように、ビニール袋や容器に排便し、携行することがある。恐れいってしまう。
←地面は石が多く、硬くて掘りづらい。
つづく
助手席に座る軍医のプルキエ少佐の太ももあたりに水滴がしたたりだした。雨もりだ。上部のハッチは閉めてあるが、車両が古いので隙間ができているのだ。
プルキエ少佐はできるだけ股を開いて水滴を避けたが、座席のキャンバス生地が濡れ、雨水がしみはじめた。やがては尻が濡れる。少佐はモゾモゾし、よい対策がないようだったので、私は「どうぞ」と、小さく畳んであるポンチョを運転席の隅から取り出し手わたした。
少佐はポンチョを広げ、両脚全体にかけた。水滴はポンチョを伝って、助手席の床に流れていくようになった。床には排水口があるので、水が溜まることはない。
「これはとても効果的だ。ありがとう。」
少佐は嬉しそうに言った。
やがて無線から中隊長の声が流れた。
「レッドの隊員1名が山を徒歩で移動中に転落し、脚を骨折。ヘリで搬出される。」
“レッド”とは第2中隊のコールサインだ。
我々はVABの中にいるので雨の影響は受けないが、山にいる第2中隊の一部にとっては、濡れて滑りやすくなった岩や石が大きな障害となる。少し滑っただけでも、アーマーや武器などの重装備により、バランスを取りもどすことが困難だ。
第2中隊にも専属の医療班がいるので、我々が急行する必要はない。骨折した兵士はフランスに戻ることになるだろう。アフガニスタンに着いてから2ヶ月も経っていないのに、気の毒だ。
昨日からずっと、第3中隊のVAB10台が横1列となり、村に面している。COP建設現場へ敵が向かうことを防ぐためだ。村の端からの距離は1kmもなく、敵が攻撃してきてもおかしくない距離だ。
12時が過ぎた。村は静かだ。もしかしたら、雨に濡れるのが嫌で敵は屋内で休んでいるのかもしれない。そうだとしたら、のどかな連中だが、そうとも限らない。油断はできない。
午後に入ると雨がやんで曇り空となった。それと同時に私は大きいほうの便意を催しはじめた。小便なら、運転席から出てすぐ、ズボンのジッパーを下げ、“チューブ”を出して、タイヤのあたりに放尿すればいいだけだ。
大便となると、ズボンも下着もおろし、しゃがまなければならない。しかも、私の場合、アーマーのサイズがやや大きくて、しゃがむにはアーマーを脱がざるをえない。あまりにも無防備な態勢となる。
それ以上に嫌なのは、まわりの同僚に大便の最中を見られることだ。写真を撮られ、後でひやかしの対象とされることがある。排便は誰もがする行為だが、それをおもしろがって白昼堂々と撮影する輩が少なからずいる。あとで写真を掲示板に張られたくない。
私は夜の闇がくるまで我慢することにした。
何も起きない退屈な時間が続いたが、16時頃、私の位置から1kmほど離れた村の端に小さな火の玉が一瞬見えた。実際の大きさは直径5mくらいだろう。土埃が舞う。「もしかしてロケット弾の爆発?」と思うやいなや、“ドーン”という爆発音が耳に届いた。
「ブラック3、敵をコンパウンドに確認。攻撃許可をお願いします。」
第3小隊の小隊長が無線連絡を入れ、そのコンパウンド(土壁でできた現地の家屋)の地点の地理座標を伝えた。中隊長が応答する。
「敵が今も視認できるか?」
「はい。」
平坦な荒野にいる第3小隊から見えるということは、敵は土壁の上部か、壁にある窓や穴や開いた扉から姿を現しているのだろう。中隊長が交信をつづける。
「武器を持っているのが視認できるか?」
「いいえ。」
「撃つな。」
ああ、またこれだ。うっとうしい。私は感情的にそう思った。しかし、理性的には「誤爆・誤射を防ぐには慎重にならざるをえない」と考えた。これがフランス軍のやりかただ。民間人を巻き添えにしてでも多くの敵をやっつけたいとは思わない。私はこのやりかたに賛成する。
結局、攻撃はされず、敵もそれ以上の動きを見せないまま、夜がきて暗くなった。私はプルキエ少佐に「VABの後方30mくらいのところでウンコしてきます」と言い残し、FAMASとスコップを手に、荒野を駆けて行った。
ヘルメットに装着された暗視装置を眼の前に下げ、スコップで荒野を掘りはじめた。大きな石がゴロゴロ埋まっており、なかなか掘り進まない。スコップの先端が石とぶつかり合い、“カンカン・・・”と音をたてた。戦術上、こんな音をたてるのはマズい。
なんとか1個の石を掘りだし、そこにできた穴に排便することにした。私はまずFAMASとヘルメットを地面に置き、アーマーも脱いで地面に置いた。フランス軍の携帯糧食に付いているチリ紙をズボンのポケットから取り出したあと、下半身を露出し、しゃがんだ。
今まで、フランスやアフリカで何度も同じような野糞をした経験があるので、穴を外す心配はなかったが、敵の攻撃が心配だった。ほとんどないとは思うが、敵が気づかれないようにほふく前進をして近づいてくるかもしれないと不安になった。
心配しても仕方がない。ビクビクすることは、敵の来る来ないに何ら影響を及ぼすことはない。私は不安感を無視し、落ち着いて排便を始めた。長いこと我慢していたので、屁がたくさん出るし、便も固めだ。
やがて、暗闇に乗じた戦術的野糞は終わった。少量だができるかぎりの土をかぶせ、石をのせたあと、装備を装着し、FAMASとスコップをとり、VABに戻った。これが我々の戦場における用の足しかただ。敵地深くで活動する特殊部隊なんかは、存在がバレないように、ビニール袋や容器に排便し、携行することがある。恐れいってしまう。
←地面は石が多く、硬くて掘りづらい。
つづく
2013年02月25日
新COP建設Part3
ミラン発射!50m・・・100m・・・150m・・・200m・・・。200mを越えて飛びつづける。やっと正常に作動してくれたか。今度こそいけるだろう。
“シュルシュルシュル・・・ボン、ボン、ボン・・・。”
なんと!落下・・・。調子よく飛んでいたのに、300mくらいのところで落下した。しかも、2回地面をバウンドしたあと、第3小隊隊の狙撃兵ヴェラメユー伍長とドルニック一等兵の伏せている地点からそう遠くない地面で止まったという。2人はスリーピングマットを無造作にたたみ、急いで現場から離脱しVABに戻った。
あっけないと言うか、面目ないと言うか、まるでアクションコメディ映画に出てきそうなギャグが現実に起きた感じだ。しかし、笑ってはいけない。
中隊長に無線が入った。
「ブラック、こちらサファイア。20mm機関砲で標的を撃てます。射撃許可をお願いします。」
「サファイア」とは1RHP(第1機甲パラシュート連隊)所属の20mm機関砲の搭載されたVABのコールサインだ。手動ではなく機械操作で機関砲や砲塔を動かし、射撃できる。護衛としてCOP建設隊とともに現場入りし、今度は戦闘中隊の応援に来てくれたのだろう。
「許可する。」
中隊長が答える。
“ダダダダン・・・ダダダダン・・・。”
M2機関銃の12.7mm弾の発射音よりもキレのある音が聞こえた。結局、ミランのかわりに20mm機関砲がコンパウンドを撃った。コンパウンドがどうなったか見えなかったが、無線で「標的処理成功」と報告がなされた。なんとか敵を撃破したらしい。
目標が達成されたのは良いことだが、それが第3中隊によるものでなかったので、少し不愉快だった。しかも同じころ、別の地点で第2中隊のミランが別のコンパウンドに命中し、敵2名を処理したという情報が後で入ってきた。
第2中隊のミランは命中し、第3中隊のミランは落ちた。競争ではないのだが、敗北感を感じ、くやしかった。一番くやしかったのは落下したミランの射手自身だったに違いない。
なぜミランは3発連続で落ちたのか?
あとで聞いたのだが、それらのミサイルは製造されてから10年以上が経過しており、古かった。そんなに古いミサイルは誤作動の可能性が高く、実弾射撃訓練に用いるのが普通だ。
2008年2月に私が参加したエリックスの実弾射撃訓練では、アフリカの紛争地に数年間配備されていたミサイルをフランスに戻したものを使用したのだが、射手6人のうち4人に誤作動が起きた。ミサイルが全く飛んでいかなかったり、すぐ目の前に落ちたり、途中まで順調に飛んでいたのに急に落ちたり・・・。
実際のところ、第3中隊の備品管理責任者の上級軍曹がFOBトラの弾薬支給担当者に「ミランが古い」とクレームをつけて、新しいものと交換を申し出ていたが拒否されていた。そしてこの有り様だ。そもそも古くなったミサイルがアフガニスタンに搬入されていること自体おかしい。
もしかして新しいミサイルが足りないのだろうか。外人部隊においても、正規軍においても、「装備が足りない」「装備が古い」「装備がボロい」と誰かが言うと、どこからともなく次のような答えが返ってくるのを聞くことがある。
「あたりまえだ。フランス軍なんだから。」
物資の豊かな米軍がうらやましい。
なお、私はミサイルに問題があったと思っているが、別のミラン射手のなかには射手のミスだという者もいた。「自分なら当てられた」と言う者もいたが、私はミランの教育を受けていないので何とも言えない。少なくとも、落下したミランの射手個人を非難するべきではない。彼は不真面目に撃っていたのではない。
その日の夕方、FOBトラから後方支援部隊のVABが来て、新しいミランミサイルを届けてくれた。次回は命中してほしい。
それにしても、実際の戦闘というものは思いのほか、うまくいかないものだ。今回はそのことをつくづく思い知らされた。
ミランの一件が落ち着いたあと、我々は帰還することなく、そのまま荒野のVABの中で一夜を過ごした。車内とは言え、夜は寒かった。昼は暑いくせに。VABには暖房機能があるが、ほとんど効き目がない。
私はヘルメットを脱ぎ、ニットキャップをかぶった。アーマーは暖かいので着たままだ。そのうえにダウンジャケットを布団のように、前面からかぶり、袖に腕を通した。上半身は大丈夫だったが、脚が寒く、膝とつま先は痛いほどだった。我慢するしかない。
あくまで敵性地域にいるため、ADU(中隊最先任下士官)のVAB、車両整備班のVAB、そして我々医療班のVABの乗員9名のうち、ADUを除いた8名で交替しながら、それら3台のVABの周りを警戒した。警戒以外のときは座ったまま眠った。ADUであるウィルソン上級曹長は車内の無線のそばで休んでいた。
こんな夜が6夜つづく。この任務では、まるまる6日間をVABで過ごすことになる。負傷したりして後送されなければの話だが。
↑陽が沈む前に同僚を記念撮影する。
つづく
“シュルシュルシュル・・・ボン、ボン、ボン・・・。”
なんと!落下・・・。調子よく飛んでいたのに、300mくらいのところで落下した。しかも、2回地面をバウンドしたあと、第3小隊隊の狙撃兵ヴェラメユー伍長とドルニック一等兵の伏せている地点からそう遠くない地面で止まったという。2人はスリーピングマットを無造作にたたみ、急いで現場から離脱しVABに戻った。
あっけないと言うか、面目ないと言うか、まるでアクションコメディ映画に出てきそうなギャグが現実に起きた感じだ。しかし、笑ってはいけない。
中隊長に無線が入った。
「ブラック、こちらサファイア。20mm機関砲で標的を撃てます。射撃許可をお願いします。」
「サファイア」とは1RHP(第1機甲パラシュート連隊)所属の20mm機関砲の搭載されたVABのコールサインだ。手動ではなく機械操作で機関砲や砲塔を動かし、射撃できる。護衛としてCOP建設隊とともに現場入りし、今度は戦闘中隊の応援に来てくれたのだろう。
「許可する。」
中隊長が答える。
“ダダダダン・・・ダダダダン・・・。”
M2機関銃の12.7mm弾の発射音よりもキレのある音が聞こえた。結局、ミランのかわりに20mm機関砲がコンパウンドを撃った。コンパウンドがどうなったか見えなかったが、無線で「標的処理成功」と報告がなされた。なんとか敵を撃破したらしい。
目標が達成されたのは良いことだが、それが第3中隊によるものでなかったので、少し不愉快だった。しかも同じころ、別の地点で第2中隊のミランが別のコンパウンドに命中し、敵2名を処理したという情報が後で入ってきた。
第2中隊のミランは命中し、第3中隊のミランは落ちた。競争ではないのだが、敗北感を感じ、くやしかった。一番くやしかったのは落下したミランの射手自身だったに違いない。
なぜミランは3発連続で落ちたのか?
あとで聞いたのだが、それらのミサイルは製造されてから10年以上が経過しており、古かった。そんなに古いミサイルは誤作動の可能性が高く、実弾射撃訓練に用いるのが普通だ。
2008年2月に私が参加したエリックスの実弾射撃訓練では、アフリカの紛争地に数年間配備されていたミサイルをフランスに戻したものを使用したのだが、射手6人のうち4人に誤作動が起きた。ミサイルが全く飛んでいかなかったり、すぐ目の前に落ちたり、途中まで順調に飛んでいたのに急に落ちたり・・・。
実際のところ、第3中隊の備品管理責任者の上級軍曹がFOBトラの弾薬支給担当者に「ミランが古い」とクレームをつけて、新しいものと交換を申し出ていたが拒否されていた。そしてこの有り様だ。そもそも古くなったミサイルがアフガニスタンに搬入されていること自体おかしい。
もしかして新しいミサイルが足りないのだろうか。外人部隊においても、正規軍においても、「装備が足りない」「装備が古い」「装備がボロい」と誰かが言うと、どこからともなく次のような答えが返ってくるのを聞くことがある。
「あたりまえだ。フランス軍なんだから。」
物資の豊かな米軍がうらやましい。
なお、私はミサイルに問題があったと思っているが、別のミラン射手のなかには射手のミスだという者もいた。「自分なら当てられた」と言う者もいたが、私はミランの教育を受けていないので何とも言えない。少なくとも、落下したミランの射手個人を非難するべきではない。彼は不真面目に撃っていたのではない。
その日の夕方、FOBトラから後方支援部隊のVABが来て、新しいミランミサイルを届けてくれた。次回は命中してほしい。
それにしても、実際の戦闘というものは思いのほか、うまくいかないものだ。今回はそのことをつくづく思い知らされた。
ミランの一件が落ち着いたあと、我々は帰還することなく、そのまま荒野のVABの中で一夜を過ごした。車内とは言え、夜は寒かった。昼は暑いくせに。VABには暖房機能があるが、ほとんど効き目がない。
私はヘルメットを脱ぎ、ニットキャップをかぶった。アーマーは暖かいので着たままだ。そのうえにダウンジャケットを布団のように、前面からかぶり、袖に腕を通した。上半身は大丈夫だったが、脚が寒く、膝とつま先は痛いほどだった。我慢するしかない。
あくまで敵性地域にいるため、ADU(中隊最先任下士官)のVAB、車両整備班のVAB、そして我々医療班のVABの乗員9名のうち、ADUを除いた8名で交替しながら、それら3台のVABの周りを警戒した。警戒以外のときは座ったまま眠った。ADUであるウィルソン上級曹長は車内の無線のそばで休んでいた。
こんな夜が6夜つづく。この任務では、まるまる6日間をVABで過ごすことになる。負傷したりして後送されなければの話だが。
↑陽が沈む前に同僚を記念撮影する。
つづく
2013年02月18日
新COP建設Part2
銃撃戦がやみ、ミラン班を指揮する軍曹が無線で中隊長に言った。
「敵グループの潜むコンパウンドを視認。ミサイル発射の許可をください。」
中隊長が言う。
「敵が武器を持っているのが視認できるか?」
「ネガティフ(いいえ)。」
「撃つな。」
敵が数名、そのコンパウンドに隠れているのは確実なのだが、武器までは見えないのだ。敵が武器を持って入るのが視認されたとしても、ミサイルを発射する時点で、武器の有無が確認できなければ、発射許可がおりないようだ。
もしかしたら敵はすでに銃をどこかに隠し、今は非武装かもしれない。そうなると、民間人と区別がつかない。別の言いかたをすれば、非武装なら民間人と見なさなければならない。この原則を無視すれば、民間人誤射を招き、タガブ谷の住民たちを敵に回してしまうかもしれない。非常に難しいところだ。
少しして、ふたたびミラン班の軍曹が無線で言った。
「敵の武器を視認。発射許可をください。」
よし!今度こそ撃て!私は心のなかでそう叫んだが、中隊長は慎重だった。
「周囲に一般人はいないか?」
中隊長の質問に、ミラン班ではなく、35RAPの観測班が答えた。
「3人の子供が見える。」
「撃つな。」
またしても撃つことができない。しかし当然だ。子供を巻き添えにすることは絶対にできない。敵はそういう事情を知ったうえで、子供たちをコンパウンドの周辺に立たせているにちがいない。そうでなければ、村人は老若男女、戦闘中に屋外にいるはずがない。「人間の盾」だ。
無線を聞いて私がくやしがっていると、上空に米空軍のF15が現れた。まさか空爆はしないだろう。私は実のところ、航空機の火力についてよく知らないが、この村みたいに家屋が集中している環境で、空から投下するような爆弾は威力があり過ぎるのではないかと思う。民間人が巻き添えになってしまう。
やがて、F15は300mほど上空を、谷の西から東へと飛行した。そして村の上空にさしかかったとき、“ポポポ・・・”とフレアを何発か発射した。明るい火の玉が白い煙の尾をひいて降下し、やがて空中で消滅した。
フレアに殺傷力はないが、敵は恐怖を感じたはずだ。
ミラン班から無線が入る。
「コンパウンド周辺から子供たちが立ち去りました。発射許可をください。」
子供たちもフレアに驚いたようで、うまい具合にコンパウンドの敵は「人間の盾」を失った。さて、中隊長はなんと言う?
しばらく間があいたあと、中隊長の指示が無線から聞こえた。
「発射を許可する。」
ついに中隊長がミランミサイルの発射を許可した。村の端から約1km離れた地点から、ミラン射手はコンパウンドに狙いを定める。ミランの有効射程距離は500~1800mだ。地面に伏せて撃つのか、VABの上から撃つのか、私からは見えない
この瞬間のために、彼は苦しい訓練に耐えてきた。ミラン班の仲間たちと、重いミサイルや発射機をかついで山野を駆け巡った演習もこの瞬間のためだった。ついに実戦で成果を発揮するときがきた。
射手は発射ボタンを押した。
“シュルシュルシュル・・・。”
ミサイルが標的めがけて飛び出す。100mくらい飛ぶと、突然ミサイルが地面に落ちた。爆発はしない。無線でミラン落下が報告される。「よりによってこんなときに!」といらだちを覚えた。
射手たちの現場には「なぜ落ちたか」を考えている暇はない。失敗したなら再度挑戦するだけだ。装填手が次のミランを発射機に設置する。射手は発射ボタンを押した。
“シュルシュルシュル・・・。”
2発目は100m地点に落ちているミランを越えて飛びつづける。その調子でこのままコンパウンドに命中しろ!150m・・・180m・・・200m。落下!200mくらい飛んだが、また落ちた。あっけない・・・。
落下の報告が無線で流れたとき、中隊全体で落胆の声があがっただろう。VABの助手席に座る軍医までもが「ちくしょー」と漏らした。
私は実弾射撃訓練において、ミランとは別の「ERYX(エリックス)」という、射程が50~600mの対戦車ミサイルを撃ったことがあるが、私の前後に撃った射手たちの何人かにミサイルの不調による落下や不発が起きた。そのため、今回のミラン落下もミサイルが不良品なのではないかと私は思った。しかし、射手の技能を疑いだす者もいたことだろう。
ミラン班は発射機に問題がある可能性を考慮し、発射機を替え3発目を設置した。射手は交替しない。三度目の正直だ。
つづく
←フランスの演習場にて、エリックス発射器を持つ著者とミサイルを持つ後輩
←実弾射撃訓練のまえに記念撮影する射手たち
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。
「敵グループの潜むコンパウンドを視認。ミサイル発射の許可をください。」
中隊長が言う。
「敵が武器を持っているのが視認できるか?」
「ネガティフ(いいえ)。」
「撃つな。」
敵が数名、そのコンパウンドに隠れているのは確実なのだが、武器までは見えないのだ。敵が武器を持って入るのが視認されたとしても、ミサイルを発射する時点で、武器の有無が確認できなければ、発射許可がおりないようだ。
もしかしたら敵はすでに銃をどこかに隠し、今は非武装かもしれない。そうなると、民間人と区別がつかない。別の言いかたをすれば、非武装なら民間人と見なさなければならない。この原則を無視すれば、民間人誤射を招き、タガブ谷の住民たちを敵に回してしまうかもしれない。非常に難しいところだ。
少しして、ふたたびミラン班の軍曹が無線で言った。
「敵の武器を視認。発射許可をください。」
よし!今度こそ撃て!私は心のなかでそう叫んだが、中隊長は慎重だった。
「周囲に一般人はいないか?」
中隊長の質問に、ミラン班ではなく、35RAPの観測班が答えた。
「3人の子供が見える。」
「撃つな。」
またしても撃つことができない。しかし当然だ。子供を巻き添えにすることは絶対にできない。敵はそういう事情を知ったうえで、子供たちをコンパウンドの周辺に立たせているにちがいない。そうでなければ、村人は老若男女、戦闘中に屋外にいるはずがない。「人間の盾」だ。
無線を聞いて私がくやしがっていると、上空に米空軍のF15が現れた。まさか空爆はしないだろう。私は実のところ、航空機の火力についてよく知らないが、この村みたいに家屋が集中している環境で、空から投下するような爆弾は威力があり過ぎるのではないかと思う。民間人が巻き添えになってしまう。
やがて、F15は300mほど上空を、谷の西から東へと飛行した。そして村の上空にさしかかったとき、“ポポポ・・・”とフレアを何発か発射した。明るい火の玉が白い煙の尾をひいて降下し、やがて空中で消滅した。
フレアに殺傷力はないが、敵は恐怖を感じたはずだ。
ミラン班から無線が入る。
「コンパウンド周辺から子供たちが立ち去りました。発射許可をください。」
子供たちもフレアに驚いたようで、うまい具合にコンパウンドの敵は「人間の盾」を失った。さて、中隊長はなんと言う?
しばらく間があいたあと、中隊長の指示が無線から聞こえた。
「発射を許可する。」
ついに中隊長がミランミサイルの発射を許可した。村の端から約1km離れた地点から、ミラン射手はコンパウンドに狙いを定める。ミランの有効射程距離は500~1800mだ。地面に伏せて撃つのか、VABの上から撃つのか、私からは見えない
この瞬間のために、彼は苦しい訓練に耐えてきた。ミラン班の仲間たちと、重いミサイルや発射機をかついで山野を駆け巡った演習もこの瞬間のためだった。ついに実戦で成果を発揮するときがきた。
射手は発射ボタンを押した。
“シュルシュルシュル・・・。”
ミサイルが標的めがけて飛び出す。100mくらい飛ぶと、突然ミサイルが地面に落ちた。爆発はしない。無線でミラン落下が報告される。「よりによってこんなときに!」といらだちを覚えた。
射手たちの現場には「なぜ落ちたか」を考えている暇はない。失敗したなら再度挑戦するだけだ。装填手が次のミランを発射機に設置する。射手は発射ボタンを押した。
“シュルシュルシュル・・・。”
2発目は100m地点に落ちているミランを越えて飛びつづける。その調子でこのままコンパウンドに命中しろ!150m・・・180m・・・200m。落下!200mくらい飛んだが、また落ちた。あっけない・・・。
落下の報告が無線で流れたとき、中隊全体で落胆の声があがっただろう。VABの助手席に座る軍医までもが「ちくしょー」と漏らした。
私は実弾射撃訓練において、ミランとは別の「ERYX(エリックス)」という、射程が50~600mの対戦車ミサイルを撃ったことがあるが、私の前後に撃った射手たちの何人かにミサイルの不調による落下や不発が起きた。そのため、今回のミラン落下もミサイルが不良品なのではないかと私は思った。しかし、射手の技能を疑いだす者もいたことだろう。
ミラン班は発射機に問題がある可能性を考慮し、発射機を替え3発目を設置した。射手は交替しない。三度目の正直だ。
つづく
←フランスの演習場にて、エリックス発射器を持つ著者とミサイルを持つ後輩
←実弾射撃訓練のまえに記念撮影する射手たち
アフガン体験記は毎週月曜日に更新します。ご意見・ご感想など、お待ちしています。